私の豆腐以下の強度のメンタルと、おそらく三人目の攻略対象について。
――いやああああああああああああああっっ!!!!
という悲鳴を鋼の精神力で飲み込み、震える手で無理やり口を押さえつける。一瞬でも、一欠片でも悲鳴と思われたらこの前の二の舞だ。早速狂いそうな呼吸音を口を塞ぐことで隠す。
先生の、取り成すような微笑みは困り顔に振り切れそうだ。
後ずさることもできずに棒立ちになる私に、先生が隣というか斜め後ろを振り向き、小声で二言三言何か告げ、相手が頷く。
すると先生は、一人でゆっくりこちらに歩いてきた。
目の前で立ち止まって、目線を合わせるために屈んでくれる。
「……大丈夫ですか?」
はい、と言おうとしたが、呼吸がおかしくなっただけだったので、頷きを返す。
「公爵から説明があったと思いますが、私の友人で、これからお嬢様の護衛を勤めます」
先生が指し示すように友人をふり仰ぐ。
「見た目ほど怖い人ではありませんよ……と言っても、怖いものは怖いですからね……」
私に視線を戻すと、困り顔で微笑んでそう言って、少ししてから姿勢を戻し、護衛と紹介された男の人の方を向いた。
咄嗟に私は、先生の服を掴んだ。掴む位置とタイミングがあれで、先生の後ろに隠れるみたいになってしまった。
まるで人見知りな子供がやるみたいな行動だけど、内心は『ひいいいいいっ!』という悲鳴を嚙み殺すので手一杯。人見知りな子供は多分、ここまで恐怖に怯えてないだろ。
ごめんなさい許して!
怖いもんは怖いの! 先生の言う通り!!
だってあれは紛れもなくあれだ。この世界が乙女ゲームならば絶対攻略対象だ。本当に見た目そのまんま。服も髪型もバッチリ一致。あれは、あれだ。あの、黒髪。
眼鏡の。いや眼鏡改め先生の、先生の、肩に肘をかけて、嘲るように嗤ってこちらを見ていた、あの男だ。
このツーショット怖すぎるから! 並ばないでください先生! 待って待って待って待って次会う時までには覚悟決めとくから、今日はちょっとお願いだから待って死ぬ! 心が持たない! 無理!
この二人に並ばれるとすげー怖いから! 泣くよ! て言うかもう涙滲んでるほら視界がぼやけてきた!!
我慢しろ私NOT不当解雇! もってくれ私の涙腺!
先生がため息をこぼす。ごめんなさい先生、なんかあの、手が、手の力が抜けない……手を離すってどうやるんだっけ……?
「今日は挨拶だけでしたから。ひとまずこれで」
うん、えっとすみませんまじで。まじで指がどうしよこれ。掴むんじゃなかったまじで。
心底後悔している私の目の前に、ハンカチが現れる。
え、ハンカチ? 何?
どう見てもハンカチ。うわこれ、あれでしょ、刺繍するんだよね、読んだことあるやつ。日前ではもっぱら実用性重視でタオルハンカチしか使ってなかったが、この世界にはない。いやあるかもしれないが、多分貴族標準じゃないんだろう。見たことがない。
だから先生が差し出したのも当然、いわゆるハンカチーフだ。
いやでも私刺繍は趣味じゃない……じゃなくて、なにこれ、なんでハンカチ?
「失礼しますね」
……ああ、そうか。
泣きそうって言うか、もう泣いてたのか。
そっとハンカチで涙を拭かれる。
自分でもしたことないよ。少し笑いそうになってしまった。
「もう、マルクスは帰りましたよ。安心してください」
マルクス? ああ、そうか、あの男の名前、マルクスだったか。
日前で経済とかそっち系でそんな名前があったような?
「マルクス、さん?」
「ええ。お嬢様の新しい護衛、マルクス・ユニウスです」
――めちゃくちゃ裏切りそうな名前だなぁ……
「お嬢様?」
多分、引きつった笑いが浮かんだのだろう私を、不思議そうに先生が見返す。
「あ、いえ、その……つ、掴んじゃってすみませんでした。服、皺に……あと、ハンカチ。ありがとうございました」
「気にしないでください。どういたしまして」
柔らかく微笑む先生に、もう一度謝って、頭を下げた。
先生は優しい笑顔で頷いてくれたけれど、私はそれにやっぱり、ちょっと引きつった笑顔しか返せなかった。
——だって頭の中で、全く別のことを考えていたから。
経済じゃない方の。軍人。
あの辺の歴史、ブルトゥスもマルクスも多すぎて頭ごっちゃになったんだよなぁ……なんだよ大ブルトゥス小ブルトゥスって。
いやもちろん、なんか色々信念があったり、色々事情があったりなんだろうけれど、その辺朧げでもう覚えてない。
ともかく、いま護衛についても、いずれ名前の通りある意味裏切られるんだよなぁ……けど、私は恨みがましいが薄情な人間でもある。相手が元護衛だろうと、「お前もか」と言えるほど思い入れはなかったが。
先生のことは……
まぁ先生は先生だ。正しい方につく。民主主義は多数決に逆らえない。この世界は専制君主制のはずなんだけどね?
まぁでも、仕方ない。悪は裁かれるものだ。そして……私はあんまり、「あなたのために」と何かをしてもらったことがなかったから、余計なお世話だろうがなんだろうが、いわゆる取り巻きを「秘書がやりました」ばりに我関せずと突き出すような真似は、どうにもできなかった。
日前で散々やられたからだ。
まだ学生アルバイトだった頃の話。
「これ壊れちゃったみたいだから、直してくれるように頼んでくれない?」
と言われて、直してくれる人の所に持って行ったら、私が怒られた。叱責中に合流した私に頼んだ人は、「そんな怒らなくてもいいじゃん」とは言ってくれたが、「使い方が悪いから壊すんだ。言わなきゃダメなんだよ」と言われ、黙った。「その子が壊したんじゃない、私が壊した」と名乗り出てくれなかった。目の前で、「勉強できてもこういう奴はダメだ」とか言われてる私を庇ってくれたりはしなかった。
あれは本当に、大人のズルさと、作り事のように庇ってくれるヒーローは現実には現れないと言う社会勉強になった。
そして、庇われずに言い出すこともできず、ただ悪くないのに怒られる、それも人格否定をされると言うのが、どんなに惨めで悲しくて悔しいことかと言うのを知った。あの日は帰ってから風呂場で泣いた。
そんな感じで色々、思い出したくないことが芋づる式に頭の中をぐるぐるしていたせいで、その日の私は情緒が安定しなかった。
普段しないようなミスを連発したし、実技の講師のため息ひとつ、軽い注意一つで体が竦んで、今までできていたことまでできなくなった。講師陣は間違えたって叩いたりしないし、怒鳴ったりもしない。授業が終わった後で、私を気遣う言葉をくれた。
何かあったのかと聞かれたけれど、理由なんて言えないじゃないか。新しい護衛は何も悪くない。私が勝手にいろんなことを思い出しておかしくなっただけだ。
なのに、元からいた護衛は「自分がもっと強ければ」とか自分を責めるし、もうお手上げだ。あなたこそ何にも悪くない。
メイドはカモミールティーを淹れてくれたり、お風呂がラベンダーの香りになっていたり、めちゃくちゃ有能っぷりを披露してくれた
帰宅したお父様とお母様にありえないくらい心配された。多分、講師陣から報告かなんか上がってたんだろう。あの場で過呼吸が出なくても、これじゃ何にもならない。
あわや不当解雇になりそうになったが、全力で阻止した。と言っても、両親から心配されるという状況に私はまた泣きそうになってしまったので、できることと言えば首をぶんぶん横に振って意思表示することだけだったのだが。
「殿下のこと? そうね、愛くるしくいらっしゃると思うわ」
……あんなつんけんした子のどこが可愛いんだろう。
「マリーと並ぶと、本当に絵のようよ?」
ええそうです、皆様こんにちは。私はおそらく悪役令嬢のマリーと申します。それっぽくない名前だなぁと私も思っていたのですが、実は多分めちゃくちゃそれっぽい名前じゃないかと思い始めた今日この頃です。
ミドルネームがアンですよ私。もうここまでくれば、勘のいい方はお分かりかもしれません。末尾に永遠の網がついたらほらあれですよ。ギロチンまっしぐら。
それはさておき。
お母様のファンとのお茶会にお母様を同席させたいけれど、お母様は私のお願いは二つ返事で頷いてしまうので、お母様の気持ちが聞けないどうしよう、と先生に相談した所、殿下のことをどう思っているかをまず聞いてみればいいのではとアドバイスをいただいたので実行した次第である。
まぁ、嫌いではないらしい。
第一関門クリア。
お母様はなんと言うのだろうか。こう、見た目とは裏腹に、ほわんとした雰囲気の、話していると和む人である。
見た目はあれだ。輝かんばかりの黄金の髪に、抜けるような白い肌、つり目がちなので勝気に見える美貌の人である。
あの子が憧れるのも無理はない。ちなみに私は、顔と肌はお母様譲りだが(使用人が煽ててくれた)、黒髪黒目である。そこはお父様譲り。優性遺伝子大活躍。
お母様の暇そうな日を聞き出すことも成功し、先生に言われた通り、王族をもてなすのは疲れないかと言うことも聞いたが、「適度なプレッシャーは健康にもいいのよ」と、幼児にするにはかなり高度な格言をいただいた。
多分、大丈夫だろうと言うことで、お願いしてみると、顔を輝かせて了承してくれた。美人の笑顔は眩しい。
これで役目は果たした。きっとお母様効果で、怒鳴られることはないだろう。
少なくともスクールに上がるまでは、平和に暮らしたい。
部屋の端を向けば、新しく護衛についた、めっちゃ裏切りそうな名前の人が、へらりと笑って小さく手を振ってきた。でも眉毛下がってる。
……その節はご迷惑をおかけしました。
初対面でめっちゃビビってすみませんでした。
同じように笑って頭を下げておく。
先生と並ばれると心臓に悪いが、単体だとそんなでもない。覚悟を決めれば殿下と同じだ。
先生の友人と言っていたから、もしかしたら先生が何か言っておいてくれたのかもしれない。もともとついていた公爵家の護衛の人より、一歩離れた距離にいてくれる。あまり人に近づかれると体が強張って疲れるから、ありがたい。
……まぁ、信用はできないけどね……断罪イベントを迎えても変わらず優しかったのは、使用人と家族だけだ。……あれ、そういや、この人は、どうしたんだろう。いつまで私の護衛をしてたんだ?
当日まで? 素知らぬ顔で直前まで護衛してて、あの場で先生の後ろに立って嗤って見てたのか? すげー性悪だな?
いや、どっちかって言うと、私の性格に難がありすぎだわ……
どうよこの、記憶力のなさ……いや正確を期すならば、関心のなさだな……
覚えていたことをど忘れしてしまって思い出そうって感じじゃないなこれは。日前でも良くあった。全く覚えてないことだとあらかじめわかっているあの感じだ。
芸能人の名前とか。流行りのブランドとか。
自分と全く関わりがなくて、知る機会もなく、当然興味ももてないから覚えてなかったんだ。
いやーほんと、びっくりするほど薄情だよね。護衛してくれてる人に興味がないとか、我ながらびっくり。誰のおかげで自由に行動できてるんだか。
……あら。あらあら。
ちょっと思い出した。
いつの時だったか覚えてないが、自由に出歩くわがままな私を、すっごい冷たい顔で見ていた。
そうだ、それで、「ふん、どうせわがままなガキって思ってんでしょ、その通りだよバーカ! 何さ人の気も知らないで! どうしてわがままにしなきゃならないかも知らないくせに!」とか思ってたんだよなぁ私……すぐにカウンセリング受けさせてお願い……
強制されてるわけじゃなかった。良い子にしてても全く可愛がられなかったから、だったらわがままだった弟を真似してみれば、少しは可愛がられると思ったのだ。
結果はまぁアレだったわけだが。そらそうだ。何不自由ない暮らしで、そんな風にグレた子供にあったら、一体何が不満なんだと、私だって思う。
……だから多分、冷たい目で見られるのは仕方ないことだった。
だめだ落ち込んできた。
リセットリセット。
いずれ嫌われるのだろうけれど、それまでは穏やかな関係でいることを目指していこう。
自分の興味ない人には嫌われても平気なんて、そこまで私は強くなれないのだ。
誰に嫌われても平気なんてふりをしていた転生1回目は、本当に生き地獄だったから。
こちらから積極的に関わるのは怖いから嫌だけど、先生みたいに、今優しくしてくれる人とは、なるべく穏やかな関係を築きたい。
嫌われ始める兆候が出たら、さっと距離を置こう。
今の所、少なくとも目が合えば、困り顔とはいえ一応、笑ってくれるのだ。嘲笑でもなく、冷たい目でもない。
今に目を向けよう。とりあえず未来では裏切られるし、過去は嫌なことしかなかったが、今の所、平穏。
どこも痛くないし、どこも怪我してない。怒鳴り声を聞くこともないし、居丈高な命令口調も――
「お嬢様! で、殿下がお見えd」
「遊びに来てやったぞ! さっさと出てこい!」
……――フラグかよ。




