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一限目:国語 ~ 山月記 ~





「今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと――」


 野球部の新原君の音読は、スマートフォンの機械音声の素材としてもそのまま使えそうだった。あるいは、白鳥君にとっては子守唄に聞こえたのかもしれない。


「はい。よく読めました。次、原田さん」


「あ、はい!」


 私は起立して続きを読んだ。何だか一つの文章が長くて、息が切れそうになった。途中で「懼れた」の読み方が分からず、十秒ほどそこで渋滞した。先生は黒板の辺りで教科書を見るだけで、私が正しく読むのを待っていたらしかった。隣の白鳥君は、昼食をたらふく食べて日陰で横になった虎のように頼りにならなかった。私は電子辞典もなければ、国語辞典も持っていない。結局、右隣の椎名さんに「おそれる」と聞いて難を逃れた。


「はい、いいですね。忘れないように教科書に書きましたか、原田さん?」


「あ、はい……」


 私が教科書の中にルビを振っている頃、左の黒い虎がむくりと起き上がった。よだれが垂れていて、いよいよ本当に虎の夢を見ていたのではないか。よく見ると、彼は教科書を机に出していなかった。


「じゃあ、次は……白鳥君、いけるかな?」


 白鳥君は機嫌の悪い色を目尻に浮かべると、こう言った。


「すみません、加藤先生。教科書忘れちゃって」


 加藤先生はため息をついて、早口で言った。 「じゃあ、誰かから借りて」


 白鳥君は周りを見たが、誰も彼には貸そうとする気配がなかった。動物園サーカスにいる芸の不出来な獣を憐れむ観客と同じ視線が、私にまで降り注いだ錯覚に陥り、思わず自分の左手が勝手に教科書をつかんで彼に差し向けられていた。


 白鳥君は私の教科書をじっと見た後、目を合わせなかった私に少々気遣い、ゆっくりと優しく教科書を手に取った。そして、新原君も驚くほどの棒読みぶりで教室に眠気を誘った。さしずめ、「春眠暁を覚えず」か。朗読を終わった白鳥君は、教科書を私に返した後、すぐに横になった。自分が人間だということを忘れて、兎を無心で追いかける夢の続きを見ていたに違いない。


 音読が終わると、国語の授業はいつものように「何故、彼はこう思ったのか、こうなったのか」クイズが始まった。運悪く、私は当てられてしまった。私はこの類の問題が――そもそも、国語自体が脳に受け付けなかった。何故、この登場人物がそう考えたかなんて、その時そういう気分だったからとしか言えないじゃないか。既に質問の傍線部が答えじゃないか、と私は屁理屈をこねる口だった。だが、問題がある以上、どうやら答えは用意されているらしい。他の生徒が黒板の前に立ち、自信作を書いていくのを見て、私はやっぱり納得出来ないでいた。


「書き終わりましたね。じゃあ、南条君から」


「はい。李徴が虎になった理由だけど、彼は臆病な自尊心が自分も仲間も傷つけて、それなのに、尊大な羞恥心のせいで周りに助けを求めることも出来ず、詩人の道も諦めるしかなかったことに絶望したからで、どうしようもなくなって、心が壊れたからだと思います」


「うん……うん、いいですね。それじゃあ、神崎さん」


 自分の発表の番が迫る度に、虎をおびき出すための生け贄の羊の気分がにじり寄ってきた。私には何が「いいですね」なのかよく分からなかった。人間が虎になるなんて土台馬鹿げた話なのだ。深く絶望したからといって毛皮と爪が生えてくるものか。それなのに、人間が虎になった理由について論理的に考えて書きなさい――なんて、真面目に考える方がどうかしているではないか。論理的に虎に変身する方法について議論した方がまだ生産的だ。そんな愚痴を早口で肺胞に溜め込んでいると、私の番が回ってきた直後、白鳥君が獲物の足音を聞きつけたかのように目と口をゆっくりと開けた。


「あの、先生」


「はい、白鳥君。質問なら手を挙げてからお願いします」


「今、先生はこれまでの回答全てに対して、いいですねとだけ言いましたが、どこが良かったのか説明していただけませんか」


 教室の誰かが「またか」と呟いたのを私は聞いてしまった。わずかにざわついた教室の中、先生がぴしゃりと空気を割った。


「静かに!白鳥君、まだ原田さんの回答が残っています。質問はその後で。じゃあ、原田さん」


「あ、はい……えーと、李徴は、虎になる前、自分の卑怯で臆病な性格と真っすぐ向き合えないまま、人生に窮する羽目になりました。だから、そのー、彼は、袁慘という親友がいたのだから、詩人になろうと考える前に相談すべきでした。そうでなくても、詩人を目指している間でもいいから、せめて相談さえすれば、彼は正気を失って、その……虎にならずに済んだかもしれません。何故なら、人間だった頃から、彼の中には虎が住んでいて、心を削るような思いをする度に虎の本性に近づくのだから、自分の殻を飛び出してでも本心を打ち明ける勇気が……助けを求める勇気が、やはり彼には必要だったと思います」


 教室はしんと静まり返り、一瞬が永遠に感じられた。その間の私はというと、今のはただの読書感想文だったと顔が真っ赤になり、心臓が波打っていた。お願いだから指摘しないで欲しい、私の回答には触れないで欲しいと先生に念を飛ばしていた。


「はい、ありがとうございます。じゃあ、席に戻って」


 自分の席に戻る私ときたら、前傾姿勢でつま先立ちになり、同じ方の手足を同時に出して歩いていた。私の心の中には、冷静な監督の自分がいて、体を動かす選手の私に「感想なんてテストだったら0点だ、間抜け!」と罵っていた。席についた私は牛の鼻息を出した。椎名さんが笑いを堪えている音が聞こえてきた。李徴が羞恥心について叫びたくなる気持ちが分かる。白鳥君も笑っているに違いない。


「じゃあ、回答を見ていきましょうか。まずは――原田さんから」


 こういう時、人間という生き物は恥ずかしさのあまり目をつむるものだろうと思っていた。だが、心の底から恥ずかしさを感じると、僅かだが恐怖を感じ、そのせいでアドレナリンが出て目を閉じることも意識出来なくなるのが人間だということを知った。


「まず、原田さんは先に問題をよく読みましょう。李徴の性格についてはちゃんと捉えられているので、その点は問題ありません。ですが、虎になった理由を聞いているのですから、後からこうするべきだったとか、私ならこうするとかは、この際どうでもいいんです」


 「分かってるよ!」と言いたくなる気持ちを私は必死に抑えていた。李徴が自尊心について吠えていた気持ちが分かる。頼むから私まで虎にしないで欲しいと、人間の私が心に茂った草むらの中で言っていた。しばらくの間、加藤先生は私の失敗を十分にあげつらうと、他の生徒の回答には、模範解答だと言ってほとんど触れなかった。


「それで?白鳥君、何か質問があったと思いますが」


 白鳥君はゆっくりと起立した――学ランを着込み、堂々と机に手を付いた虎が言葉の牙を剥こうとしていた。


「まだ、先生は模範解答が模範的である理由を説明していません。どうして原田さんが感想を書くことになってしまったのか、具体的な改善法がなければ、原田さんは来週も同じミスをするかもしれません」


 加藤先生は、あはっと目を笑わせずに言って、

「それは、他の皆さんの回答が文章内の言葉を使って回答していたからです。感想を交えることなく必要十分な言語要素が論理的に文章として構成されていたからです」


「どうして文章内の説明を引用する必要があるのか、ご説明いただけますか」


「それは……言語の意味がぶれるからです」


「おっしゃる意味が分かりませんが」


「だから!」、加藤先生は右手の腹で机を強く叩いた。


「これは読解問題なんだよ!著者が物語に隠した論理ってのがあるんだ!登場人物がこういう文脈でこういう言葉を言ったから、こういう気持ちだったんだっていうことを読めさえすればいいんだ!」


 私はもう聞くに堪えなかった。自分のせいで授業が止まった罪悪感が背筋に忍び寄ってきた。


「それは、先生のやり方とか感想に過ぎませんか。筆者が登場人物に込めた思いなんて、筆者自身にしか知りようがないじゃないですか。気持ちを完璧に読むことが出来たら、僕達はプロポーズする前に振られやしないかとドキドキもしないし、友達同士の喧嘩も避けられる。それが出来ないから人間なんです。小説を書いた筆者でさえも」


「あなたは何が言いたいんですか!そんなに言うなら私の代わりにここに立てばいいじゃないですか!」


「第一の質問に、何のために、先生はこの問いを立てたんですか?第二に、そんなことを自分で言って、教師として何か思うことはないんですか?」


 加藤先生の頭がゆでだこに見えた。あまりの怒気で眼鏡が曇っていたのではないだろうか。深呼吸はしていたが、胃の中にまだ呼気が残っていた音がした。


「小説を学ぶことは文化的で……高度な情操教育に必要なことです。豊かな感受性と想像力を養うために……」


「だったら、原田さんの答えが今の中で一番優れていると思います」


 私の視線は白鳥君の顔に釘付けになった。


「言葉のパズルピースを並べ替えるより、自分で感じて、自分で考えて編み出した結論です。もし、登場人物が自分なら、私だったらこうしただろうと原田さんは具体的に説明していました。それこそ、感受性と想像力がなければ出来ないことで、先生が定義するところの、小説を学ぶ理由としても――」


「もういい!黙れ!!黙れ!!!」


 加藤先生は教室を絶叫しながら飛び出していった。驚いたことに、先生は李徴が現実にいることを、身をもって教えてくれたのだった。願わくば、学校裏の竹林にボールを落とした野球部員が「その声は、我が師、加藤子ではないか?」と草むらに向かって聞かないことを祈るばかりである。


「やめろよ、黒鳥。俺達だって暇じゃねーんだから」


 新原君がそんな締めの台詞を吐くと、教室中が一斉に二時限目の体育の準備を始めた。一時限目の終業チャイムはちょうど五分後に鳴った。


「小説を理解するなんて、知識とかじゃなくてセンスの問題だよ」


 そう言って、白鳥君は立ち上がり、教室を後にした。


 昨日も、今日も、明日も、彼は不真面目だった。そして、授業になるとほくそ笑んだ。


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