私というもの、その捻くれた性格と偏った思い出とどうでも良い生涯について。
小さい頃から私は嘘つきだった。
それはまぁ、子供でも証拠を集めやすい平成後期に私が生を受けていたのなら、家族全員刑務所にブチ込……むのは無理かもしれないが、少なくとも全員に接近禁止令を出せるくらいの児童虐待フルコースを受けていたからだ。
物心つく頃から怒声と暴力から逃げるために、怒られない言い訳を考え、自分の性格も無理やり捻じ曲げて気に入られるような態度をとり、人を上機嫌にするために口八丁を並べ立てていたから、気をつけば息をするように嘘をつく人間になっていた。
後年、自己啓発系だったか、スピリチュアル系だったか、とある本で著者が「そんなに嘘つきなら本でも書けば良い」というようなことを他人に言われたと書いていたのを見て、それもそうかとふと思った。
ただ私の家族は軒並みIQが低かったので簡単に騙せるのだが、私は基本的に根は素直な人間だった。かてて加えて命がかかっているかのような恐怖心が契機になっている家族に対する嘘はなりふり構っていられない。命の危機に瀕した人間の記憶力というのは凄まじいもので、家族相手についた嘘について私は仔細を記憶している。辻褄が合うように瞬時に頭の中でありとあらゆることをシミュレーションしてから嘘をつき、ついたうそについても絶対に忘れないので後から辻褄が合わなくなるような発言もしない。
だが他人を騙すというのは、そんな恐怖心もないせいか、ついた嘘を忘れてしまうのだ。
そんな私にとって、本を書く――物語を作るというのは、結構難しいような気がしないでもなかった。
家庭環境がそんななので現実逃避に本を読み、空想の世界で遊んでいることが多い子供だった。一般家庭の子供が普通に与えられるゲームもテレビを見る時間も禁止されていたので、娯楽といえば漫画くらいだ。しかし漫画はあまり父親受けがよろしくなかった。となると自然、娯楽で読むのはライトノベルになっていった。
基本的になんでも読んではいたのだが、如何せん根本にあるのが親に愛されなかったことによる人間不信だ。しかもどちらかというと共感力の高いHSP気質。あんまりにも暗い話は読んだ後に食欲が失せるし引きずられて気分が落ち込む。児童虐待がテーマの本なんか食欲云々ではなく吐き気がしたし、性的虐待の話をうっかりそうと知らずに読んでしまったときには、覚悟がなかった分気づいたときには吐き気どころが嘔吐いてしまった。しかも厄介なことに、その時の情景がフラッシュバックしてしまう。登下校の最中や全く脈絡のない会話中に突然フラッシュバックするので、もう完全にセラピーとかが必要な精神状態だったのだと思う。
そうやって純文学と推理小説を回避するようになった結果、たどり着いたのがライトノベルだった。
国語の先生の期待を裏切ってコンクールの課題図書を選ばず、いつも自由選択部門でばかり読書感想文を提出していた。当時ライトノベルはまだまだ隆盛の兆しがようやく、と言ったくらいで、中学の読書感想文にそんなものを選ぶなんていう突飛な生徒はおそらく私のほかいなかったのだろう。
先生は私の読解力と、テーマがハマった時の文章構成力は甚く評価してくれていたので、思い通りにならないことに業を煮やし、中学3年の夏休み、本来は自由課題であるはずの新聞主催の作文コンクールの課題を必ず提出するようにと言ってきた。よく考えればその発言に強制力は全くなかったのだと思う。けれど課題の要項のプリントを渡された、大人に逆らってはいけないと思っていた当時の私は、言われるまま作文を書き上げた。
テーマがハマらない時の私の文章力は並以下だ。国語系のコンクールで入賞したことは一度もなかった。私のいた中学にはあらゆる天才が揃っていて、ちょっとびっくりするようなことがかなりの頻度で起きていたが割愛する。何しろそんなわけで、校内コンクールでさえ日の目を見ない私が、学校新聞でもない、本職の新聞記者が主催するようなコンクールで入選するわけがない。
だから私は、思う存分好き勝手なことを書いた。題材は自由だったのをこれ幸いと、ライトノベルでひどく感心した部分の主人公の成長した考えを自分なりに落とし込んで書いたのだ。まぁ平たくいうと、パクったとも言う。どうせ入選しないからバレることもない。
だが私は運がない。その作文は私の予想を裏切って入選した。それどころか新聞に全文が載った。私の顔写真つきでだ。しかも校内には切り抜きが張り出され、町の議会だよりにまで載った。
喜ぶ担任と学級主任、校長、そして母と祖父とは反対に、私は内心、あのパクリはセーフだったのだろうかと、記者が取材に来た時の内心はまさしく犯罪者のそれだった。
それ以降、進学した高校の作文コンクール学校代表はいつも私だった。新聞に載ったということでハクがついたのだろうか。それとも中学にいた天才が軒並み学区外の進学校へ進んだからだろうか。
高校の国語科教諭は、なぜか理系コースにいながら文系科目に特化した私をみんな褒めてくれた。現代文も古典も漢文もどの先生もだ。現文の先生は、夏休みの課題で創作物語部門を勧めてくれた。言われるままに書いたそれを先生は褒めてくれたが、入選することはなかった。けれど私は、以前の「あれはパクリか引用か」で内心真っ青だった頃を思い出し、落選にホッとしていた。正直、先生が褒めてくれたことで十分だったのだ。
思い返してみれば小学校の頃の作文、それも創作文の授業では、先生に褒められつつアドバイスを貰ったこともあった。
絵の才能はてんでなかったので、園児の頃はお絵かきの際に文字を添える子だった。「妖精さんとおしゃべり」だったり、「ぬいぐるみの夢」だったり、ファンシーな文。それもタイトルではなく、ちょっとした物語をつけていた。一コマ漫画みたいなものだ。学力コンプレックスのある母のおかげで(感謝はしていない。私は恨みがましい性格なのだ)、小学校に上がる前に平仮名片仮名は読み書きできた。絵が占める割合よりも文字の割合の大きい画用紙を見て、機嫌のいい時は祖父が「作家になれる」と褒めてくれて、おそらくどこかでずっと、三つ子の魂百まででその言葉が心の片隅にあったのだろう。
それらを思い出した私は、ようやく、何をするかを決めたのだ。
モラトリアム期間なんかとうの昔に終えていなければならない年齢で、やっと、自分の意思でしたいことを決めた。したかったことを思い出した私は、初めてあの家庭環境にも意味があったのかもしれないと、思った。
だから、他人につく嘘が苦手という弱点は、推敲を何度も何度も繰り返せば良いと覚悟を決めて。
私はそうして、短編小説と長編小説を一つずつ書き上げ、コンテストに応募した。
投稿サイトで発表しようと思わなかったのは、もしもコンテストで入選できたら、あのコンクールで喜んでくれたように、もう一度喜んでくれると思ったのだ。それと多分、死んだ後、あの世で祖父と会えたら報告できると思ったのだ。「おじいちゃんが褒めてくれてたからだよ」と。祖父には投稿サイトなんてうまく説明できないから。賞をとった、というのがわかりやすくていい。表彰状や資格証を額装して飾ってくれた祖父は、きっと絶対喜んでくれる。
でも、落選したら手直しして投稿サイトに投稿してみようと思った。手直ししたものを載せながら、新しい物語も書く。これからはそうやって生きていこうと、思っていた。
私が死んだのは、長編よりも先に結果がわかる、短編小説の結果発表を1ヶ月後に控えた、春の日だった。
スローモーションみたいな世界の中で、強く思ったのは――
死ぬのは良い、もともと死ぬ勇気がなかっただけで、早く死にたいと思っていた。だけどどうして、どうして今なんだろう。やっとやりたいことが見つかったのに。いや、違う。本当は、後、後1ヶ月だけ待って欲しい。結果が知りたい。もし落選していたとしても、初めて本気でやりたいって思えたことに、本気で挑戦できたよって、それだけは誇れるって、おじいちゃんに胸をはって言えた。落ちちゃったけど、楽しかったよって。いつも逃げるみたいに生きて来たけど、書いてる間は楽しかったよって。おじいちゃんに褒められた時のこと、思い出したよって。そう、言えたのに。
今度は、祖父と孫娘の話を、書こうと思っていたのに。
どうして、死ぬならどうして、もっと早くしてくれなかったのだろう。二階のベランダから落ちたくらいじゃ死ねないってことを知らなかったあの小さかった頃の私を、どうして死なせてくれなかったんだろう。毎日死にたいと思っていた。家族の機嫌の良し悪しに怯えて暮らす毎日に。パジャマで裸足のまま外に追い出されて鍵を閉められたあの頃にどうして殺してくれなかったんだろう。
自分の体への嫌悪で吐きそうになっていたあの日々に、どうして。
思うに、最初の思いで止めておけばよかったのだ。
今度は祖父と孫娘の~ってところでやめておけば。
最悪そこでやめておきさえすれば、きっとこんなことにはなっていなかった。
私の恨みがましさが仇になったのだ。
この、全然可愛げのない性格のせいだ。
他人のせいにばかりしようとする、この私の恨みがましい捻くれた厄介な性格のせいで。
私は、多分、おそらく、maybe、推察というか推測というか推論というか推して量るに――
いわゆる――悪役令嬢、というものに、転生を繰り返していた。