一度も昼寝をしたことがなかった私の昼寝について。
あまりに眠れなくて窓を開けた。
どうも昼間寝すぎたらしい。
この世界でありがたいのは虫が少ないこと。服を選ばなくていいこと。お金の心配をしなくていいこと。両親が優しいこと。身近に私を……嫌う人が今はいないこと。
この世界で辛いのは、……一人になれる時間が少ないことだ。
日前で私は好きなことが何もできなくなっても良い。ただ家族から離れたいと考えていた。
それは私が家族というものを毛嫌いしているからだと思っていたけれど、どうやらHSPの特質だったらしい。
なんの文句もないような、絵に描いたような優しい両親とメイドと護衛。
だけど、——息が詰まる。
窓から入ってくる風は少し冷たい。
このまま外に出たら——
窓からほんの少し身を乗り出す。
家族中から嫌われていた私の部屋はベランダに面していて、よくそこで蹲っていたのを覚えてる。
考えるのはだいたい同じ。
ここから飛び降りたら死ねるだろうか。
命を賭して願ったのなら、奇跡は起きるだろうか。
私に優しい親が欲しかった。
もっと良い子になれるだろうか。
そうしたら、優しくしてもらえるかな。
こんな汚い私でも。
「……結局無理だったな……はは……」
死ぬことも飛び降りることも。どんなに頑張っても良い子にはなれなかった。私が自分の体をどうしようもなく汚いと思う理由を知った時、誰かに優しくされたいと思うこともなくなった。
何一つ叶わなかったなぁ……
夜風に靡く髪を手で押さえた。
あの頃のように下を見れば、月明かりで庭の様子がよく見える。
私の目は一種異様な色の薄さで、月明かりで本が読めるような目だった。だから暗がりを怖がることはなかった。夜でも普通に見えるからだ。
色の濃い目は夜目が効かないと本で知って、謎が解けた。弟は異様に暗がりを怖がって、灯りを点けたままでないと夜眠れなかった。
気味が悪かったんだろうな。
異様に夜目の効く私が。
真っ黒な瞳は、確かにあの頃見ていたよりも物の輪郭が曖昧だった。
なるほど、これが怖いのかと思いもしたが、ひどい近視と乱視を持った大人時代を思えば、メガネを外した時と対して変わらない。
怖いとは思わなかった。
我ながら可愛げがない。
そんな目でもこれだけ明るければ流石に庭くらい見える。満月の夜は一際明るい。
視線を空へ転じようとした時。
ん? 今、何か光っ——「っ!?」
思わず令嬢らしからぬ声が出そうになったが、なんとか咬み殺す。
夜中に悲鳴なんか上げようもんなら、屋敷中が大騒ぎになってしまう。
欄干に飛び乗ってきた護衛その2は、「……マリー様、ご無事でしたか」と安心したように潜めた声で言った。
いや、あなたのせいで今ご無事じゃなくなりかけましたけど。
心臓がばくばく言っている。
無論ときめきじゃない。驚きで。あと咄嗟に床を蹴って部屋の方へ飛び退いたから、急に動いたせいでもある。
「……はい」
なんとか呼吸を整えて返事をすれば、「よかった」と笑った。
何がよかったって?
「こんな夜中に窓が開く音がしたもんだから、何かあったのかと思いましたよ。
……あ、なるほど。
強盗とか、泥棒、もしくは誘拐。
そういやこの人護衛だけど、元は騎士だ。犯罪を取り締まるのも役目か。
「すみません……夜風に当たりたくなって」
「あ〜、いや、別に謝るようなことじゃないですよ。こっちこそ、驚かせてすみません。何もなくて良かった」
……仕事の邪魔、しちゃったなぁ……。
「すみません」
「そんな謝ることじゃないですって。何事もなく無事で生きていてくれれば」
ちょっと笑ってそんな風に言ってくれる。
「職務上、夜中に窓の開閉があったら一応確認にきますけど、そっとしておいてほしいようなら、一回、下に向かって手を降ってください。それ見えたら、下から見守ってるんで」
え、でも、それって結局仕事増やしてるよね?
「マリー様が良ければ話し相手になりますけど?」
茶目っ気たっぷりに護衛その2はウインクした。
丁重にお断りします。
なんて言えないから、私は笑って「お気遣いありがとうございます。ぼーっとしたいだけですから、次からは手を振りますね」と答えた。
どんなに優しい人でも、それが人間ってだけで、長時間一緒にいるのはしんどい。
一人の時間をこれ以上減らされてたまるか。
すると何がツボに入ったのか、声を抑えて笑い出した。
「あの……?」
「夜の散歩がしたかったら、一声かけてください。付き合いますよ。俺でもルディでも」
「いえ……本当に、ただ風に当たりたかっただけで、夜遊びがしたいわけじゃないんです」
「本当に?」
「? ええ」
何を疑ってるのか。
「マリー様は、本当は家にいるより外に出る方が好きかもしれませんよ」
それはない。
日前の家ならともかく、どうしてここで。
「さっきの反応はなかなか良かった。護身術なんてやってませんよね?」
……しまった。
令嬢らしからぬのは声だけじゃなくて動きもだったわ。さっき咄嗟に飛び退いたのは失敗だったかもしれない。
護身術なんて習ってない。ただ、暴力と隣り合わせの生活で、自然と避け方が身に付いただけだ。
黙ったままでいると、ふっと笑う気配がした。
「ま、夜風に当たるのも結構ですが、体が冷える前にちゃんと窓閉めて寝てくださいね。じゃないと俺があいつに怒られる」
この人の「あいつ」は多分先生。
私はそれにちょっと笑った。雇い主であるお父様やお母様に叱責を受けるより、この人にとっては、先生の方が怖いらしい。
優しい人ほど怒ると怖いって言うから、そうかもしれない。私も昔、怒らせたら一番ヤバいんだろうなって思うって言われたことがある。私は、誰かを怒ったりする勇気がなかっただけだ。それに、家族にされてきたことを思えば、大抵の人にされることは、怒るほどのことじゃない。
「じゃ、おやすみなさい」
……これは、ただの挨拶か、早よ寝ろって意味か、どっち?
「……おやすみなさい」
悩みながら挨拶を返すと、ふわっと欄干から飛び降りた。
しばらく見つめていたけど、物音はしなかった。着地成功ってことだろう。
ファンタジーな動きする人だな。
……まぁなんていうか、心配はしなかった。さっき光って見えたのがなんだったのかはわからないが、多分あの人はどこかからここへ飛び乗ってきたわけだから、下りる手段もあるんだろう。
そうやってしばらく眺めていると、自然と欠伸が出た。
……寝よ。
人前で寝たのは初めてだ。
熟睡なんてできないはずが、目が覚めた時は何十年ぶりだろうというくらいスッキリしていた。
全く本当に自分がわからない。
だけど、もしかしたら、だから人は恋人を欲しがるのかなぁと少し思った。
小並感。
まぁ二度はない。
これが恋情に育つこともない。
私が大人になった頃には既に多分死語になっていたと思うが、恋バナはいつも聞く方の私に、「本当に好きな人誰もいないの? 隠してるんじゃなくて?」と何度も聞いてきた女の子がいた。
その子は、私が酒を絶対飲まないのも気にしていて、断り疲れた私が、「親の酒癖が悪かったから飲みたくない」とついに言ってしまった日にも、笑いながら、「え、なに、脱ぎ癖があるとか?」と朗らかに尋ねてきた。
健康的な家庭に育った人なのだろう。
酒を飲めば怒鳴って、暴れて、物にも人にも当たるような人間が、身近にいるなんて考えもしないのだろう。
だから私は笑って首を振った。
あの日も私は、「人間的には好きな人もいるけど、恋愛として好きな人はいないかなぁ」と笑って答えた。
「その人にキスされたところ想像してみたら? ときめいたら恋だよ!」
なんの脈絡もないところでフラッシュバックする私が、そんなことを言われたらどうなるかなんて火を見るよりも明らか。
人間的に好きな人は大勢いる。目の前の女の子の、喧嘩できるほど仲のいい家族や恋人がいる健全さを私はとても好きだった。ぷりぷりと怒って話して聞かせてくれる様も可愛いと思っていた。
それでも、頭の中に浮かぶのは忌々しい過去の情景と、目の前の女の子の顔が突然醜悪に歪む幻覚。
私にとっては嫌な記憶としか結びつかない。意味も知らず強制されるまま従っていた忌々しい小さい頃の記憶。
想像してときめいたら?
苦笑しか浮かばない。
多分きっと、私の最悪な記憶から五十年は時が過ぎたはずだ。
信長時代の人間の寿命をとうに過ぎても、私の記憶はちっとも消えてくれない。
思い出は美化されるものというけれど、それなら普通の人にとっては、美化は絶対に無理でも嫌な記憶も嫌悪感が薄れるものではないのだろうか。
忘却は神が与えた最大の幸福である。
どこかでそんな言葉を読んだ記憶があるけれど、だとしたらやっぱり私は神様に嫌われているらしい。
頭の中で先生の顔が黒く塗り潰されていく。
何度も続くこのループする人生で最大の幸福は、私が悪役令嬢であること——ヒロインでないこと。
もうあんな目にあうことはない。
この世界は優しい世界だ。
悪役令嬢に対しても、最低限の保証はしてもらえる。
あんな目にあったりしないのだから。
些細なことで蘇る最悪な記憶さえ封じ込めることができれば、私はこの世界ならもっと楽に生きられるのに。
窓を閉めると、月明かりに慣れ過ぎた目が、窓に映った自分を写す。
元の私とは比べ物にならないほどの美少女が、顔を歪めて泣きそうな顔で笑っている。
「……気持ち悪い」
過去の記憶も、想像も、想像しようとした自分も、目にうつる美少女の中身が私なのも。
込み上げる吐き気に小声で漏らす。
視点をずらして空を見上げる。満点の星空。
首を振る。
さっさと寝てしまおう。せっかく、護衛その2が気を紛らわせてくれたんだから。




