* 王子様は悪役になりたくない 3
「殿下。殿下、聞いてらっしゃいますか? お手が止まっております。……失礼いたします」
突然パンっという破裂音がして、驚いて瞬きすると、呆れたような顔の侍従が多分音の原因と思われる両手を下ろしながらため息をついた。
「殿下。手が止まっております。考え事ならさっさとお話しください」
「……ごめん。そうだね……彼女は前からずっと、僕に興味がないみたいだった」
それでも話しかければ、彼女はいつも僕の話を聞いてくれた。彼女は護衛の女性を寡黙な人と言ったけれど、彼女自身も口数の多い方じゃないと思う。あまり、彼女自身のことは話してくれなかった。
話しかけてばかりいたから、彼女が自分のことを話す機会を奪ってしまったのかもしれない。
それに時折、思い出したように婚約の申し出を遠回しに断ろうとしてきた。
特質が足枷になると思って、なんとかこの婚約をなかったことにしたかったのかもしれない。
その度に、そんなに興味がないのかなとか、やっぱり態度がよくなかったからなのかなとか、自分のことしか考えてなかった。
今日初めて聞いたけど、硝子を引っ掻く音というのは、本当に堪え難いものだった。硝子を見てしまうと、ちょっと思い出してうっとなる。
特質を思えば、きっと人と会うのは苦痛に違いない。
だからこそ彼女は人見知りだと言ったんだろう。初対面の挨拶なら、確かに体に触れようとする人はまずいない。
だから市井にも興味がない、あるいは行きたくても行けないのだろう。人で溢れるような道を歩くのは、彼女にとって苦痛以外の何物でもないということ。
だけどそうは言わなかったのは、……もしかしたら、彼女を婚約者にと望んだ僕が責められるかもしれないと思って、言わずにいてくれたのかもしれない。
あの告白を聞いたのは、数少ない護衛と従者だけだった。メイドは下げられていたし、あれもユニウスの考えだったのだろうか。
……いや、賢者殿の考えなのか。
……彼女は姉のような存在と言ったけれど、……
賢者殿に会ったのは、数える程。
先代の賢者殿が位を譲るということで、伴ってきたのが、記憶にあるうちで初めて。
白皙の肌、玻璃のような瞳。姿勢の良いその背を覆う白金。細身の剣のような美しさ。
印象はいつも共通して美しいけれど、女性的とは思えなかった。ユニウスのような男らしさとは無縁だけれど、女性らしさと言えるような柔らかさや優しさとは縁遠い。
彼女に向けた微笑は確かに優しいものに見えたけれど、彼女が安心したように微笑んで、それにすごく嫌な気持ちになった僕が、とっさに「賢者殿」と呼んだ時にこちらに向けられた笑顔は、冷たく硬質なものに見えた。
あんな風に彼女に笑ってもらうことのできない僕のやっかみかもしれないけれど、そこには嘲りのようなものまで感じられた。
見せつけられたような、見透かされたような――
「……賢者殿は、……独り身……?」
特大の溜息。
「えーと……」
「……賢者殿は社交界には全くおいでになりません。下位とはいえ立派な貴族位。爵位もお持ちですが、ご興味が研究にしかないようで。あの賢者殿が結婚なされたら、殿下の耳に入らぬ筈がありません。メイドから失礼ながら妃殿下までその話で持ちきりでしょう」
ユニウスも宮中の女性に大人気だけれど、賢者殿も大人気だからね……
賢者殿を初めて見たその日、僕は初めて、硝子製品や陶器が割れる音というのを聞いた。
「あらあら。仕方ないわね」
妃殿下の、困ったものね、と気持ちはわかるわ、が混ざったようなその表情に、女官長は顔を顰めて謝罪した。
よくわからない僕の前で、「私ももうすこおし若かったら」と聞こえた瞬間、陛下がティーカップを落とした。
じとっとした目で妃殿下を睨む陛下に、妃殿下は軽やかに笑った。
「あらあら。陛下も同じことをなさったのだから、今回はお咎めなしにしてあげて」
鷹揚にそう告げてから、妃殿下は陛下に微笑んだ。
「そうでしょう、陛下。ブルーローズは万人の目を奪うもの。例外はなく」
その時の僕は、ブルーローズが特定の人を指すとは知らず、単純に美しいもの、目をひくものの例えだと受け取っていた。だから「陛下も同じことをなさった」という妃殿下の言葉が、二つの意味をもつことも気づいてなかった。
陛下が気まずそうに視線を落として、首を横に振ったのが、子供の前でする話じゃないという意味だったと気づいたのは、もっとずっと後のことだった。
この国で最も尊い夫婦の話はひとまずおいておくとして。
物が落下したり、人がぶつかったり、普段よりも香料の香りが充満したりと、賢者殿が現れると何かとトラブルが起きてしまう。
本当だったら、もう少し位の低い貴族まで家族連れで招いたガーデンパーティも開きたかったんだけど、賢者殿とユニウスが揃う今日は、下手したら用意した茶器が全部割れちゃうかもしれないからというのもあって、取りやめになった。
彼女もあまり出歩くのは好きじゃないと言っていたから、僕としてもそれで良かったし、人見知りだと聞いたから、尚更それで良かったと思った。
「貴族位こそ下位とはいえ、この国にとって重要な存在です」
「……そうだよね。……どうして、知らなかったんだろう。彼女は勉強が嫌いではないと報告を受けたけど、……あまり進んでないのかな」
「立ち居振る舞いやマナーはよく馴染んでおいでのようにお見受けしました。……賢者殿ご自身が、ご自分のことをあえて伏せたのかもしれません」
「……あえて?」
「仰っていたでしょう。賢者殿を家庭教師にするのは、『国として歓迎できない』のでは、と。婚約者様が、賢者殿の地位を知れば、そのように判断するのではとご存知であればこそ、伏せておられたのではないかと」
「……ねぇ、それってやっぱり、賢者殿はあの……彼女が好きだよね……?」
「それについては控えさせていただきます」
「やっぱりそうだよね?! そう見えるってことだよね?」
「それについては発言は控えさせていただきます。殿下がお考えになるべきなのは、婚約者様の教育をこのまま公爵家に任せるか、王宮で行うかなのでは?」
「それってそういうことだよね!?」
「――何がそうなのかはあえてお尋ねしませんが、殿下がどうしても王宮で婚約者様に学んでいただきたいのなら、婚約者様が賢者殿を知らなかったという一事は使えます」
「そ、そうだね」
「ですが、公爵様はそのままご令嬢に伝えるでしょう。婚約者様の殿下への心証は更に下がります」
「更にって言った!?」
「婚約者様は賢者殿を慕っておいでだそうですから、引き離した殿下への心証はまず上がりませんね。下がる一方です」
「で、でも、……その……良くないよ、だって」
「今日は王宮ですからいらっしゃいませんでしたが、護衛の女性は、賢者殿が公爵邸に赴く際は必ず婚約者様に付いてらっしゃるでしょう。殿下が想像しているような不埒な真似は断じて許さないでしょうね」
「……でも、その護衛の女性がどんなに強くたって、賢者殿だよ? 止められないんじゃ」
「ユニウス殿が仰っていたではありませんか。公爵家の使用人はなんでも公爵様にお話しすると。相手が誰であれ、恐る公爵様ではありません」
「……ねぇ、なんでも話すんなら、僕の口調も」
「殿下のことは好意的だと仰っていましたから、婚約者様ご本人からでなければ心配ないかと。ですが、殿下の婚約者様への片思いぶりは伝わっていると思います」
片思いって言った! 片思いって!
「なので、殿下の恋煩いが悪化して、婚約者様に毎日会いたいが為に、婚約者様の無知を利用したと思われるかもしれません」
「……すごく恥ずかしいしなんていうか卑怯だし嫌だ」
「殿下も婚約者様に対して失礼なことを仰いましたよね」
と言われても、思い返してみても失礼な発言しかしていないことに改めて頭が痛くなる。どれだろう。恥ずかしくて卑怯。
……あ。
ユニウスに、色ボケ男って言われたあれ?
思い当たって思わず頭を抱える。
手から滑り落ちたペンは机から落ちた。
はぁ、とため息を吐きつつ、ノートンが拾って机に置いてくれた。
「そうです。殿下はそういう発想の仕方をされる人間である、という心証はお持ちでしょうね。あの時の婚約者様の表情を思えば」
……うん。ちょっと可愛かったっていうかすごく可愛かった。だけど、そのぽかんとした顔は、思いつきもしなかったということで。
彼女は恋をしたことがないと言った。それに安心したし、何故か納得してしまった。彼女はなんだか、あんまり……そう言ったことには、縁がなさそうな不思議な雰囲気がある。
だから、賢者殿に手を握られてほっとしたように微笑むのを見た時は驚いたし、なんだか嫌な気持ちになった。
「……僕が全面的に悪いのは認めるけど、賢者殿は……理由はわかったけど、……挨拶に来た時、僕の前で祝福だと偽って手を握ったりしたから、ちょっと……冷静じゃなくなってたんだ」
「――偽って?」
「うん。手を握った時、祝福じゃなかった」
「……それは、殿下の目に見えなかったということですか?」
「うん」
「――私は王族ではないのでいつもと同じようにしか見えませんでしたが」
「賢者殿は複数の加護持ちだから、その数だけ見えたはずなんだ。見えにくいものもあるにはあるけど、それを考慮しても、全然見えなかったのはおかしい。だからあれは、……彼女の特質に対する手当てとか応急処置みたいなものだったんだと思う。それを僕は知らなかったから……」
「なるほど。殿下が冷静でなくなるのも今回ばかりは仕方ありません」
「そ、そう?」
いつも容赦なく叱るのに。
僕にも言い分があるとは思って言ったけど、それが受け入れられたのは初めてだ。
「賢者殿のお立場で、婚約者様の外聞を守り、手当てするにはそう言う他なかったのでしょう。ですが祝福をしても問題なかったはずです。いえ、するべきでした。王家の眼をもつ殿下が婚約者様の真横にいたのですから」
……え?
「それをあえてしなかった。殿下がお怒りになるのも仕方ありませんね」
「……怒って良いの?」
「良くはありません。が、無理からぬことです。賢者殿の思惑がどうあれ、その時点での殿下の対応はご立派でした。なので同情の余地ありと言ったところです」
小声で「見せ付けられたらまぁ怒りますね」と言われて、首を傾げると首を振られた。
「しかし……殿下はなぜ、婚約者様にだけは配慮ある対応をなされないのか……」
「……僕も知りたい」
今日だって、言いたいことはたくさんあったはずだった。
いつも綺麗だけど、髪を結い上げた彼女はいつもと雰囲気が違って、大人びて見えた。
プレゼントした髪飾りを付けてくれていたのはとても嬉しかった。
陛下や妃殿下、女官長まで相談に乗ってくれて、一生懸命選んだそれを、ちゃんと付けてきてくれた。
全然僕に興味がなくて、話しかけなければ窓の外を眺めていたりして、ちょっとだけ吊り目がちな顔立ちのせいか、彼女は何となく猫っぽい。
だからもしかしたら、使ってもらえないんじゃないかなと思っていたから、余計嬉しかった。
彼女はいつも髪を下ろしていて、歩くたびに背中でサラサラと揺れている。
妃殿下と女官長が、王宮で踊る場合は髪は結い上げるのが普通だと教えてくれたから、どちらでも使えるようなものを贈った。彼女の黒髪に似合うものを。
結い上げた髪の、一番目立つ位置に彼女はそれを使ってくれていて、微笑んでくれていた彼女はすごく綺麗だったし可愛かった。
それを素直に伝えれば良かったのに、普段よりも大人っぽく見える彼女を前にして、舞い上がる自分がどうしようもなく子供っぽく思えてしまった。
それが嫌で、あんな態度に……
けど、彼女は微笑んでくれた。
それに、ダンスの前に、彼女は初めて頼ってくれた。「お任せします」と言って笑顔を見せてくれた彼女は本当に可愛かった。
彼女は笑うと、とても柔らかい雰囲気になる。いつもと違う見た目と、初めて僕に向けられたとびきり柔らかい笑顔。
大人っぽく見えていた彼女は、そうやって微笑むとちゃんと同い年の女の子に見える。もちろん、それでもとびきり綺麗だけれど。
僕が守るんだと思った。
だって頼られたのは僕で、彼女の「先生」じゃない。
そう、思っていたのに。
「殿下」
「えっ」
「……婚約者様が今日は特に可愛らしかったのはわかりますが、そろそろぼんやりするのはおやめください」
「えっ、な、何言ってるの!? 僕の婚約者だからね!?」
特大の溜息。
「……明るい色もお似合いでしたね」
「だから!」
「殿下はお好みではありませんか?」
「そんなわけないでしょ!? 似合ってたよ! いつも紺色とか暗めの色多かったからびっくりしたけど、明るい色も似合うんだなって思ったし、いつでも可愛いよ!」
いつも彼女は肌の出ない服を着ていて、今日はどうだろうと思ったけど、そこは変わらなかった。寒がりなのかもしれない。女性は裾を踏まないのかな、なんていつも妃殿下を見ていて思う衣装も、彼女が着るのを見れば、とても綺麗だと思えた。
「……でしたらご本人にそう仰ってください。これから、婚約者様を褒める方は大勢いらっしゃいます。その度にそう目くじらを立てていては。ご自分は仰らない、他の方が言えば怒る、それでは婚約者様があまりに不憫です」
「い、いつも思ってるし、言おうとしてるんだよ!?」
「伝わっておりません」
「だって、は、恥ずかしくて……頭が熱くなって気がつけば……」
「口に出して言えないのでしたら、手紙でお伝えください。頭の中でばかり溜めてらっしゃるから、こうやって支障が出るのです」
「……ごめんなさい」
それから手紙を書く時間はあとできちんと取ることに決めて、目の前のことに気持ちを切り替えた。
それでも、少なくとも五回はぼーっとしていたみたいで、ノートンの声や柏手でハッとなってその都度お説教を受ける羽目になった。
「……下位貴族でも、賢者殿の地位を考えると、公爵令嬢を望んでも許されるよね……」
「……生まれ持っての爵位こそ下位ですが、受け取りこそすれば……陛下がいくつか」
「爵位授与の式典の時間と、領地をいただいても治める時間がないからって断ったんだよね」
「ええ。……要約すれば『忙しいから却下』と言ったところですね。ですが、殿下の婚約者様を望むのは難しいでしょう」
「そ、そう?」
「殿下とご婚約なされていることを差し引いても、最大の難関はあの公爵様ですね。象牙の塔を敵に回したいという命知らずは国内にはおりませんが、公爵家は王家ともやろうと思えば戦えますから」
「……内乱は困るよ」
「でしたら、殿下。いい加減お口振りを改めてください。公爵夫妻に知られたら廃嫡の憂き目もと、何度お諌めしたことか」
「わかってる」
「お分かりいただいても改めていただけなければ意味がありません」
「はい……」
「万が一にも、賢者殿のお耳に入れば、本当にどうなるかわかりませんよ」
「それはダメ!」
「でしたら」
と始まったお説教は長々と続いた。
今日は本当に、途中までは最高の気分だったのに。




