第三話 どこにでもいるC級冒険者です。通してください
トウトウ村に着くと、まずは役場に向かってダンジョンに潜るための手続きをする。これはいわゆる関所の様なもので、ダンジョンを手に入れた村にとっての主要な収入源の一つになる。
「次の方、どうぞ」
役場の受付窓口にでかでかと掲げられた料金表を見ると、この村のダンジョンの通行料は一回につきダムツ金貨一枚らしい。ダンジョンの規模と想定されるモンスターを考えれば十分以上に黒字になる良心的な価格設定をしているみたいだった。
「これで頼む」
前のパーティーが退いて僕達の番が来ると、受付に進み出たサルバが二人分の冒険者の証と金貨を差し出す。
「C級の”ドルフ”さんと……あら、あなたの方はB級なのね”イルマ”さん」
そう言って少し驚いたように目を丸くした受付のおばさんは”ドルフ”と書かれた証を僕に、”イルマ”と書かれた証をサルバにと、愛想笑い混じりに返却する。
(ま、そういう反応になるよね)
開口直後なら兎も角、ある程度時間の経ったC級ダンジョンに態々B級の冒険者が来るなんてことはまず無い。まあ、最後の愛想笑いを見ると、僕の証を見て新人か何かの腕試しとかその辺だと納得してくれたみたいだけど。
「なあ」
そうして役場を出ると、人が疎らになったのを見計らったかのように、隣のサルバが声を潜めて話しかけてきた。
「なに?」
「あの受付のおばはんも、まさか流れ作業の感覚で通した冒険者が自分達のダンジョン探りに来た閉鎖士だとは思わなかったみたいだな」
「そんなもんじゃない? モンスター一匹出なくなったダンジョンを前にしても、まだ閉鎖される謂われはないなんて駄々をこねるのが村人のスタンダードだし」
「辛辣だな」
ケケケッと笑ったサルバが「ダンジョン閉鎖士って、皆お前みたいな感じなのか?」とこっちを揶揄する様に口元を持ち上げた。
「どうだろ? 多分そうだとは思うけど、僕もサンプルになる他の閉鎖士っていうと一人しか知らないからね」
「その一人ってのは?」
「うちのギルド長」
「は? あのばあさん、ダンジョン閉鎖士だったのか?」
僕の答えが意外だったのか、サルバが頓狂な声を上げて立ち止まった。
「そうだよ? 僕が渡した”ダンジョン・コア”を舐めてたでしょ?」
「そういや、そうだったな」
昨日のギルド長室で”コア”を舐める妖怪石舐めの姿を思い出して、サルバが興味深そうに頷く。
「ちなみに、僕のダンジョン閉鎖士の師匠」
「マジか……」
「驚いた?」
「いや、むしろ納得したわ」
僕が首を傾げると、サルバは頭を横に振った。
「あの性格と口の悪さは確実にお前の師匠だ」
「はっはっは」
言うじゃん。
僕が片刃剣を振り抜くと、サルバは即座にしゃがんで回避した。
「やっぱ、そんぐらいじゃねぇと、あの性質の悪い村人崩れとは渡り合えないのか?」
「どうだろ? 僕自身は特に意識したことはないし、ギルド長の性格の悪さも鶏が先なのか卵が先なのかって言われると……」
村人との折衝とか関係なしに、単に生まれついての性格の悪さな気がしないでもないというか……。
「確かに難しいわな」
僕の言わんとすることを察したサルバは、またケケケッと笑うと一瞬見えた青い左目を細めて「着いたな」と呟いたのだった。
「そだね」
僕も隣のサルバに倣って立ち止まる。
サルバの言葉通り、辿り着いたのはこの村のダンジョン。村の主な産業という事もあってか、分かりやすく目印の看板も立てられていて、ちらほらとだが他の冒険者の姿もあった。
入口には一応の見張りらしい村の人が番台の様な机の前に座っているけれど、特別厳重に出入りを看ている様子はない。僕達が冒険者の証を見ても、手続きが完了している事だけを確かめると、やる気のない口調で「どうぞいってらっしゃい」とだけ呟いたのだった。
◆
ダンジョンに入ると、サルバが慣れた手つきでランプに火を灯してから、「んで?」と首を傾げてきた。
「こっからは実地調査なんだろ? 具体的には何をどうやるんだ?」
「そうだね」
僕もポケットから書類とペンを取り出す。
「やることはいくつかるんだけど、今日はまずモンスターの計測から始めよっか」
「つーと?」
コテンと反対側に首を傾けたサルバが、僕が差し出した書類に書かれている、このダンジョンの地図に鼻尖を向けた。
「僕達が来る前にも他のあのおじさんのギルドの人達がやってたみたいだけど、一応僕達の方でも実際にモンスターを倒して、時間あたりの数と種類、それと出現場所を確認してみたいんだ」
先にもらったデータが間違ってるとは言わないけど、あくまでモンスターの出現場所の偏りによるものの可能性がないわけじゃないからね。
「ん。りょーかい。なんか注意することはあるか?」
「最低でも今日中に三ヶ所は回るから、ペース配分には気を付けて」
「よし。じゃー行くか」
頷いたサルバがランプを持つのとは反対の手で拳銃を握り、初手のために撃鉄を上げる。と、そこで何かを思い出したように「そーいや」とこっちを見上げてきた。どうかした?
「お前、モンスター討伐の経験は?」
「ゼロではないけど、殆ど無いかな。それ以外なら多少は経験ある方だと思うけど」
「そーか」
僕の返事を確かめるように頷いたサルバが心持ち早足になって僕の前に出る。
「サルバ?」
「経験があんまねーならウォーミングアップは必要だろ? その間は俺が前衛務めてやるからさ」
「そうだね。じゃあ、甘えさせてもらおうかな」
そう言って悪戯っぽく口角を持ち上げるサルバに、僕も軽く肩を竦めた。
「ま、あんま無理しないでいこーぜ。やばそうなら、即逃げるくらいのつもりでな」
「……」
「? どうかしたか?」
そんなサルバの言葉に、僕は意外な気持ちになって、長い前髪に覆われた顔をまじまじと見下ろした。サルバは僕の視線が不思議だったのか首を傾げたけど……ねえ?
「正直、サルバが思いの外慎重で驚いたなって」
「そーか?」
「うん。てっきり『いくぞー!』で突っ込んで行くと思ってた」
「お前の中で、俺はどーゆー評価になってるんだよ」
そう言って、サルバがむすっと頬を膨らませる。うーん……
「人気の無い夜道で草葉の陰に隠れたまま、こっちを探ってくる人。あと、酒癖がすごい悪い?」
僕は少し考えて、率直な感想を口にしてみる。会ってせいぜい一日の関係だし、正直これくらいしか情報が無いんだよね。
「……」
「……」
「……ぐぅ」
あ、何か胸を押さえてる。
「うん、まー、確かに、お前から見たらそーだよな。うん」
「そうだね。じゃあ、行こっか」
自分の頭を抱えたまま、ぶつぶつと呻くサルバに頷いて先を促すと、「おー……」と気の抜けた返事を漏らしたサルバは左手のランプを揺らしながら、暗いダンジョンの奥へと意識を向けたのだった。
「……」
その後ろで僕も片刃剣の鍔を親指で押し上げて、いつでも抜けるように準備しておく。
サルバが歩く都度にランプが揺れると、その淡い光に舐め上げられた岩肌に、僕達二人分の影が躍ったのだった。
◆
ザンッ!という、押し固められた空気を粗い鑢で削り取る様な発砲御音が狭いダンジョンの坑道で反響する。
「……っし、これでゴブリンが十三匹目だな」
「ゴブリンが十三ね……」
パキリと拳銃の弾倉を割り開きながら、サルバが淡いランプの光に照らされたモンスターの死体を眺めて言う。サルバのカウントを復唱しながら、僕は書類の一部に十三と数字を書き込んだ。
書類への記入を終えて時計を確認すると、ここでモンスターの討伐を開始してから、丁度長針が一回りしたところだった。
「そろそろ移動しよっか」
僕が声を掛けると、丁度弾丸の装填が終わったらしいサルバが顔を上げて「おう」と頷きながら駆け寄ってくる。
サルバが並んだのを確かめて歩き出すと、隣のサルバが「で、何か分かったのか?」と首を傾げた。
「流石に一か所目だけじゃ分かりやすい結果は出てこないかな」
多少の揺らぎはあっても、その相関は判断出来ないしね。
僕の答えに「それもそうか」と頷こうとしたサルバだったけど、今殺した十三匹目のゴブリンを仕留める間に浴びた返り血を拭……おうとして、前髪を退けるのに四苦八苦していた。そんなに邪魔なら切れば良いと思うんだけどね。
「ま、そういう訳だから、次の測定場所に移ろっか」
「ん? おお、サンキュ」
僕がハンカチを差し出すと、受け取ったサルバが水滴を搾る様にして前髪に染み込んだ鮮血を拭い取る。そうして、一通り身繕いを終えた僕達は更に一歩、ダンジョンの奥へと足を踏み入れたのだった。
◆
結局、ダンジョンの調査を終えた僕とサルバが暗い穴倉から戻ってこれたのは、陽がすっかり沈んだ後のことだった。
辺りには夜の帳が降りて、ダンジョンの中と外の境目が曖昧になった中、闇くて陽気な夜の喧騒に包み込まれる様に、僕とサルバは村の酒場へと足を運んでいた。で、
「んぐっんぐっんぐっ……ぷはあぁぁぁぁぁ!!!!」
「……」
酒場の一角に腰を下ろしたサルバは、僕が制止するのも聞かずに、早速注文した大ジョッキを一杯のエールを一息に飲み干していた。
「ひっく……ふぃ~~…… んお? アルタは飲まねーのか?」
「まだ仕事が残ってるからね」
案の定、豪快な飲み方のわりに、あっさり真っ赤になってるし。それでもまだ少しだけ理性が残っているのか、僕が「名前」と注意するとすぐに気づいて「悪い悪い。”ドルフ”」と言い直したのが救いかな。
そんなことを考えながら果実を搾ったジュースを飲んでいると、「そうか……」と呟いたサルバが名残惜しそうに空っぽのジョッキをテーブルの隅に押しやった。
「”イルマ”が飲む分には止める気はないから、好きにしてもらって構わないけれど?」
仕事はもう終わってる訳だし。
「仲間がまだ素面なのに、一人でパカパカやれるほど俺の神経は太くもなけりゃ、薄情でもねーよ」
そう言って代わりに料理を頼むサルバに、僕は意外なものを見る目を向ける。案外常識人っぽいのは知ってたけど、この赤ら顔でまだ理性が残ってたとは。
「ま、次の機会にまた飲もうぜ」
「そうだね」
そう言って、はにかむ様な笑みを見せたサルバに、僕も軽く肩を竦める。何となく、夜の陽気と喧騒に塗れた酒場の中には似つかわしくない静かな空気で、それ以上言葉を交わすこともなかったけど、不思議と気まずい空気じゃなかった。
けど、この数分後に、僕達はこういう食事をするのには場所が悪かったことを悟ることになる。
ガンガンにお酒を呷って、騒ぎ立てるのがデフォルトな冒険者の酒場で、静かに飲み食いするのは却って目立つことになる。そして、その片割れが目元こそ伺えなくても、雰囲気で美人だと分かる佇まいをしていれば、当然他の酔っ払いに目を付けられるに決まっていた。
「「あ……」」
切欠は些細なことだった。丁度、二人揃って食事が終わるかといったタイミングで、僕の側にあった魚の干物に手を伸ばした瞬間、成れない身体に目測を誤ったサルバが、コートの上からでもそれと分かるおっぱいを、ナイフとフォークが置かれた丈の高い皿に引っ掛けちゃったのだった。
「やべっ」
サルバが慌てて深皿に手を伸ばすけど一息遅く、床に落ちたそれはカシャンッという音を立てて砕け散ったのだった。
「「「「「「……」」」」」」
野太い男の人達の声の中で、軽く鋭い挟異音がやけにくっきりと響き渡った。
「……」
「……」
対する僕達は周りからの好奇の視線に晒されながら、顔を向かい合わせた。なんて言うか、サルバは凄い気まずそうだった。男の身体だったら絶対にしない失敗だもんね。まあ、僕は気にしないけど。
「店員さん呼ぶね?」
僕がそう言うと、「すまん、頼む」とサルバが頷いた。声を掛ければ店員さんはすぐにやってきて、事情を説明して弁償する旨を伝えると、すぐに事情を理解したのか伝票に何事かを書きつけてから、お盆に深皿を乗せてすぐに奥へと消えていったのだった。
「よう、災難だったな?」
その姿を見送って、それじゃあお会計を済ませよっかと席を立とうとしたその瞬間、妙に馴れ馴れしい口調で、僕達より少し年上の冒険者の男の人が割って入ってきたのだった。
「”イルマ”、知り合い?」
「いや、知らねえな。誰だてめー?」
念のため確認してみたけれど、サルバの方も心当たりが無いのか不快そうに唇を尖らせた。
「ああ、知らない? もしかして、トウトウ村は今日が初めて? 俺はパブ。今はこの村を中心に冒険をしているB級の冒険者さ」
パブと名乗ったその冒険者はやけに”B級の”を強調すると、短く切り揃えた顎鬚を撫でながら、サルバに向けてパチッとウィンクをしたのだった。
(知ってる?)
(いや、知らねぇ。つか、今日はお前とずっと一緒に居たんだから、お前が知らねぇ奴の名前を俺が知ってるわけねーだろ)
(それもそうだよねえ)
何か、軽くポーズを取っているパブ……さん?を前に、僕とサルバは互いに記憶を確認し合うけど、やっぱりというかなんというか、最後まで記憶には行き着かなかった。……ギルドの名簿探せば分かるかな?
「……んで? そのB級冒険者様が何の用だ?」
僕がそんなことを考えていると、明らかに意識を向けられているサルバが少し嫌そうにしながらも、そう尋ねた。
「んー。用って程の事でもないんだけどさ。もし良かったら、これから僕達と飲まない? って思ってね」
そう言いながら、アゴヒゲの冒険者はにっと黄色い歯を見せた。
「はぁ?」
「だって隣の彼、君がせっかく誘ってんのに、エールの一杯も頼まなかったでしょ?」
「下戸は困るよねー」とニヤニヤとした笑みを浮かべる彼に、サルバは「何言ってんだこいつ?」とでも言うように唇を尖らせた。うん、僕も正直同意見。
「訳分かんねぇ。てめぇ酔っ払って……いや、そもそも酔っ払いだったか」
ガシガシと頭を掻きながら吐き捨てかけたサルバは、途中でその言葉がむしろ真だと気付いて納得する。対する黄色い歯をした酔っ払いはといえば、サルバの言葉に応えた様子もなく、「ひどいなー♪」と笑って、節くれだった手でサルバの肩を抱き寄せたのだった。
「てめっ!?」
(不味いかな、これ)
反射的にその腕を振り払うサルバを見ながら、僕は念のため酔っ払いに気付かれないようにテーブルの上の食器の一部を拝借する。
「行こっ”イルマ”」
そして、サルバを酒場の外へと促すと、頷いたサルバもふんっと鼻を鳴らして、この場から立ち去ろうとする。正直、一般の酒場に入った経験なんて殆ど無かったけど、こんな面倒になるなんて……って、
「……」
僕がサルバの背中を軽く押した瞬間、僕とサルバの間に割って入る物があった。
それは黄色い電球の下で鈍く光る鋼剣で、その根元を追いかければ当然の様にパブと名乗った冒険者の右腕があった。
「……どういうつもりですか?」
念のため声を掛けてみるけど、正直まともな返答は期待してなかった。
「見てわかんねーかなー」
案の定、返ってきたのは怪しくなった呂律と酒臭い息に混じった、意図の不明な質問だった。
「てめぇみてぇなガキにゃ分からねぇだろ。お前の仲間は今から俺達といいことすんの♪ 酒も飲めねぇC級は一人でマスでも掻いてさっさと寝とけ」
ぺっと粘着く痰を床に吐き捨てたその冒険者は、にへらっという気の抜けた笑みとは対照的なギラギラとした眼をサルバに向けて舌なめずりをする。っていうか、達?
「よー、良い娘居たかよパブ?」
一瞬首を傾げたけれど、直後に響いた別の男性の声に状況を理解する。
「困るぜ、今日は何処の娼館も良い嬢が全員予約済みになってんだからよー」
「わりぃわりぃ、今行くわ」
パブと名乗った冒険者が振り返った先に居たのは、ダンジョンコートの上からライトアーマーを身に着けた屈強な男の人と、多分エーテルソーサラーと思われる杖を持った長い金髪を無造作に流したお兄さんだった。
今の話口からして、この人のパーティーメンバーなんだろうけど、身形の良さの割りにどことなくひげさんと同じ退廃的な雰囲気を纏っていた。
「じゃ、行こーか♥」
「あ」
終わった。
僕が入口へと続く道を追加で出現した冒険者に包囲される形となった状況で、どうサルバを逃がそうかと考えていると、既にべろんべろんに酔っぱらっていたところに仲間の出現も手伝った目の前の冒険者は、よりにもよってさっきからチラチラと目を向けていたサルバの胸を何の躊躇もなしに握り潰す様にして揉みしだいたのだった。
そして、既にいっぱいいっぱいとなっていたサルバの理性の杯が怒りの炎に掛けられれば、一瞬で吹きこぼれるのは当然のことだった。
「何さらしてんだ、ごらああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
怒号と共に降り抜かれるサルバの膝。鋭角にぶちこまれたニーキックが容易く男の睾丸を蹴り潰した。
「がびょっ!?」
股間を撃ち抜かれたB級冒険者は間抜けな悲鳴と共に白目を剥いて崩れ落ちる。股座を抑えた際に取り落としたジョッキはカシャンという軽い音を立てて砕け散っていた。うん、痛そう。
「その痛み分かってて、やる?」
「分かってるからこそ、やるんだよ!!」
そりゃそうだ。
男性器が無くなっているサルバを揶揄うと、ふーっふーっと荒く息を吐いていたサルバがこっちを振り向いた瞬間に割れた前髪の隙間から覗いた青い左目には、それだけで人を殺せそうな殺気が浮かんでいた。
「「このあまっ!!」」
「っと」
睾丸を潰された仲間の姿に一瞬唖然としていた戦士とエーテルソーサラーが、はっと我に返った様に、それぞれの得物を構えようとする。
突然の鉄火場の空気に、周囲の低級と思われる冒険者の人達は、慌てて自分の武器や装備を手に取って、逃げ出す様に店から転げ出て行った。まあ、
「残念ながら、あまじゃなくて、やろうの方なんだけどねっと」
僕としてはぎっておいたナイフとフォークが無駄にならずに済んでよかったなって感じかな。
「ぎゃっ!?!?」
「ソカロ!?」
エーテルソーサラーが詠唱を紡ぎ切るより先に、その頬肉にステーキ用のナイフを突き立てる。そして、右頬の外から左頬の内側までを貫いたそれを一気に手前へと引き千切る。
「げ……へっ……」
ぶちぶちっという頬肉が引き千切れる感触と共に、エーテルソーサラーの詠唱が無事に中断される。代わりにうーうーと唸りながら口を抑えて床板の上に倒れるのを見下ろしながら、僕は刃がダメになったナイフを投げ捨てた。途中こそげたらしいざらざらの舌肉がピッとナイフの鎬から剥がれて、ぺちゃりとどっか遠くに落ちた音がした。
「一瞬だな」
「ま、こんな至近距離で祝詞を唱えてたらね」
感心した様に呟くサルバに、僕も軽く肩を竦める。見れば、サルバの方はサルバの方で、戦斧を振り被った最後の一人に銃口を向けている。
「動かないでくださいね?」
睨み合う二人の前で、僕は最初に睾丸を潰された冒険者の前髪を掴んで持ち上げながら、でろんと露になったその眼球に、ナイフと一緒に握りこんでおいたフォークの歯を突き付ける。
「くっ……」
状況は二対一。しかも、人質を一人取られている状況に、明確な不利を理解しているのか、ちらちらと自分の後ろにある酒場の出口を窺っているようだった。んー、まあ持って帰られるよりも、僕達が出る方が早いかな?
そんなことを考えながら目の前の冒険者に「どいてくれません?」と声を掛けると、その冒険者は一瞬ぎょっとした様に僕達を見ながら、すぐに慌てたように僕とサルバ、そして人質にされた顎鬚の人とエーテルソーサラーに視線を走らせる。多分、仲間の解放とかそんなことを考えたんだろうけど、そもそも前提条件が間違ってるよね。
「元々、僕達は宿に帰るつもりでしたから、邪魔をされないならこれ以上何かをする理由も無いんですよ?」
僕の説明に、及び腰になりながらも最低限のことは理解したのか、じりっじりっと横に移動を始める。けれど、やっぱり仲間が気になるのか、サルバの拳銃と僕が掴み上げた顎鬚さんを見比べながら、瞳に躊躇をする様な色を見せた。
「会計に時間が掛かるから、その間は持たせてもらいますけど、それが終わったらもういりませんよ。重いだけだし」
「……」
僕の説明にもう一歩奥に移動して、完全に道を開けるライトアーマーの冒険者さん。
「どうも」
その姿に礼を言って、リボルバーを構えたサルバを促すと、サルバは銃口を向けたままじりっじりっと酒場の入口へと進んでいく。そして、十分に距離が取れたところで、僕も顎鬚の冒険者さんを盾にしながら、ゆっくりとサルバの後を追って移動を開始した。
サルバと合流すると、そのまま酒場の入り口に向かい、会計のためのカウンターに置かれた呼び出し用のベルをチンッと鳴らす。直後に聞こえた「えっ」という声にカウンターの中を覗くと、さっき給仕をしてくれたウェイトレスさんが顔を真っ青にしてこっちを見上げていた。
「すみません」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
「お会計お願いします」
「おい、第一声はそれでいいのかよ」
僕が要求を伝えると、何故か隣のサルバが拳銃を構えたまま頭痛でも起きたかのように頭を抑えた。何か変なことあったかな? ……ま、いっか。
「て、帝国銀貨二枚で」
「? 食器代は?」
「め、めめめめめ滅相もございません!!」
僕が首を傾げると、何故かウェイトレスさんはわたわたと慌てたように両手を振った。んー……?
「ま、いっか」
御代が安くなるのはありがたいし。
僕は掴み上げていた顎鬚の冒険者さんを適当に捨てると、髪の脂でべたべたになった手をそのコートで拭いてからポケットの財布を取り出して、言われたままにダムツ銀貨二枚を差し出した。
「あ、た、確かにっ!」
銀貨を受け取ったウェイトレスさんが上ずった悲鳴と共に「ありがとうございましたぁ!!!」と一礼するのに、「ごちそうさまでした」とだけ返して、その酒場を後にする。そして、後ろをついて来たサルバは拳銃をホルスターに収めて少し歩くと、
「やらかしたぁ!!」
と叫んで、唐突に頭を抱えてしまったのだった。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも」
僕が首を傾げると、ガバッと顔を上げたサルバが酔いも吹き飛んだ様子で縋りついてくる。
「酒場であんなことしちまったら、冒険者としての評価が!!!」
「ああ、それ?」
切羽詰まったサルバの言葉に、僕は軽く肩を竦める。
「大丈夫だって、それくらいなら」
「いや、でも」
「だって、”イルマ”がやったことでしょ?」
「いや、だか……」
僕の言葉に、一瞬反駁しかけたサルバだったが、ここの間でだけ伝わる意味に、はっきりと硬直した。
「え? いや、良いのか?」
「良いも何も、そういうものだし」
諸々含めて、気にする必要無いって。
僕がそう言うと、まだ釈然としないみたいだったものの、何か言っても仕方がないことは理解したのか、サルバは深いため息とともにテクテクと僕の後をついてくるのだった。
「か、顔削ぎ……」
道中、どこからともなくそんな声が聞こえた気がしたけど、それも夜の歓楽街に吞み込まれて、それ以上僕達に何かをしてくることは無かったのだった。
◆
酒場を出た後、特にやることも無かった僕達は、今晩の宿でチェックインをすると、思い思いに就寝までの時間を過ごしていた。と、
「……サンキューな」
僕が村のダンジョンの調査結果の整理をしていると、不意にベッドに寝転んでいたはずのサルバが、背中越しにそんなことを言ってきた。
「? 何が?」
「さっきのこと。加勢してくれただろ?」
「ああ」
それね。
「別に、僕が手を出さなくても、サルバなら対処できたでしょ?」
完全に僕の行動は時間の節約以上の意味はなかったし。
「まあ、そうなんだけどな」
そう言って、ふと口許を緩めながら、サルバが頭を掻いた。
「前のパーティーだと、あんまりそういうのは無かったからな……」
「ふーん?」
なんか、妙に物思いに耽る様な口調だけど、なんかあったのかな。
「まあ、思い返してみりゃ、ダリア達を護らねぇとって、俺が勝手に空回りしてただけなんだろうけどな。ダリアともう一人の仲間も大分美人だったから、他の冒険者の奴からちょっかい掛けられることが多くて……」
「あー、そういう……?」
視線を書類に向けたまま、意識の方はサルバの話に飛ばして、僕は軽く相槌を打ちかけてから、湧いた疑問に首を傾げた。
「あれ? じゃあ、もう一人の仲間はどうしてたの?」
「あいつはいっつもダリア達のことを庇う役だったな」
「なるほどね」
どっちの行動が正しいって話じゃないんだろうけど、パーティーが四散しちゃった今となっては、サルバとしても色々と考えちゃうのかな。
「俺の方から加勢を強要すんのも違うだろ? でも、感謝してんのは本当だからな」
「そういうことなら、素直に受け取っておくよ」
サルバの言葉に軽く肩を竦めながら、僕はそんなことを考えた。
(さてと……)
そうこうしている間に今日の潜航で手に入った情報を全て清書し終えたダンジョンのマップの隣に、事前に白髪のギルド長から受け取った、他の調査者が作成した記録を並べる。
そこには、直近の調査でエンカウントしたモンスターの種類と数、そしてドロップアイテムなんかが細かく書き連ねられていた。
「……」
「? 何か、見付かったのか?」
僕がその書類を眺めていると、いつの間にか後ろに立っていたサルバが、こっちの手元を覗き込んで小首を傾げていた。んー、そうだね……、
「新しい発見は特に無い……かな?」
「そうなのか?」
「うん」
幾分拍子抜けた様に小首を傾げるサルバに、僕は軽く首肯を返す。
「まあ、事前に聞いていたモンスターの増加自体がそもそも割と異変で、そっちの方は今日僕達が潜った時のカウントでも出てるから、普通に異常事態ではあるんだけどね」
「ほーん……」
僕が軽く資料の一部を叩くと、身を乗り出していたサルバはそこに鼻尖を向けて軽く首を傾げた。
そこには、今日潜ったこの村のダンジョンの地図が描かれていて、所々に細かく文字と数字が書き込まれている。
「この地図の上の黄色い○が去年の観測地点で、赤いのが一昨年。で、こっちの青いのが白髪のギルド長さんのところが確認したところで、中を塗潰した青い●が」
「今日、俺達が観測をしたところってことか」
「そういうこと」
サルバの確認に、僕は首肯を返した。
「元々、あっちのギルドの調査でモンスターの密度が減少傾向から反転しているってのは分かってたけど、念のため同じ場所を確認したんだよね」
仲良く赤黄青青と並んだ○の隣に、一つだけ塗潰した青い●。
「で、この数を並べると……」
「一目瞭然だな」
次の資料を捲った先を前に、サルバはそう言って唇を尖らせた。その前髪で見えてるのかな? ……まあ、いいけど。
サルバの顔の先には一枚の折れ線グラフが描かれていて、三本の線が多少のジグザグを繰り返しながらも綺麗に下降線を辿っている。グラフタイトルには”モンスター観測数”の文字。そして、その下降線の傾斜が正常なジグザグの範囲を超えて、今年の分だけ明らかにぴょこんと上へ突き出ていた。
「ダンジョンのモンスターが生殖能力を持たない以上」
「明らかに異常ってことだな」
サルバの言葉に「そーゆーこと」と頷きながら、僕は軽く伸びをする。他の書類にはモンスターの種類とかもちょこちょこ書き入れいているけれど、そういった詳細情報以前に、この結果が異常という意味ではその全てだろう。
「んで、こっからどうすんだ?」
「取り敢えず、”コア”の出そうな場所の確認かな」
僕を宛がった以上、僕にしか出来ないことは最低でもやっておかないとね。
「”ダンジョン・コア”って、まだダンジョンにモンスターが居る時から出来てるもんなのか?」
僕の言葉に、少しサルバが意外そうにするけど、ちょっと違うかな。
「あくまで”ダンジョン・コア”の結晶化は最後の一匹を殺した後だね。けど、結晶化前から僕は臭いで”コア”要素を持った場所を大まかに観測できるからさ」
「なるほどな」
頷きながら「場所のアタリとかはあんのか?」と首を傾げたサルバに「多分この辺」と地図の奥を指さす。
「出現するモンスターの密度も自然と濃くなるし、種類も強いのが増えるから、調査っていう意味じゃ明日の方が本番だね」
「ん、りょーかい」
頷いたサルバがピョンッとベッドの上にダイブして、ボフンッと音を立てながら寝っ転がる。
「んじゃ、そろそろ寝ようぜ。明日が本番なら、きっちり体は休ませねーと」
「そうだね」
頷いて資料をしまうと、僕も服のボタンやベルトを緩めてサルバの隣のベッドに潜り込む。
「明日はどんなモンスターが出てくるかな」
なんて、声を弾ませたサルバが枕元のスイッチを押すと、部屋の電気が消えて中の光はカーテンを貫く娼館の赤やピンクといった毒々しいネオンのそれだけになる。そして、数分もしないうちに、隣からはスースーという静かな寝息が聞こえてきた。
「早寝早食いは冒険者の作法なんて言うけどね」
清々しいまでのサルバの寝つきの良さに妙な関心をしながら、僕は真っ暗になった天井を見上げて、なんとなく「おやすみ……」と言ってみた。
そういえば、こんな言葉を使ったのはダンジョン閉鎖士になってからは初めてだった気がした。
◆
「なっ!?」
「あ、あいつらは!?」
「んー?」
翌日、サルバと連れ立って町役場に着くと、何故か周りの村人さん達や冒険者の人達が僕達を見てざわついていた。
「あいつが……」
「ああ、間違いねぇ……」
「顔削ぎ”ドルフ”……」
辺りからは小雨が打ち付けられた水たまりの様にひそひそとした耳打ちが浮かんでは消えている。……ま、いっか。
「妙な綽名だな」
「そう?」
僕が今日のダンジョンへのアタックの手続きを済ませると、隣のサルバが揶揄う様な口調でそう言って、ケケケッと笑った。
「ま、ぴったりだけどな」というサルバにもう一度「そう?」と首を傾げると、何故か自信たっぷりにサルバは「間違いなくな」と頷いたのだった。
「だって昨日、あんだけ躊躇なく冒険者の奴らの顔を刻みまくっただろ?」
「しょせん脅しでしかないんだけどね」
僕が肩を竦めると、サルバは「あれでかよ」と笑った。そりゃ、もちろん。
「だって、本気ならさっさと殺ってるし」
「は……?」
僕がそう言うと、サルバは「え? マジで?」とでもいうような表情でこっちを向いた。そりゃまあね。
「一応、今は表向き冒険者だからってのもあったけど、普段だった普通に殺ってるよ? だって、冒険者には人権なんて無いし」
「マジかよ」
「マジだよ」
意外と知らない人が多いけどね。
このダムツ帝国では、冒険者という職業自体が社会的なセーフティネットという側面を持っていた。そのため、浮浪者だろうが他国人だろうが、ギルドに登録しさえすれば、誰でも即座になれるのが、ダムツ帝国の冒険者だった。
けれど、そんななりやすさの代償として、登録と同時に一般的な身分が”市民”から”奴隷”に叩き落されるという鉄則が設けられている。
これは、元々冒険者にならざるを得ない人間なら、人権があろうが無かろうが困窮状態は変わらないという事情もあったし、場合によってはA級となってとんでもない高給取りになる冒険者という身分を他国の人間に悪用されないようにするための知恵でもあったらしい。
まあ、そんな事情は置いておいて、非冒険者で皇帝直属の組織に身を置く人間は事情によっては冒険者を殺害しても大した罪にならなかったりする。だからといって、無暗に殺す気も無いけど、邪魔なら邪魔でそういう対処をするのをためらう理由も特になかった。
「……こえーな」
「俺、やっぱダンジョン閉鎖士になってよかったかもしれねぇ……」と呟くサルバに肩を竦めながら、僕達二人は昨日の時と同じく、再びトウトウ村のダンジョンのやる気のない番台前を通り過ぎたのだった。
◆
ザンッ!! という、そろそろ聞き慣れた感のある空気と弾丸の摩擦音が暗闇に響いて、ダンジョン坑道に群れを成していた先頭のリザードマンの鼻っ柱に三つ目の穴を穿つ。
「んっ」
間髪入れずに踏み込むと、そのままつるりとした鱗を取る様に、頸根から鼻先へと向けて片刃剣の刃を入れていく。
「ギッ!?!?」
「グギャッ!?!?」
ザリンザリンと鱗ごと落ちた顔面の表皮に、地べたに体を投げ出して見悶えるリザードマン達。その胸部や首筋に素早く刃先を差し込んで締め終えると、軽く辺りの臭いを嗅いで、不意打ちや横取りを狙おうとするモンスターの気配が無いかを確かめる。
「やっぱり”顔削ぎ”じゃねーか」
僕が片刃剣に血振りをくれていると、てくてくとこっちにやってきたサルバが拳銃をホルスターに収めながらニヤッと笑った。
「効率が良ければ顔以外から行くこともあるけどね」
僕がそう言って肩を竦めると、「そうかよ」と笑みを深くして、こっちも肩を竦め返してきたのだった。
正直、本来の目的からしたら追い散らせればそれでよかったんだけど、思いの外戦意が高かったせいで殺さざるを得なかったモンスターの死体を担いで、僕達は更にダンジョンの奥に向かって歩き出す。
「そういえばさ」
「あん?」
そこで、僕はふと思い出した前々からの疑問を何となく口にしてみていた。
「サルバってそれ前見えてるの?」
「……」
長い前髪。サルバの容姿を言い表すなら真っ先に上げることになりそうな特徴はどう見ても暗い洞窟では邪魔に見えた。というか、それでよく的に当てられるよね。何か秘密でもあるのかな?
「あー、一応見えてるな」
「あ、そうなんだ。でも、一応?」
「くっそ見辛いからな」
「ダメじゃん」
どうやら、そんな都合のいい秘密は存在しなかったらしい。
「ていうか、それじゃあどうやって当ててるの?」
「んなもん、勘に決まってるだろ」
「……」
さも当然そうに言われた。そっかー、勘かー。
正直、知りたくなかった。というか、昨日もそうだけど、僕結構至近距離でパンパンされちゃってたよね?
「お前なら、当たっても問題ないと思ってな」
「はっはっはー」
このやろう。
「あんまり調子に乗ってると……削ぎ落とすよ?」
「顔をか?」
「いや、取り戻した直後のちんちんを」
「止めろよ。おい」
サルバは股間を抑えて後退った。
「っと」
不意にちりついた殺気に、短剣を抜くとサルバに向けて投擲する。
「っ!」
サルバがしゃがみこむのと同時に「ぎゃんっ!?」という悲鳴が響いた。
「……」
「……」
どさりと崩れ落ちたのは、眉間から短刀を生やしたホブゴブリンだった。
「サン!?」
いつも通りの軽い口振りでお礼を言いかけたサルバが、今度はリボルバーを抜いて僕の方に銃口を向けると、即座に引き金を引いた。
弾丸の向かった先を振り返ってみれば、こっちではギチギチと爪を鳴らす大きな蜘蛛のモンスターがいた。
「呼吸は合ってきたな」
何の事も無さそうにホルスターに銃を戻すサルバだけど、普通にかすってるんだよね。というか、頬痛い。……ま、良いけどさ。
「行こっか」
「おー」
とりあえず先を促すと、サルバが気のない返事と共に頷いた。
そして、それは直後に起った
「ぬ!?」
「サルバ?」
不意に後ろで響くやけに切羽詰まった呻き声に振り向くと、丁度一か所だけ狭くなったダンジョン内の凸凹の中で、身体を横向きにしたサルバが顔を青くしていた。
「どうしたの? 何かあった?」
「……」
確かめても、答えることもなく、ただただ冷や汗を流している。んん?
「……」
「……」
「……」
「…………………………………………………」
長い、本当に長い沈黙。けれど、傍目から見ていても、サルバが物凄い葛藤と焦燥を抱えているのが分かった。いや、何で?
「…………た」
そのまま、沈黙が延々と続くかと思われたころ、不意にサルバがポツリと何かを漏らした。んん?
「……かっ……た」
「……」
聞こえない。けど、何か鬼気迫る顔で言われると、こっちも聞きずらいんだけど……。ねえ、
「どうしたの?」
「……」
改めて尋ねると、苦り切った表情の末に、サルバが諦めたように溜め息をつく。
「……胸が引っ掛かった。助けてくれ」
「どう反応すれば良いのさ」
うん、それは言いたくないよね。というか、"男"としては胸が引っ掛かって、身動きがとれないとか、肉体的にも精神的にも罰ゲームだし。うん、
「切り落としてみる?」
「止血が出来るなら、悪くない案だと思ってる自分がいるな」
ま、そうだよね。……どうしよう?
このままサルバには引き返してもらうって手もあるけど、その場合普通のダンジョンに潜った経験の薄い僕のリスクが無駄に大きくなっちゃうし……。
「……なあ」
思案していると、渋い顔のサルバがポツリと口を開いた。
「ん?」
「これ、押し潰してくれねーか?」
心底、本当に心底嫌そうにそれを指差す。うん、まあ、
「それしかないよね」
サルバの指差す先。丸くて大きな、本来付いてない筈のそれ。要するにおっぱい。
「仕方ないか……」
体勢の関係上、サルバ本人がそれをすると、今度は背中が支えちゃうしね。
「入れるよ」
「おう」
ダンジョンに引っかかってるサルバのところまで引き返すと、小さな隙間を見付けて、無理やり岩肌とおっぱいの間に手を差し込む。そして、十分奥まで腕が入ったのを確かめると、サルバに「準備良い?」とだけ確認をすると、サルバはコクリと頷いた。
「せーの」
「!!」
掛け声と共に胸を潰すと、それに合わせてサルバが両足を踏ん張る。
瞬間、実にあっけなく、スポーンと飛び出てくるサルバ。窮屈な坑道を抜けた瞬間両腕に広がる弾力に弾かれながら、サルバに巻き込まれる形で諸共にダンジョンの地面へと倒れ込む。
幸い、背中に担いでいたリザードマンの死体がクッションになってくれたけど、代わりに溜まっていた血が漏れたのか、じゅわっと血生臭い死体の臭いが狭いダンジョンで立ち昇った。
「んぷっ」
同時に顔面を圧迫してくる、柔らかくて生暖かい感触。
「え? うおっ!?」
そして響く、サルバの焦った声に目を向けると、自分の頤の方に向けられたサルバの青い左目と視線が重なった。
「んー?」
サルバの視線の先を追いかけてみると、留め金で固く閉じられていたはずのダンジョンコートの厚い襟元が開いていて、サルバの首筋の白い肌が露になっていた。しかも、それだけで収まらない……というか、単純にサルバの胸の質量に負けたのか、はたまたコートと僕の手という二つの支えを失ったせいなのか、或いはその両方か、中に着ていたらしいシャツまでが合わせ目のボタンを弾けさせて、その中を曝していた。で、当然サルバが下着なんかを着けている訳もなく……
「ああ。むっむむむむむ」
しっとりとしたそれが口と鼻腔にぴったりと密着しようとしてくるせいで無駄に制限される呼吸に、顔を抑える錘をペチペチと叩いて抗議すると、「いでで」と悲鳴を上げながらサルバが上から居なくなる。ふぅ……。
「全く、一応おっぱいだぜ? 大切に扱えよ」
僕が叩いたおっぱいをさすりながら、そう口を尖らせるサルバ。けどねえ?
「男のおっぱいの何を尊重しろって言うのさ」
「そりゃそーだ」
男としては単なる重りでしかないしね。
「やっぱり本当に切り落とす?」
「その前にぜってぇ男に戻ってやる」
そう言いながら、自分のおっぱいと格闘するサルバ。外みたいに一から十まで安心して着替えが出来る環境でないのもあってか、その質量に四苦八苦しているのを眺めながら、僕はダンジョンの奥に目を向ける。
先の狭い通路の反対側と比べて一段と暗くなったその奥から、暗闇と同じく一層強くなった饐えた腐リンゴの臭いが濃密に漂ってきていた。
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