エピローグ:女傑揃いの比翼連理
その後僕たちは、気絶した結城を連れて木崎の元へ行き、彼らを眷属にするという意思を本人に向けて通告した。
最初は、拒否されるかとも思ったが、二人とも案外すんなりと頷いてくれた。結城は少しだけ渋ったが、木崎に力尽くで頷かされていた。
彼女の教えてくれた契約の方法が、僕の生き血を二人に飲ませる、という無駄に艶めかしいものだったのはさておくとして。
宿敵から、上司と部下へ。十年前、僕が結城を傷付けて以降、果てしなく続いてきた因縁は、そんな形で幕引きを迎える。
話し合いの結果。二人は、僕と黒羽が特訓に使っていた大学近くの山で暮らすことになった。
眷属とはいえ必要以上に干渉するつもりはない。好きなように生きてくれるように願う。
一方の絢音は、僕の身体から出て行く気など微塵も無いようで、一人勝手に終の住処宣言をした後、左手の中に引きこもってしまった。僕としては迷惑極まりないのだが、僕の目が届かぬところで色々と企まれるよりはまだマシかと思い、封印という体で現状維持が決まった。敵は近くに置いた方が監視しやすいのだ。
かくして、命と、尊厳と、愛する人との日常を賭けた泣沢村での騒動は、ひとまずの決着を見ることとなった。
そして、数日後……。
※
「楓くぅぅん! お酒が空になりましたよぉお!」
「……それで全部だよ」
一升瓶が勢いよく机に叩きつけられる音を聞きながら、どうしてこうなった、と僕は静かに溜息を吐く。
時間は夜。場所は僕の部屋だ。七畳半の空間に、僕と黒羽、結城と木崎の四人が揃い、和気あいあいと酒盛りに興じている。いや正しくは、興じていた、とすべきだろう。調子に乗って複数の缶を空けた末、木崎は見ての通りテンションがハイになり。結城は無言で壁際にもたれかかり。盛大に酔っ払った黒羽は、僕の隣にグダッグダで寝転がっているのだから。
この惨状は如何にして起きたか。
本来であれば、僕と黒羽だけで慎ましく酒を嗜む筈だった。
しかし午後五時半。晩酌の日時をどうやってか察知した狐たちが、山で拾った栗を手土産に現れた。
『新入社員の歓迎会です。親睦を深めましょう』などとほざく木崎を、こちらとしては無下に追い返すことも出来ず。だったら四人で宅飲みにしようとなったのだ。
「楓ぇええぇ、構えぇええ」
「あーはいはい、よしよし」
普段の凜々しさはどこへやら。顔を真っ赤にして擦り寄ってくる黒羽は、Tシャツにジャージというラフな服装だ。それでも似合ってしまうのが彼女の凄いところではある。
適当に喉を撫でてあげると、クルクルという甘えた鳴き声が返ってくる。しかし僕が撫でるのを止めれば、不満だったのか、彼女は威嚇するように口を開けて。
「シャー!」
うっ、可愛い。でも後で思い出して悶絶するんだろうなぁ。楽しみだなぁ。
「まったく……飲み過ぎなんだよ黒羽。最初なんだからもっとゆっくりと……」
「そういうてめぇも大概だろ。しれっと素面みたいにしてんじゃねぇよ」
「え? 何言ってんのさ、僕はまだ五缶しか空けてないよ?」
普段から酒に溺れはしないが、こういう時はそれなりに飲むのが僕という人間だ。
対する結城はアルコールに弱いらしく、チューハイ一本で早々にダウンしていた。新歓コンパで馬鹿飲みしてそうな雰囲気なのに、人は見た目によらないとはこのことである。
むしろダークホースは木崎の方だった。何がヤバいってこの御方、皆が見ている目の前で、ワイン一瓶を飄々とイッキ飲みしやがった。
……誰の金で買ったと思っているのか。
「僕だってそこそこ強いけど、君の嫁には負けるさ。肝臓どうなってんの?」
「知らねぇよ」
「しかも異常にハイテンションだし。何? 彼女ってあんな性格してたの?」
「知らんつってんだろ。俺だって初見だ。本人に訊け」
結城が会話を拒絶してきたので、仕方なく木崎に視線を向ける。すると彼女は、唐突に哀愁を帯びた声で答えた。
「こういう風にワイワイするの、ずっと憧れてたんです。狐だった頃は、家族を作る前に死んじゃいましたから」
……おっと。何やら湿っぽい感じになったぞ。
「だってさ、結城」
「……分あってるよ」
微妙に呂律が回っていないが、当人もちゃんと聞いていたようだ。神妙な面持ちで結城が頷く。自分の我が儘に十年も嫁を付き合わせたのだから、彼なりに思うことがあるのだろう。
しかし当の嫁は、夫の後悔など気にも留めていない様子で……。
「なぁにマジメな話してるんれすかぁ! 酒の席ですよぉ、もっと二人も騒ぎましょお! ビールでもチューハイでも構いません、ある限りここに持って来なさぁい! 夜はまだっ、長ぁあいっ!」
いいぃやっほぉおう! と威勢良く雄叫びを上げている。ああ、もう手遅れだ。完全に常軌を逸しておられる。
「……彼女、責任持って連れて帰れよ」
「……へいへい。承知いたしましたよっと」
僕が木崎を指差して言えば、結城は「やれやれ」とばかりに苦笑いを浮かべてみせる。とはいえ、これ以上彼女にアルコールを与えると危なそうなので、水道水を日本酒だと偽って渡した。本人は気付いていなかった。
それからしばらく時間が経って。時計の針がいよいよ十一時を回った頃、おもむろに結城が立ち上がった。
「……そろそろ帰るわ。邪魔したな」
「もう? 早いね」
「酒が切れたし妥当だろ。そっちのカラスも色々と不満そうな顔してるし、二人でゆっくりしとけ」
らしくない気遣いを見せたあと、彼は半ば呆れた様子で、床に寝そべる木崎を抱き起こす。脳味噌を酒に浸しきった彼女は、文字通りグダグダのへべれけ状態であった。
「ほら、加奈。帰るぞ。立てるか? おい」
「んー? ふっふふふふ……姫抱きを所望します」
妙に色気付いた仕草で結城に寄りかかっている。酔っ払いだから出来る芸当だ。対する結城は素面も同然であるため、嫁の誘惑にしどろもどろした末、結局要望に応えることにしたようだ。木崎を抱き上げ、恥ずかしそうに頬を染めてこっちをチラ見した。
お幸せに。神のご加護を。
「……世話になったな」
「別に。……また来なよ」
「おう」
素っ気ないやり取りを交わし、立ち去る二人を玄関まで見送る。扉を閉めて鍵をかけたところで、いつの間にか背後に立っていた黒羽が、肩越しで僕に抱きついてきた。
「夫婦とは……いいものだな」
「憧れる?」
「当然さ。汝は?」
「良いなって素直に思うよ」
二人を見ればよく分かる。互いに互いが必要なのだろう。夫婦の形は人それぞれだと思うが、結城と木崎の関係は、ある種、一つの理想型だと感じる。
「助け合って、迷惑も掛け合ってさ。別に一人でも生きていけるけど、それでも二人で生きていくのを選べる仲って、素敵だよね」
自然と顔が綻ぶのを感じながら、僕がそう言った瞬間。黒羽が息を飲む気配があった。
「…………男に二言は無いな?」
「へ? ……あ、な!? ひゃいっ!?」
不意に身体が回転させられたかと思えば、肩を掴まれ壁に押し付けられる。突然の出来事に状況を把握する間もなく、黒羽が詰め寄って来た。
僕の顔の横に腕を当てた、いわゆる壁ドン。彼女は僕より背が高いから、必然的に見下ろされる格好になる。
さっきまでだらしなく酔っ払っていたのに。いつもの凜々しさを前触れもなく取り戻した黒羽は、僕の顎に指を這わせ、優しく持ち上げた。
「他所を向くな。私だけを見ろ」
痺れるような麗しのアルト。だが、普段より心なしか強張った声に、僕は彼女の緊張を感じ取る。この気配は。……まるで何か、伝えたいことがあるかのような。
「楓……、私の嫁になれ」
正面から見詰め合い、いつになく真剣な口調で告げられたのは、紛う事なきプロポーズの言葉。その意味を理解した僕の身体を、興奮という名の電流が駆け抜けた。
視線を逸らさず、瞬きもせず。鼻と鼻が触れ合いそうな距離で僕の返事を待つ黒羽。頷け、という燃えるような情念を感じる。
しばしの沈黙が流れた後。やっとのことで口を開いた僕は……。
「くっ……あっははははは!」
堪えきれずに、爆笑してしまった。
「なっ……!? ど、どうして笑う!? 何が可笑しいッ!」
予想外の反応に面食らったのだろうか、顔を真っ赤にして黒羽が怒鳴る。渾身の告白を笑い飛ばすのは無粋ってもんだから、僕だって可能な限り平静を装おうと努力してみたんだけど、やっぱり無理だった。
本人はカッコよく決めたつもりだろうし、現にもの凄くカッコよかったんだ。しかし流石にあの勘違いは。スルーするには致命的過ぎだ。
「おい。いつまで笑っている。黙れ」
「ふふっ……ごめんごめん。えっとね? 言いたいことは分かるけど、性別が逆だよ。嫁ってのは女性の方を指すの。僕みたいな男は、夫」
「あ……そうなのか? 夫は嫁を守るものだと、汝の持っている小説に書いてあったから、てっきり私が夫にあたるものだとばかり」
なるほどね。どの本かは後で聞くとして……。
「僕のこと、嫁にしたい?」
ズルいかなとも思いつつ、上目遣いで問い掛ける。すると黒羽は、覚悟を決めたような表情で生唾を飲み込んだ。
「……したいかしたくないかで言えば、したい。だが汝が嫌ならそれでいい。嫌でなくとも心の準備が出来てないなら断ってくれて構わない。汝と私は付き合ってまだ四ヶ月だ。四ヶ月というのは烏にとっては十分な時間だが、人間の感覚ではさして長くないことも良く理解している。つがいになれば文字通り一生を共に過ごすのだ。生半可な覚悟で了承するようなものではない。もちろん、私としては汝を生涯のパートナーとすることを強く望んでいるわけだが、だからといって汝が忖度する必要は無いし、無理であればハッキリ無理だと言って欲し――――」
「ちょ、ストップ。ストップ。そんな必死に予防線張らなくても大丈夫だから」
照れ隠しか、それとも不安なのか。早口になって喋り続ける黒羽を手で制する。僕的には今のが答えのつもりだ。伝わっただろうかと心配になったが、ちゃんと彼女は理解したらしい。本当にいいのか? とでも言うかのように、烏羽色の瞳をうるうると潤ませてくる。
ああもう。普段は凜々しくてカッコいいくせに、こういう時はホントに可愛いんだよな。
「断らないよ。断れるような段階はもう過ぎた。夫だろうが嫁だろうが、君と一緒にいられるなら僕は気にしないよ」
男女のステレオタイプとか、俗に言う理想の夫婦像とか。そんなのに意味なんて無いことは、とっくの昔に分かりきっているのだ。夫も妻も所詮は一つの肩書きでしかない。重要なのは、相手と苦楽を共にするという確固たる覚悟。
それさえあれば。男が嫁で何が悪いと言うのか。
「末永く、よろしくお願いします」
胸に広がる温かいものを感じながら、恋人の手を取って返事をする。
直後、黒羽の顔が目に見えて綻んだ。艶やかな指先がゆっくりと僕の方に伸びてきたかと思えば、蕩けそうな手付きで首筋を愛撫される。
「ふぇ……な、なに……?」
「愛している。私は、これからも汝の傍に……」
掠れ気味の低音で唐突に囁かれ、心地良い悪寒が背筋を走り抜けた。彼女の逞しい両腕が包み込むようにして僕を抱き締める。続けて、耳に甘噛み。「ひゃん!」と情けない悲鳴を上げる僕が、可愛くて可愛くて堪らないといった表情で、黒羽はうっとりと目を細めてみせた。この流れはもしかしなくても――。
……食べるおつもりですか?
視線で問い掛ければ、彼女は「当然」とでも言うかのごとく、頬に柔らかな口付けを落としてくる。
そしてそこが床の上であることも気にせず、強引に僕を押し倒したのであった。
※
スイッチの入った黒羽に心ゆくまで貪り尽くされ、そのまま眠った彼女をベッドに横たえた後。寝る前に最低限身体を清潔にしておこうと、僕はシャワーを浴びることにした。
髪を濡らし、シャンプーを手に取り。ワシャワシャと泡立て、いざすすぎに移ろうとした時に、そいつは現れた。
「ねーねー楓さん。お話しよー」
僕の左手から声がする。大抵いつもこんな感じだ。僕が誰かと一緒だと、絶対に出てこない。一人になるとこれ幸いとばかりに登場する。こちらの事情は、基本的に考慮されない。
「……風呂を覗くのは犯罪だと思うけど?」
「普通ならね。でもアタシたち、一夜を共にした仲じゃないか。今さら裸とか安いよ」
「事実を都合良くねじ曲げるな。君には色々とされたけど、僕が君に心を許したことはない」
これまでも、そしてこれからも。僕たちの関係は奴隷とご主人様だ。カップルじゃない。その席には、既に黒羽が座っている。
「残念だなー。アタシはこんなにも楓さんを愛しているのに」
さりげなく伸びてきた蔦が僕の腹をまさぐる。僕はそれを掴み取り、気持ち悪いスキンシップを強制的に中断させた。いつも通りのやり取りだ。
「やめろ。燃やすぞ」
「……ダメ?」
「駄目」
「こんなに頭を下げてるのに?」
「お前に頭とか無いだろ。駄目」
情をみせるとつけ込まれるので、淡々と要求を突っぱねる。へーい、と間の抜けた返事があってから、絢音は手の中に戻っていった。
自分の中に別の命が根付いている。その感覚には未だ慣れない。まして彼女は、出所不明の怪物だ。敵対してこないと分かっても、完全に不安が消えたわけじゃない。
「なあ……結局お前は何者なんだ? やっぱり宇宙から来たのか?」
呼び掛けると、しばらくの沈黙を挟んだ後、頭の中に声が響いてきた。
「どうだろうね。アタシもそれは気になるな」
「……お前、自分が何かも知らないのか?」
「当然でしょ。種だった頃の記憶とか無いもん」
それもそうだ。僕だって、母親の胎内にいた時のことなど覚えていない。けれど……。
「マヤ様が……君の先祖と戦った犬神が言ったんだ。“理を外れた魔物”だって。だから……」
「アタシたちは地球由来じゃない。そう言いたいんだね? その可能性は否定出来ないよ。だけど所詮、否定出来ないってだけ」
証拠が無いのさ。無邪気に、しかしどこか切なげに、絢音は続ける。
「その犬神の言うとおり、アタシの祖先は宇宙から来たのかもしれない。そんなのは全部考えすぎで、ただのヤドリギの妖怪かもしれない。あるいは、西洋においてヤドリギは神聖性を持つとされているから、古代日本に存在した古きカミの子孫なのかもしれない」
「……真実は誰も分からない?」
「悲しいけどね。少なくともアタシは地球生まれだよ。状況からみて、それだけは確か」
要するに、気にしたところで意味は無いのだろう。正体が何であるにしろ、こいつは今ここにいる。僕の管理下に置かれている……いや、もしかすると管理されてやっているのかもしれないが、それでも前みたいに好き勝手は出来ない筈だ。
最高でも最善でもないけれど、これが次善の策だと僕は信じている。
はからずも絢音の望む形になったのが屈辱ではある。けれど彼女が現状に満足しているなら、僕はその気持ちを利用するまでだ。
「……てか、んなことよりもさ。もっと他に考えることがあるんじゃないの」
「考えること?」
「やっと終わったって安心してるでしょ。これからだよ、本当に大変なのは」
真剣な口調で語りかけてくるヤドリギ。人を拷問しておいて、大変とかお前が言えた口か。そう思ったが、絢音の懸念そのものは真っ当だった。
「前も言ってたな。僕の霊力は怪異を惹き付ける」
「そう。仮にも半神だからね。アタシだけじゃなく、他の連中にとっても魅力的に映る。もし仮に、アタシより凶悪で容赦の無い連中が、楓さんに興味を持ったりしたらどうする? 十中八九、狙ってくるよ」
「……分かってる。だから今よりも強くなろうと――」
「本当にそれで十分かな? 中途半端な強さは、むしろ逆効果。本人に手が出せない場合、アタシだったら人質を使うね。例えば……婚約者を拉致するとか」
「っ! そんなこと!」
「“僕がさせない”、って言うんでしょ。だけどそれが簡単じゃないのは、今のあなたならよく理解している筈。どれだけ強くても、どれだけ準備を整えても、絶対なんて有り得ない」
ああそうだ。現にこいつは僕に負けた。およそ勝利を確信するような状態に追い込んで、なお負けたのだ。
「代償を払わずに、大切な人を守っていけるのか。……ねえ。目を背けずに、考えてみなよ。もしも黒羽さんが脅かされたとき、自分が気狂いの怪物にならないと言える? あなたはいつまで、まともな“人間”としていられるのかな?」
常々、嫌らしいところばかり突いてくるやつだ。話の中身は的を射ているから余計に性質が悪い。
もしも黒羽が脅かされたら。考えるまでもないだろう。数日前のように必死になって、彼女を取り戻そうと奮闘するに決まっている。それが罠だと悟っていても。
「不安ばかり……煽るなよ」
「おや、ごめんごめん。本気で怖がらなくても大丈夫。このアタシ、強くてカッコいい絢音さんが付いているんだからね」
「冗談を。お前を頼るには信頼度が低すぎる」
「ふぅん……低いってことはゼロじゃないんだ」
「ああ。思い切りマイナスさ」
皮肉と嫌味を込めて言い切れば、「何たることだ!」と仰々しい言葉が返ってくる。しかし彼女の声色は、その中身に反してどこか満足そうだった。
「比翼連理って言葉があるじゃん? 黒羽さんが比翼の鳥だとしたら、アタシは連理の枝になるよね」
「勝手に対等面するな。お前は僕の奴隷だ」
「あっは。そういうことにしといてあげよう」
軽やかな笑い声を残し、絢音の意識が奥底に沈む。やっと静かになったと溜息を吐きながら、僕はシャンプーを洗い流すべく、蛇口を捻った。
彼女とは、これからも長く付き合っていかねばならない。本人の表現を借りるなら、愛する人との日常を守るための、これが一つ目の代償なのだろう。
ちなみにそれから数週間後。絢音の予感が見事に的中し、僕たちは再び波乱の渦に巻き込まれることとなるのだが……。
それはまた、別のお話である。




