私のくだらない懊悩について。
ペンダントを外してノートの鍵を回す。
なんだかんだあって忙しくて、放置したままになっていた。
眼鏡。一人称「私」。先生。アイザック。
黒髪。一人称「俺」。護衛。マルクス。
金髪。殿下。婚約者。ツンデレ。
書き足して、ふとペンが止まる。
……あれ、殿下の一人称ってなんだっけ。あれ、名前……名前……
……ま、良いか。
はぁ、とひとつため息。
護衛の人の一人称が俺で助かった。最悪顔の見分けがつかない時、一人称で判別できる。とりあえずいまの私の身分相手に「俺」と言う人はまずいないはずだ。
あの服は騎士団のものだ。騎士の集団に遭遇するのは、卒業パーティーと言う名の断罪イベント。後何年かすれば通うことになる学園は、王立だから、行事には騎士団からも護衛が派遣される。
乙前で卒業イベント前に遭遇したことはないけれど、今世でないとは言い切れない。
私はもともと、人の顔を覚えられない。アイドル雑誌の表紙の顔が、みんな同じに見える。関わりのない人だけでなく、話す機会があり、覚えなければならない人も、覚えよう覚えようと人の顔を見つめるけれど、それで覚えられた試しがなかった。
少なくとも、見分けがつくまで半年はかかる。
それまで、直接会って見るのと、写真で見るのと、動画で見るのとで、全く同じ人を、私は同一人物だと判定できない。
名前を覚えるのは人付き合いのマナーだ。ビジネス書にだって書いてあった。でもできない。
……本当に、どうしようもない。
殿下の婚約者に圧倒的不向きだ。
今まで乙前では人の顔を覚えようともしなかったから、困らなかったけれど、本当に、どうすれば良いのか。頭がようやくはっきりした今、わかる。
人は天才を努力の天才だというけれど、冗談じゃない。才能の差というのは歴然とある。私は3歳でピアノを習わされたけれど、絶対音感は手に入らなかった。いくら努力しても努力でどうにもならないことはある。人間性や遊びや何や彼やを犠牲にして得たのは、性能の低い相対音感だけだった。
……だからある意味、卒業パーティーで断罪されるのは理に適っている。私にこの立場は無理なのだ。思えば、子煩悩なあの両親が、私の死をどうにもできなかったのは、もしかしたら、生きていた方が私には辛いとわかっていたからかもしれなかった。
正解だ。どんな辛酸を嘗めても生きてやると思えるほどのガッツは私にはない。
昔から、早く死にたいとそればっかり思っている子供だった。
辛くて辛くて。逃げたくて仕方なかった。でも自分で死ぬ勇気はなくて。早く解放して欲しいと、そればかり願っていた。
……もしかして、そのせいなのだろうか。
生きている間、私にちっとも優しくなかった神様は、私が死んでから、お待たせ! とばかりに、生きている間に私が願ったことを、忠実に願った回数実行しているのだろうか。もしそうだとしたら大変だ。
後軽く一万回くらいループする羽目になる。
一年365日。1日3回願ったとしたら、一年で千回を超える。かける物心着いてから生きてきた年数だとすれば、ほら、一万回は超えるよ。軽いね。
「……あはは……は」
笑えてきた。
そんなにおじいちゃんに会うのを我慢しなければならないのか。
いや、きっと、断罪されなければループから抜けるはずだ。
読んできた物語は大概そうだ。
それには、……ヒロインに嫌われないことが大切。
もしくは、ラスボスと仲良くなったり、婚約者と良好な関係を築くか。
……しかし、乙女ゲームなのにどうしてラスボスが出てくるんだろう。なんでみんなそんなに戦いたいの? いやまぁ、確かに私も読むのは結構、戦記物が多かったりもしたし、ファンタジー小説はみんな結構戦うか。いやでも、あれは読むのが楽しいんであって、……実体験は嫌だ。
っていうか恋愛で刃傷沙汰とか意味がわからない。どうして殺す必要が?
……まぁ言っても聞かないバカってのは確かにいる。本物のバカは母国語が通じないのだ。家族で経験してるから知ってる。
いくらヒロインを守るためとはいえ、目の前で婚約者を切ったりぶっ飛ばしたりするような男、私は怖すぎて無理だけどね。DVまっしぐらじゃないかと思う。
でも、まぁ、やっぱり私が臆病だったってことなんだろうな。
多分、人を傷つけられるかどうかというのも、才能の一環なのだ。私にその才能があれば、こんなループに陥ることもなかったのかもしれない。
まぁ、それこそ日前でも投獄されたかもしれないけれど。
それはそれで笑えないか。
つまり、自分が強くなって生き抜くというのは、私には無理だ。
そもそもこの世界にラスボスがいるのかどうかわからない。乙前の知識だと、特にこの世界で戦争が起きた記憶はない。私が生きていた頃の日本のように表面上は至って平和だった。
魔物みたいなものも、少なくとも私は見たことがない。まぁ死んでからイベントがあったという可能性もあるかもしれないが、それは知りようもない。
後……ヒロインと仲良くなる、というのは、かなり難しい。
どう接しても断罪されたのだ。接し方がわからない。優しくすればバカにしたとなり、無視してもいじめで、一回目は誰に対してもひどい態度だから、当然アウトだった。
一番難易度高いのはヒロインだと思う。だからこれも後回しだ。実はギャルゲーの世界だったりしてね? そっちの知識もほとんどない。というか、乙女ゲームよりも知識がないんだよ。でも、乙女ゲームは男性キャラが多いし、ギャルゲーはきっと女性キャラが多いはずだ。だいたい、同性を敵にして切った張ったの大立ち回りをすることが何故か皆さん多い気がする。なら、悪役令嬢らしき私がいる世界は、乙女ゲームで間違いないだろう、多分。
とすると、目指すは婚約者と仲良く……できるかぁ?
怖くは無くなったが、基本あの手の話し方をする人間は嫌いだ。
いやこの際私の感情はどうでもいい。
殿下は多分、私の顔が好きでも私自身のことは嫌い。
今日は不意打ちの訪問だったから、当然お母様はいない。というか、入れ違いでお母様は外出してしまった。
お母様の不在を告げれば、また顔を真っ赤にして怒鳴られた。
照れ隠しだとわかったからいいものの、そうじゃなかったら本当に居留守を使いたいくらいだ。
どうして一番まともに見えているはずの今世で一番ひどい態度なのかは理解に苦しむ。
前までは基本的に沈黙だったんだけどなぁずっと。
こっちが何を言っても沈黙。絶対零度の笑顔で沈黙。稀に真顔で沈黙。美形って表情が抜けると怖いんだよね。美形の真顔は特に怖い。
殿下に気に入られるような振る舞いか……あーやだなぁ。ここ何十年も、他人のために性格変えるとかやってきてなかったのに、またあれやるのか……。疲れるんだよなぁすごく。
学校の休み時間、トイレに駆け込んで吐き気をやり過ごしていた過去が浮かぶ。
……あれはもう嫌だ。
行儀悪く猫背になって、机にぺったり頬をつけて、横を向く。自然とノートが目に入る。書きやすい紙質は触っても気持ちいい。
ノートが欲しいとメイドに言ったら、メイドが顔を輝かせて部屋を出て行き、翌日にはお母様が神々しいほどの笑顔を浮かべて、両手に大切そうに抱えた包みを、私に渡してくれた。
それがこのノートだった。ノートというものにいかに金を注ぎ込めるか挑戦しました的な豪華なノート。
呆気にとられながらお礼を言えば、花をもあざむく笑顔をくれた。
親バカだ。本当に。世界で一番尊敬する生き物。
そうだ。
甘えてみよう。
繰り返してきた人生で、あれが嫌だこれが嫌だは言ったけれど、こうして欲しいみたいなことは言ったことがなかったような気がする。
いやまてよ? 女性の先生が良いと言って、叶わなかったんだった。
でもまぁ、なんでも叶えられるわけじゃないなら、甘えてみるのはアリかもしれない。
とにかく、思いついたことはやってみよう。
ごめんなさいお母様。
でも今までと違うことしないと、多分、ループ抜けられないから、こうなったら人非人になってやる。
殿下と仲良くなるために、お母様を最大限利用させていただきます!
まずはお茶会のセッティング!
日取りを伝えようと思っていたのに、やっぱりお母様がいなかったからがっかりしたんだろう、言葉少なに帰ってしまった。
次に会った時には、挨拶したらすぐ言おう。
それにしても、何回もループしてるのに、殿下がお母様のファンなんて初めて知った。
殿下が婚約者になること、ヒロインを守る為に婚約者破棄されること、私が断罪されること。
ここは変わらないけれど、その他のことは割と変わる。
こうやって何回も人生を繰り返していると、人生は選択の積み重ねというのがよくわかる。
まあ残念なことに、結果は変わらないけれど。
いや、今回は変えてやるんだ。今度こそ。
結構、イレギュラーなことも起きてるし。
殿下は物静かな人じゃないし、お母様のファンだし、護衛の人との顔合わせは先生が立ち会ってくれたし、先生の出で立ちも、眼鏡はそのままだったけど服装も髪型も——
「……うううううう」
恥ずかしい、死にたい、また思い出した。忘れたい。顔が熱い。どうせループするなら今すぐ終わらせて欲しい。
いや違う。違うの。また始まったいつものネガティブ大暴走って思われるかもしれないけど違う。お馴染みっちゃお馴染みなんだけど。
自分の行動を猛烈に後悔している。
恥ずか死とかいうやつ。
これネットスラングだったっけ? 違う? まぁ良いや。
多分HSPの気質の一つだったと思う。それか精神的にやばくなってる時のあれか。
一つのことが延々と頭の中をぐるぐる回る。だから人から記憶力が良いとびっくりされる。日前の家族に言わせれば「しつこい」し「恨みがましい」になる。
私だって忘れたいのに、勝手に何度も再生されるのだ。
例えるなら、TVの前で視界を固定されて延々と同じ映像を流され続けているようなものだ。しかもこの例えよりなお辛いのは、目を閉じるということができない。なぜなら再生されるのは脳内だから。
何度も嫌な思いも恥ずかしい思いも死にたい思いも再体験させられる。
……そうやって消化して行くのだと何かの本で読んだけれど、私は多分そろそろ下手したら百年くらい通算で生きてる計算になるはずだけど、未だに消化できないし、ただの終わりのない拷問みたいだ。
前置き長くなったけど。
護衛の……もう良いや先生のご友人の護衛は護衛その2ね。
護衛その2を引き合わせてくれた先生に対する自分のしたことがあり得なさすぎてものすごく後悔しているのだ。
テンパってた私は頭からスコンと抜け落ちていたのだ。
日前で散々バイキン扱いされたのに。
クラス内の不幸の手紙のネタにされたこととか。
男子同士の悪ふざけのネタとか。
体育の後の女子の行動とか。
私が私の体を嫌いなのと同じように、私は小中学校の頃にまるで汚物のような扱いを受けていた。
全員がそうだったわけじゃないが、思春期真っ只中に、そんな扱いを何度もされたこともあって、私が人に触れてはいけないを徹底するのは当然だった。
触られるのが嫌いだというそれと同じくらいに、人に触れるのは私にとって人様の迷惑になることだという思いが強い。
だから、先生の服を掴んだことが、冷静さを取り戻した今、死ぬほど恥ずかしい。
取り消したい。デリートキー連打したい。いやむしろctrl+z。
先生が頭を撫でてくれたから、それで許されたとでも思ったのだろうか。
思い上がりも甚だしい。先生は教育者としての義務でやっているだけだ。私に触られて平気なわけじゃない。
しかも服掴んで泣かれたら、ああするしかなかったろう。汚い私なんかに高価そうな服掴まれるなんて皺がどうこうじゃなくてひどすぎる罰ゲームだ。気持ち悪かったに違いない。しかもハンカチまで。
穴があったら入りたい。厚顔無恥も甚だしい。
少し優しくされたらすぐこれだ。
ほんとに嫌になる。
嫌な顔一つせずに、宥めてくれた先生は本当に教育者の鑑だ。あと主演男優賞取れる。
泣きたい。
何が線引きするだよ。ゆるゆるどころか普通にあったはずの無意識の線まで消えてなくなってるじゃないか。
次に会ったら、……謝らないと……でも謝ったってしたことが消えて無くなるわけじゃない。
気が重い。本当に嫌だ。あーもう!
……すぐに思い上がるこの性格を直したい。切実に。




