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二転三転する私の人物評について。

「……家庭教師に随分懐いてるそうだな」

 ――は?

 なんでそんな話?

「誰が、そんな」

 殿下の目が護衛その2の方をちらっと見た。

 ……ああ、ああ、そう。

 そうか。ちょっと……善意に解釈し過ぎてたかな。

 いっつもこうだ。ちょっと優しくされると味方だと思い込んで、ほんとは嫌われてるのに気づかず自滅する。この人は騎士団所属だ。私の護衛を辞めたって、職を失うわけじゃない。なのにあんな、……ちょっと庇われたからって、ばかみたいだ。

 先生の友人だからって油断したわ。

 あれはもともと裏切り者の代名詞みたいな名前してんのに。

 思わず笑ってしまった。

「……ええ、私が、一方的に懐いています。先生は、義弟の方がお気に召しているようですわ」

 ――返事がない?

 顔を上げてみれば、殿下はまた顔を赤くしていた。

 何を怒ってるんだ?

「そっ、……それは、よくないだろ、変えた方がいい」

「変える? 何をです?」

「……君の、家庭教師だろう。君の好意を無下にするような奴に、家庭教師をする資格は」

「あはは」

 なんだそれ。皮肉か。

 好きな人に好きになってもらえないのなんて通常運転。

 教師にだって好き嫌いはある。

 だけど、これだけ見た目愛くるしい殿下には、そんなことは考えられないのかもしれない。

 いじめには加害者と被害者と傍観者がいるけれど、傍観者にだって種類がある。見て見ぬ振り派と、そこで起きていることがいじめだと認識すらしていないタイプ。きっとそのタイプの人は、気づきさえすれば庇ってくれたのだろう。今の、殿下のように。 

 そして、今の私の態度はお気に召さないのかもしれない。もっとキラキラした目で見ないといけないのか。婚約者として選んでいただいたのだから、恐縮しつつ毎日ハッピーでいなきゃダメって? 生憎付随するものが重過ぎて無理。

「先生には感謝しているんです。先生が私を見てくださるおかげで、私は家にいることができますから」

 そうでなかったら、多分もう、とっくに王宮に上がってなきゃいけない年齢だ。

「……家にいたいのか」

「私はあまり出歩くのが得意ではないんです」

 本当は引き籠って何もしたくないんですええ。もうずーっと寝てたい。

 だけど殿下は、やっぱりまともな人だ。少し変わってるが、私が蔑ろにされてると思って、怒ってくれるんだから。

 共感力が強すぎるのは生きててしんどいけど、全く共感力のない人間は人として最低だ。

 日前の私の家族のように、目の前で娘が殴られて蹴られていても、それを見て助けようとも思わない人間になる。

 だから、殿下が怒ってくれるのは、ありがた迷惑だけど、ホッとした。

 まぁ、それはそうだ。この人は一応、攻略対象なんだから、性根の腐ったような人間であるはずがない。

「……市井にも興味はないのか」

「……申し訳ありません。殿下の婚約者として失格ですね」

「そんなことは言ってないっ!」

 ……また怒鳴られた。




 読んでいた手紙が手から滑り落ちた。

 ――観劇?

 殿下と二人で?

 私が?

 いやいやいや無理無理無理。

 私映画は集中してみたい方だし、隣に知人がいるとその人と分かち合いたいと思う厄介な性分なんだ。

 同級生や家族ならともかく、なんで殿下と。

 いやそりゃ、婚約者だからなんだろうけどさ。

 そもそも観劇って、映画とは違うし、いやだ……面倒だ……行きたくない……

 どうせ見るなら、メイドとか護衛の……昔からいてくれる護衛とか、お父様とかお母様とか、と見たい。そのみんななら、私の感性を否定したりはしないだろうし。

「お嬢様?」

 メイドに声をかけられて、慌てて笑顔を貼り付ける。

 ……先生に、手紙を書こう。

 



「いーやーでーすううううううう!!!」

「うるさい」

 という私の声に被せて、また義弟が何か叫ぶ。多分ちゃんと言葉になってると思うが、私の耳には「びゃあああああああああ!!」としか聞こえない。


 先生に手紙を書いて、ほんとはマナー違反というかもしかしたらなんか法律違反になるかもしれないが、先生に殿下からの手紙を見てもらった。

 すると、この観劇は今すぐどうこうという話ではなく、お披露目会を終えて、まぁ簡単に言うと、大っぴらに会っても後ろ指指されない状態になったら、観劇にでも行きましょうと言う話だった。


 ……おかしいな。私現代文の読解はいつもほぼ満点だったんだけど。


 ということで、目下、お披露目会の練習の練習に、先生が協力してくれるとなったところで、これだ。

 この大騒ぎである。

 義弟付きの使用人が必死で宥めるのにも耳を貸さず、というか自分の叫び声がうるさくて聞こえてないんだと思う。

「なんで! お姉様に触ったら悪いこって言ったのに! なんで先生は触るの!?」

 それを言った護衛その2が顔を手で抑えている。

 義弟の顔は困り切った表情の先生と護衛その2と私を行ったり来たりしている。

 ちなみに頼みの綱のお父様は公務中で城。お母様はどこぞのお茶会で二人とも不在だ。

 執事と家政婦長が耳を擘く絶叫に泡を食って飛んできた。

「何事です」

 メイドと護衛が手短に報告するのを聞いて、二人は護衛に目配せした。

 護衛その2が責任を持って義弟の口を塞いだ。

「坊ちゃん、ちょ、噛まないで」

 籠手噛んでるんかい。不屈の精神やよしって言うべきか?

「先生。お騒がせして申し訳ありません。私共の説明が足りませんでした」

「マナーの先生がそろそろいらっしゃいます。移動しましょう」

「いいえ、そんな」と謝罪を遮る先生と、籠手の下で不服そうに唸る義弟。

 ……いや、まぁ、ちょっとは。良心の呵責を感じる程度には、私にも責任がないわけでもない。

「すみません、手を離してあげてください。叫ばないと約束するなら」

 義弟が瞳を輝かせて頷いた。

「遅刻するのは良くない。この話はまた後で」

 すると、途端に瞳が陰った。

「なんで!?」

 いやだから、遅刻は悪いことなんだよ。そこになんでもクソもあるか。

 人待たせたらダメなんだよ。

 その人の時間奪ってるわけ。それにその無駄な時間にも公爵家から金が支払われてるんだよ。礼儀と金と思いやりの問題だよ。

「……契約、という言葉は、わかりますか?」

 先生が義弟と目線を合わせて、ゆっくり話す。

 義弟は首を振った。

「では、約束はわかりますか?」

「知ってる」

「あなたの先生と、あなたのご両親は、約束をしています」

 先生はそんな調子で説明を始めて、義弟も遅刻するのは悪いことだと納得してくれた。

 さすがは先生だと思ったものの、話が私のことに及ぶと、義弟はまた聞かん気になった。

「練習なら、僕が相手になります!」

 お前まだマナーの基本のきの字も知らんだろうが。

 という私の心の声を、先生が思いやりに満ちた言い回しで代弁してくれる。

「でも! 先生より、僕の方が、殿下とおんなじくらいの背です!」

 いや、殿下はお前ほど小さくないぞ。マジで。私よりか背が高いし。

 というか、この年齢の子供は女子の方が発育がいいことを考えると、私はわりかし背が伸び切ってもミニマムな方なんじゃないだろうか。なんとなく悪役令嬢ってすらっとしたイメージがあったんだけどな。まぁそんな気はしてた。男の子はわりかし高校生くらいでも背が伸びたりするが、乙前では短命だったとはいえ……

 さておき、身長のことは、結構気にする男子多いから、黙っておこう。

 先生は、約束を引き合いに出して説得してくれている。



 元からこれは契約に入っていたらしい。

 私は男嫌いだと公言したことはないが、「女の先生が良いです」と言った瞬間に、お父様とお母様の中で私の男嫌いは決定的なものになり、そしてすぐに使用人一同に周知された、らしい。

 先生は私の男嫌い対策でもあった。

 先生が私のエスコートされる練習相手になることを説明された日、そう教えられて、私は驚いた。

 娘の私が初めて聞いたんだけども、先生にその説明してたのか。

 まぁ完全に女性だと誤解してたから、効果のほどはどうなのか私にもわからないけれど。

 だから先生が私の練習相手になるのは、元から織り込み済みだったと。


 道理で、私が先生の服を掴んでしまったことを改めて謝った時に、先生が笑ったわけだ。


 服を掴んでも、手を繋ぐのも、抱きついてくださっても良いんですよ。


 いつもの優しい声に、少しだけ楽しそうな、もしかしたらからかいだったかもしれない——を含ませて、先生は笑顔でそう言った。

 そんなことは到底できないし、先生は優しいから気を使って笑い話にしてくれたんだろうけれど、ちょっと嬉しかった。

 日前の母は私のあかぎれだらけの手を気持ち悪いと言って振り払った。自分でも、あかぎれができていない季節も小さな水泡のようなものができて皮が剥ける手指は気持ち悪いとは思っていた。それでも母に「普通じゃない」と怒鳴られ振り払われたのには傷ついたし、息が詰まった。

 今の、この乙女ゲームらしき世界の私の手には、あかぎれも水泡もない。白魚のような手とはこのことかと思うような手だ。

 それでも、もう日前で生きたよりもとっくに長い間、この姿を見ていても、どうしても私は自分が汚らしく感じる。

 皮向けは汗疱という症状で、病気なのだと知ったのは、成人した後だった。同じ汗疱患者の手を見ても、症例を見ても、可哀想だなと思いはしても気持ち悪くは感じないのに、自分の手を見ると気持ち悪く感じた。

 そんな私にとって、先生のその言葉は救いだった。

 たとえそれが、あかぎれだらけで、ガサガサの、甘皮がボロボロで、指先や掌の皮が剥けた気持ちの悪い私に向けられたものではなくても。

 誰かに触れて良いともらえる許可は、私にとって貴重だった。わかっていても他人に言われれば傷つくのだから、たとえ嘘でも触れて良いと言われるのは嬉しいことなんだと思った。

 そんな内実を知る由も無い先生は、緊張しているとついついやってしまう、自分の服を握りしめていた私の手に、「本当ですよ」と言わんばかりにそっと触って、服から手を取った。

 そのままほんの少しだけ、手を繋いでくれた。

 私は親と手を繋いだ記憶がない。漫画を読んでいた時、何気無い、手を繋いで帰り道を歩く親子のコマをみて、急に泣けてしまって、恥ずかしくなって、それからは小説ばかり読むようになった。それまでは、父に良い顔されなくても、こっそり祖父に買ってもらって隠れて読んでいたのだが。

 ……だからそれは、私にとっては、大げさにいうなら日前で叶わなかった夢が叶った瞬間で、多分、脳がまともに働くまでそうしていたら、間違いなく泣いていたと思う。

 ほんの少しの間で良かった。

 ちなみになぜほんの少しだったかというと、また虫が出たみたいで、仕留めようとした音にびっくりして振り返った時に手が離れたからだ。

 あの部屋、そんなに虫が出るのら、部屋変えた方がいいんじゃないかな?



 だいぶ話が長くなったけど。

 そんな二重の内実を伴った事情は、もちろん義弟には話せない。駄駄を捏ねる義弟に先生はかなりぼかして説明してくれてる。

 けれども、……まぁ、……子供に理屈って、通じないよね……。

「じゃあ僕が新しく約束します!」

 そう言う問題じゃねーんだよなー……

 ともかく、弟という存在が嫌いな私には、気持ち悪くて手を取ることも難しい。

「だって! 僕は家族なのに! 先生は他人でしょ!?」

 ……いや、いや、ちょっと待てお前コラ。

 お前もぶっちゃけ義弟だぞ? 他人てお前、先生との方がお前より付き合い長いんだけど?

「なんで僕がダメで他人の先生は良いの!? おかしいよ!」

 ……おかしいのは仕方ない。日前の私の家庭環境がおかしかったんだ。私は泥中の蓮になれるような人間じゃなかった。そのままおかしくなった。

 別にこの子が悪いわけじゃない。でもどうしたって生理的に受け付けない。嫌悪が先立つ。

 ……だからってそんなの、子供に説明できるわけないだろう。

「高位貴族のご令嬢には、たとえ家族であっても、許しなく触れてはいけません」

「許し?」

「はい。お嬢様に触れるには、資格が必要なんです」

 義弟が指で四角を作る。いやまぁ私も小学校低学年で読んだ漫画に資格ってあって当時「しかく」は四角と視覚しか知らなかったから調べたけどそうじゃないわ。

 先生も苦笑してる。

「役目はわかりますか? あるいは仕事」

「わかる」

「お嬢様に触れて良いのは、身の回りのお世話をするメイド、お身体を守る護衛。それから、立ち居振る舞いを教える教師、そして婚約者です」

「……僕は?」

 機会があるとすれば社交界だな。どっかのパーティーに招待されれば。一回目は殿下と踊るのが義務だが、そのあとか。

 ……嫌だけど。だいたい社交でダンスとかおかしいだろ。体を密着させるなんてはしたないって考えになりそうなもんなのに、なんでダンスなんて文化があるんだ?

 乙女ゲームだから?

 中学のフォークダンスでさえ嫌々やってたのに。

 卒業パーティーで死んでそこから解放されるのはありがたいっちゃありがたいんだが。

 顔が勝手に強張るのが自分でもわかった。

 すると、先生がふとこちらを向いた。

 え?

 ふわりと、微笑んで、すぐに義弟の方を向いた。

「……あなたは、いつか現れるあなたの婚約者を大切に」

 ――先生?

 驚いて先生を見る。けれど先生はまだ義弟を見ている。つられて、義弟と、義弟を抑えている護衛に目をやれば、護衛の方が「しゃーねーなーこいつはもう」みたいな感じの苦笑を浮かべていた。

 ……この人、やっぱり悪い人じゃないと思うんだよなぁ……って、いつもの悪い癖だ。



 義弟はいつも、お稽古事の教師が来る前に、私に宣言にくる。これから何々のお勉強をしてきます! と言うから、頑張れとか、寝るんじゃないぞとか、自分がかけられてしんどかったりイラっときた言葉を薄っぺらい笑顔を浮かべてくれてやる。

 我ながら性格が悪すぎる。

 けれど義弟は嬉しそうに「はい!」と答えて部屋に向かう。

 だから、義弟の行動はいつも通りだった。イレギュラーだったのは私の側だ。


 私はもう、それこそ日前で培った口八丁を使いまくって、社交系の授業を後回しにしまくっていた。

 別にダンスが苦手というわけじゃない。社交ダンス自体はやったことがないけれど、学祭の出し物のダンスはジャズダンスに振り分けられて、当日前の全体の演出をチェックするクラス内プチ発表会で「妙に上手い」とか「すごい」とかお褒めの言葉をいただいた。だから運動音痴がひどくて後回しにしたわけじゃなく。 

 そう、とにかく、人に触れたくなかったのだ。

 けれども、殿下からの手紙でも要約すれば「さっさとお披露目会を済ませたい」と言われるくらいだから、良い加減後回しにもできなくなってきた。


 先生が教えてくれるのはいわゆる座学だ。ダンスや礼儀作法は先生の担当科目じゃない。

 ダンスには専門の講師がいるけれど、指導はともかく、実際のダンスだと私が多分ガチゴチに固まって踊るどころじゃないだろうという話をしてくれており、練習相手は先生にしてもらうことになっていた。

 乗馬も指導は護衛その2で実地がその1っていうのと同じ方式だ。ほんとめんどくさい子供でごめんね!?

 立ち居振る舞いについては頭に叩き込んだものの、実地でないとわからないものもある。

 息の合わせ方とか。

 だって正直、エスコートってされなれないとなんとも無様だ。仮にも殿下の婚約者がそれじゃダメだろう。

 ……早く。早くヒロインが現れないかな。

 早く終わらせてほしい。

 足元ばっかり見てしまう私には、毅然と胸を張って前を向けるヒロインの強さが眩しい。

 せっかく、お父様とお母様に綺麗な見た目をもらっても、中身は卑屈なまんま。

 ……普通に。普通に、殿下がヒロインを好きになって、私は断罪されずに、ただ失恋したということになって、そうして家にいられるようにならないだろうか。

 それが一番幸せなんだけどな。

 だけど、貴族としての面子とか色々あるから、そんな現代日本の平和な学園ものみたいな展開は難しいんだろうなぁ……

 まぁそもそも、殿下に恋とかしてないんですけどね私……

 だって中身立派なおばあちゃんだよ。もう何年何十年も生きすぎて。下手したら百年超えてるかもしんないし。良い加減死なせてよ。もう疲れた。

 ……って待て待て。またこの考え。


 ええと、そうそう。先生には普通の授業の前の時間を借りて、練習相手になってもらうという話で。

 それの初回だった。私の方は予め聞いていたが、義弟は私がいつもと違う予定を組んでいると知らなかった。

 義弟がいつも通り私に会いに来た時、私はまさにエスコートされる練習をしていたのだ。

 もう条件反射の気持ち悪さや怒りが勝手に沸かないか、一番困る吐き気が来ないか、おっかなびっくり先生の手に触れようとして。

 その瞬間を目撃したのだろう義弟は、そりゃあもう特大の金切り声で「なんで!?」と叫んだ。


「……お姉様は、先生が触るのは良いんですか」

 答え辛っ!?

 こ、子供の空気読まない質問答え辛いわ!

 え、だってこれなんて答えても角たつでしょ!?

 ほんとは嫌だけどしょうがないとか言おうもんなら先生に失礼だし、良いとか答えようもんなら護衛その2がまた殿下に告げ口するでしょ?

 詰んでない?

「坊ちゃん。あんまりマリー様を困らせちゃダメですよ。嫌われちゃいますよ?」

「やだ!」

 その護衛2が義弟に話しかけた。

「ここでマリー様が嫌だって言ったら先生だって傷つくんすよ? マリー様は優しいからそんなこと言えないし、かといって嘘も言えんでしょう」

 先生が苦笑した。そらそうだ。その言い方じゃ嫌だって言ってるようなもんだ。

「嫌なことなんでするの」

「大人には嫌でも我慢せにゃならん時ってのがあるんです」

「お姉様だってまだ子供だ!」

 ……

 って、いかんいかん。つい泣きそうになった。

 私は日前で異様に発育が良くて、園児の頃にはもう小学生にしか見えなかった。だから子供扱いというのはあまりされたことがなかったのだ。高学年になるまでは、大抵の男子よりも背が高かったし。

 ……私の年齢を知っているはずの家族には、いつも「お姉ちゃんでしょ」と言われて。長子にはありがちだろうけれど、しっかりすることを求められて、子供のままでいることは許されなかった。なんでも我慢我慢我慢。それが当たり前だと、弟も思い始めた。私から物を奪うのも当たり前。それを私が我慢するのも当たり前。何もかも。

 ……だからそれを、よりによってこの子が。

 我慢しなくて良いみたいに言うのが、なんで義弟なんだ。

 

「貴族が平民より豊かな暮らしができるのは、その分義務も多いからってのは、知ってます? ――よし。じゃ、マリー様はただでさえ一番位が上の貴族の一人娘で、義務が多いってのはわかりますね? だから大人になってからしなきゃならん我慢の練習をいまからしてるんです」

「じゃあ平民になれば良い」

 ……いやー……無理だわぁ……

「平民だと大変だなぁ。マリー様くらい可愛くて綺麗な女の子は、あっという間に」

 っておいおいお前子供相手に何いうつもりだ。

「寄ってたかって触られ」

「ダメーーーーーー!」

 義弟の金切り声と、護衛その2がいきなり潰れたのはほぼ同時だった。

 ……いや、……うん……なんか……いきなりこう、上から何か巨大な手に押しつぶされたみたいに、転んだとも違うし、なんだ?

「ってぇな、アイザック!」

 え? 先生がなんかしたの今?

 先生はにっこり笑って何も言わない。護衛はため息をついて首を振った。

「あの、……大丈夫」

「お嬢様、心配せずとも問題ありませんよ。あの男は頑丈です」

 護衛その1が視界の端で頷いている。

「で、でも……」

「マリー様、嬉しいんですけど、すっごい身に染みて嬉しいんすけどね、俺の心配はその辺で。あとで恨まれるのも面倒だし」

 後半小声で聞き取れなかった。

「さて。俺の醜態は忘れてもらってですね、坊ちゃん」

「え、あ、うん」

「肉を切らせて骨を断つって言葉があります。どうしても一等我慢ならんってことは、そりゃ我慢しなくて良いんです。大人でもね。その一番我慢できないことから逃げるための正当な権利をもぎ取るために、今お嬢様は戦ってるんすよ、ちっちゃな我慢を積み重ねてね」

 ……めちゃくちゃポジティブな後ろ向き発言だな。

 でもまぁ。

 うん。


 護衛その2と先生の説得、あと使用人一同の努力の甲斐もあって、なんとか義弟は滑り込みセーフで遅刻を免れた。

 私の方といえば、なんとか先生の手を取っても、吐き気もなくやり過ごせたことに安堵した。

 まぁ頭撫でられて平気だったんだから、大丈夫だろうとは思っていたが、今までが今までだったので。

 吐き気と怖気がなかったことに安心した後は、人肌あったかいなぁ、とか。手すべすべだな、とか。

 ちょっとネジの外れた感想が浮かんだ。

 いやどっちかってと結構気持ち悪い感想かもしれんが。男の感想かこれ。ほんとごめんね、見た目詐欺で……

 いやほら、日前の私はろくなスキンケアしなかったことと家事のせいで、手肌ガッサガサだったからさ……。それに子供の頃から冷え性で手足冷たくて……。

 まぁそれはさておき。

 とりあえず手を取って歩くことはできた。まだ様にならないが、そのうちなんとかなるだろう。

 ……なんかそんな歌あったなぁ。私は見ることできなかったけど、アニメの主題歌とかで、クラスの子が歌ってたっけ。

 能天気な歌詞で聞いて笑っちゃった。笑う私が面白かったのか、繰り返し歌ってくれて、何と無く覚えてしまった。

 必要じゃないことを覚えるのなんて無駄だと思っていたけど、勝手に頭に残るものはある。好きなこととか気に入ったことは。


 前世の私の頑張りにはご褒美がなかった。何かの目標のために頑張るんじゃなくて、親のご機嫌取りのために頑張っていたから、報われるかどうかは運次第で、努力したからって報われる確約なんかない。

 だけど、例えば。……例えば、死ぬ直前の私がそうだったように、自分で決めた目標に向かっていたら、きっと違った。

 今の私が望む『何か』はまだわからないけれど、護衛その2が言っていた考えは素敵だなと思った。

 同じように後ろ向きなのに妙にポジティブで。

 自由を得た後に何がしたいとか、私には明確な目標がいつもなかった。だからいつも死ぬことばかり考えていたけれど。

 今の私が本当に無理で逃げ出したいのは殿下の婚約者延いては妃という立場で、それから安全に穏便に逃れるための方策は今の私には考えもつかない。

 でも、とりあえず平民では生きていけないだろう私にできることは、可能な範囲で貴族令嬢らしい立ち居振る舞いを身につけることだ。

 目の前のことに集中するのも良いかもしれない。私はどうしたって過去の恨み辛み、未来への不安ばっかり考えてしまうから。

 そういや、マインドフルネスってそういうことだよな。

 いつか私自身が楽しいと思える日々を手に入れるために、ほんとに嫌なことから逃げた後も生きていけるように今を頑張るって考えは、悪くないと思う。どうやって生きていくかはまだわからないけど、手段は多い方が良い。


 護衛その2には思いがけず救われた。


 きっとあの人は私みたいに何度も人生を繰り返してるわけではないはずだ。だから私よりずっと若い。子供だと言ったって良い。

 それでもよっぽど私より人間が出来てる。

 我ながら何回やり直してもクズはクズだよなぁ……精神年齢ガキのまんま。

 だけども、もう暗くなるのはやめようと思う。

 まぁ昔も何度かそう決意してはダメになっての繰り返しだったけれど、そろそろ進みたい。

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