対立の果てに
目を覚ましたとき、僕は黒羽に抱き締められていた。
いつものことなので、別に驚きはしない。ただ一瞬、ここが自宅のベッドだと勘違いしかけ、違うと気付いて残念に思っただけだ。
「おはよう。待ちくたびれたよ」
蕩けるアルトに鼓膜をくすぐられながら、身体を起こす。周囲を見渡せば、場所は変わらず川のほとり。黒羽が即興で作ったであろう、枯れ草の寝床の上で横になっていたようだ。
結城も隣で眠っている。狐の姿に戻っていることから、彼もまた限界だったのだろう。人のままだと裸の変態になってしまうので、ちょうど良かった。
ところでもう一人の方は……。
「女狐を探しているのか? ここにはいないが、一応生きてるぞ」
「一応?」
「片腕を食い千切ってやった。おそらく今頃、泣きながら再生中だろう」
「へ、へえ。野性的……」
結構すごいことしたんだな。まあ生きてるなら良いか……。
「っと、そんなことは後回しだ。話をしよう。さっさと出てこい」
「え? 何が?」
「汝ではなく絢音に告げている。姿を現せ、さもなくば殺す」
明快極まりない宣戦布告を受けて、僕の左手がモゾモゾと動く。数秒後。僕が目覚めるまで引っ込んでいたらしい絢音が、負けず劣らずの清々しさを伴って現れた。
手の甲から植物が生えるという光景には……まだ慣れない。
「はぁい。アタシに何か用かな?」
正直ものすごく鬱陶しい。とはいえ……今更こいつを殺すのも何だかなぁ、といった感じである。用済みになったら燃やす予定だったが、なまじ時間が経ったことで気分が落ち着いた。
そもそも、外に出ている蔦の部分はともかく、本体の根っこはどうやって殺せばいいのか。それが分からない。
「やあ、会いたかったよ絢音。聞きたいことがあるんだ。時間を貰ってもいいだろうか」
「大丈夫だよ。アタシ今とっても気分が良いから、どんな質問でも答えちゃう。何が知りたいの?」
「お前が楓の左手にいる経緯。何故まだ生きている?」
「それにはマリアナ海溝より深い事情があってね。長くなるけど端折るべきかな?」
「気遣いは不要だ。是非とも詳細を教えて欲しい」
表面上は平和なやり取りが続いている。……崩壊の約束された平穏ではあるが。取り敢えず口を出す勇気は無い。女性同士のやり取りで、男が間に入ってもこじれるだけだ。
気配を消し、黙って見守る。これが大切である。
「……なるほどな。つまりお前は、詭弁策略の限りを弄し、己の欲求を見事に満たしたというわけか」
「イグザクトリー。負けたけど勝ったも同然だよね。中に引っ込んじゃえば誰かさんも手出し出来ない、圧倒的ベストポジションをゲットしたんだから」
「手出し出来ない? どうやら愉快な勘違いをしているようだな。基本的に、私は楓を傷付けないが、彼を守るためなら例外もある。お前が根付いた左腕ごと、切り落として殺しても構わんのだぞ?」
「……へー、意外と言うじゃん。何、もしかしてアタシに嫉妬してんの? そりゃそうだよね! 文字通り一心同体なんて、黒羽さんじゃ逆立ちしても不可能だもんねぇ! 悪いけどこの席は譲らないよ! 腕ごと殺す? はっ! やれるもんならやってみ――いっ!?」
「ほう、ちゃんと痛覚は残っているのか。ちょっと葉っぱをもいだだけでこれなら、丸ごと引き抜けばさぞ苦しいのだろうな」
「ひぎっ! ぐ、ぅあっ!? ちょっ……やめろよクソ女! おい! 聞いてんのかサディスト――――あ、いだぁああいいぃいいぃああぁああ!?」
いつになくドスの利いた声で喋りながら、絢音の葉っぱを淡々とむしり取っていく黒羽。ちょっと可哀想になるレベルの悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。
「どうした? 前までの貴様なら、この程度かすり傷にもならなかっただろう。それとも何か? 小さくなった分、耐久力も落ちているのかな?」
高らかなる哄笑。堪らず絢音が僕の中に戻ろうとするが、黒羽はそれを許さなかった。蔦の根元を両手で鷲掴みにし、そして……。
「逃がさん――貴様が私たちに何したか、忘れたとは言わせんぞッ!」
ブチリ、と容赦なく引き千切ってしまった。拝啓マヤ様。娘さんが怖いです。
「ちっ、隠れたか。今度出てきたら、根ごと引き抜いて鍋の中で塩茹でにしてやる」
などと恐ろしいことを呟く彼女に、思わずゾクッとなったのはここだけの秘密だ。教訓その一、黒羽を怒らせてはいけない。肝に銘じておこう。
「ところで楓。狐どもの処遇は?」
僕が内心で苦笑いを浮かべていると、黒羽は唐突に表情を柔らかくして、そう尋ねてきた。てっきり抹殺を主張するものとばかり思っていたので、彼女が質問の形をとったことは、少し意外だった。
「……出来るなら、二人とも生かしておきたい。どうせ君は反対するだろうけどさ。でも、ほら、何だかんだ共闘したんだし。やっぱり殺すのは忍びないかなって」
「そうか。具体的には?」
いつぞやとは違う、賛成でも反対でもない曖昧な返事。彼女が内心で何を考えているかは分からない。
だからこそ僕は胸に手を当て、深呼吸を挟み、自分の決意を声に出して伝える。
「僕の眷属にする。そうすれば、もう二度と戦わなくていいから」
主従の契約が生きている限り、己の主には手を出せない。結城自身がそう言っていた。
狐たちが妖怪になったのも、元を辿れば僕がまいた種だ。だからこそ彼らの今後に対して、ある程度の責任を果たしたい。養うのは物理的に無理だとしても、せめて安全を確保するくらいは……。いや、自己満足と言われればそれまでなんだけど。このまま永遠にサヨナラっていうのも、なんか後味が悪いというか。寝覚めが悪いというか。スッキリしないというか……。
「眷属化、ね。断ち切れる縁を断ち切らない。汝らしいといえば、汝らしいな」
「黒羽は……やっぱり反対?」
「当然だ。たとえ一時は同盟を築こうとも、奴らと私たちが敵同士であった事実は変わらない。表向きは忠義を誓っていても、中で何を企んでいるか分からんのだぞ? 配下にするなど言語道断だ!」
雷のような声に打たれ、思わず肩が縮んでしまう。だがそこで、黒羽は不意に声のトーンを落として。
「……と、前の私なら言っていただろうな」
悪戯っぽく笑ってみせると、優しい手付きで僕の頬を撫でた。
「駄目って……言わないの?」
「ああ。私は冷淡だが、残忍ではない。無益な殺生を好む性格じゃないし、合理的に考えて、狐どもを野山に解き放つのも反対だ。敵は近くに置いた方が監視しやすいだろ?」
「……そっか。君も変わったね。前なら迷わず殺してたのに」
「まったくだ。誰かさんにかぶれたのかもしれないな。んー?」
可愛らしく首を傾げる姿に、僕の顔にも自然と笑顔が浮かぶ。天に煌めく朝焼けのように、清々しい気分が全身に満ちていくようだった。
長く苦しい三日間。これで全て、片付いた。
やり残したことはない。心残りも、ある筈がない。
ああ、ようやく、この台詞が言える。
「それじゃ……帰ろうか」




