黒羽vs木崎
楓たちの邪魔にならない場所まで降りてくるやいなや、木崎は私に向き直った。
「黒羽さん」
「何だ」
「申し訳ありませんが、手早く勝たせてもらいますね。二人のところに早く戻りたいので」
「……宗像一人では負けるから、お前が加勢するつもりか?」
私が訊くと、木崎は首を横に振った。
「万一の場合は、それも有り得ますけど。一番はやっぱり、二人の戦いを見学したいってのが大きいです」
「……どういう意味だ?」
「男同士の因縁は、いつ見ても良いものですよね。ましてや感情剥き出しにして殴りあってるなんて、傍からすれば面白いことこの上ない」
胸の前で拳を握り締め、ウキウキな様子で言い切る木崎。何てやつだ。私は頭を抱えた。
「お前にそういう趣味があったとは知らなかった」
「意外ですか? 愉悦に浸れて楽しいですよ。出来るなら録画したかったけど……」
「それは無理だな」
「あら、どうしてでしょう?」
「今から貴様をぶっ飛ばすからだ」
その言葉を最後に、私は一切の躊躇無く襲いかかった。
「好戦的ですね。大いに結構!」
木崎も、予想していたのだろう。素早く臨戦態勢をとり、私の蹴りを受け流す。
追撃をしても良かったが、ひとまずは慎重に。返しの鉤爪を避けてから、勢いのままにバク転して後退すると、私は腕を翼に変え、ふわりとその場に滞空した。
前回と違い、戦場は開かれている。ここならば、私の飛行能力も存分に発揮出来るだろう。
「食物連鎖って分かりますか? 烏は狐に敵わないって、相場が決まってるんですよ?」
「地上に限ればそうかもしれないな。だが、相手の土俵までノコノコと出て行くほど、私も馬鹿ではない。地を駆け回るだけのお嬢様じゃ、空を行く鳥には追い付けないだろう?」
木崎の手が届かない位置まで上昇し、ポキポキと首を鳴らす。舌打ちが聞こえたが、もちろん降りてやるつもりはない。
かつての敗因。それは第一に、正面切ってこいつに肉弾戦を挑んだこと。どれだけ鍛えても、鳥類の身体は宿命的に脆い。翼をもがれた鳥など無力もいいとこなのだ。だが……。
「時として、猛禽類はネズミや野ウサギを食らう。場合によっては狐だっていけるんじゃないか? 自然界の上下関係は、状況に応じて簡単に入れ替わるものなんだよ」
「……いや、あなた烏でしょう? 都会で生ゴミ漁ってるような連中が、空の支配者と同列に扱えるとでも思ってるんですか?」
「力の差は頭で補えばいい。知らなかったなら教えてやろう。烏は賢いんだ」
「……降りてきてくださいよ。正々堂々やりましょう」
「お前がそんな言葉を知っていたなんて、驚きだな」
嫌味のつもりでそう応えれば、木崎は「仕方ない人」と肩を竦めてから、掌に青白い炎を作った。
口元まで持ち上げ、息を吹きかける。まるで魚の産卵のように、小さな火球が大元の火から分裂し、空気中に放出されていく。
火球は最初、あてもなく辺りを漂っていたが、木崎が指を鳴らすと、途端に統率の取れた動きになって、術主を守るようにその周囲に集結した。
総数、ざっと百。こんな使い方も出来たとは。狐火が便利なのか、木崎の技量が高いのかは不明だが……こいつが何をするつもりかは、考えなくとも察しが付く。
「警告を無視する悪い飛行機はぁ……威嚇射撃の後、撃墜ですっ!」
振り上げられる狐の手。火球が、矢のような速度で、次々と襲いかかってくる。これを予想していた私は即座に回避機動をとった。
対空砲火をかわすコツは、何よりも高度を下げないこと。そして予測出来ない動き方をすることだ。射撃手から遠いほど、偏差が困難であるほど、攻撃の命中率は下がる。
翼を使い、急上昇。方向転換。斜めに加速。飛行は鳥の本分だ。縦横無尽に空を駆け回る私に、木崎は狙いを定め切れていないらしい。濃密な弾幕は掠めもせず。明後日の方向に飛んでいって消える。
私が空中にいる限り、相手の攻撃はほぼ無意味。問題はこちらから攻めるときだが……む?
降下して反撃に転じようとした私は、木崎の姿が見当たらないことに気付いた。
「どこ見てるんですか? こっちこっち」
嘲けるような声がして、私はハッと横を向く。すぐ目の前に木崎がいた。急旋回で逃れようとするが、それよりも早く、木崎は私の脚を掴んで笑った。
「あはっ、捕まえた!」
驚いてないと言えば嘘になるが、考えてみれば何のことはない。鳥居や木々を足場にして、私のいる高度までジャンプしたのだろう。このまま地面に引きずり落とし、肉弾戦に持ち込む。木崎が考えたのはそんなところか。
……面白い。だが、愚策だな。
「なに寝ぼけたことを言ってる? 捕まったのはお前だ」
空中戦で分があるのは私だということを、こいつはまだ理解していないらしい。
掴まれた脚を振り上げる。木崎の手が離れ、その身体が宙に投げ出された。素早く背後に回り込み、私は回し蹴りを繰り出す。
木崎が目を見開いた。そんな顔をしてももう遅い。
「――墜ちろッ!」
「ぐっ!」
一喝。衝撃。次いで呻き声。土煙を上げて、木崎が地面に叩きつけられる。
いくら頑強でもこれは堪えた筈だ。倒れたまま動かない彼女を見て、私は即座に加速した。
このまま踏み付け、蹴り上げて。戦いの主導権を握るべし。
「残念でしたぁ黒羽さん。“鳥籠”へようこそ」
「――っ!?」
肉薄した瞬間、木崎がニヤリと口を歪めた。
私たちを取り囲むように、地面から吹き上がる炎。慌てて減速して逃げようとしたが、あと一歩間に合わなかった。狐火の柱は天高く上昇した後、ドーム状に湾曲して檻を形作る。
格子の隙間から抜け出そうとすると、即座に炎がうねって逃げ道を封鎖した。
「諦めなさいな。出れませんし、出しませんよ」
「……そのようだな」
仕方なく地面に降り立つ。その頃には、木崎も起き上がり体勢を整えていた。閉鎖空間の中心を挟み、私たちは対角線上に対峙する。
「誘い込まれたというわけか。いつからだ?」
「あなたがお空に上がった時です。おそらくこの辺に落とされると思ったんで、対空射撃の合間に罠を仕掛けさせてもらいました。立派な翼を持っていても、籠の中では存分に飛べないでしょう?」
気色の悪い舌舐めずりに、思わず顔をしかめる。地上は敵のフィールド。決定的に私が不利なのだ。これは……。
「実にお前らしい、回りくどい手を打ってくれる。どこぞの雑草女と気が合いそうだな」
「あいつと一緒にしないでください。不愉快です」
挑発をかければ、心底嫌そうに木崎が吐き捨てる。
不愉快か。よく言ったものだ。翼を拳に変化させつつ、私は盛大に笑ってやった。
「同属嫌悪って知ってるか? 鬼畜に喩えられて否定出来ない外道、今のお前だよ」
「勇気と無謀の違いってご存じですか? 先陣切って地雷原に突っ込む馬鹿、今のあなたです」
両者、同時に動く。繰り出すは直線的な前蹴り。対する木崎は、鉤爪による横薙ぎの切り裂きを。
骨が折れ、鮮血が散る。そのまま私たちは近距離の格闘戦に移った。
「ハッ!」
「しゃらあッ!」
飛来した火球は上半身を逸らして回避。戻る反動で勢いをつけ、拳を振るう。木崎が腕を組んでガードするが、構わず強引に吹っ飛ばす。
以前の私は、純粋な力でこいつに劣っていた。だが今は……。
「悪いな――負けるわけにはいかないんだ」
何とか食らい付けている。それもその筈、私とて今日まで鍛えてきたのだ。あの時とは違うと、驕り高ぶった狐に教えてやろう。
「調子に乗っちゃって。下克上させると思いますか? 寝言は寝てから言いなさい」
木崎が掴み掛かってくる。続けて切り裂き、回し蹴り。それらの攻撃に、私は後退しつつ対処していく。……が。いつもの感覚で下がりすぎたらしい。髪の先が炎の檻に触れて焦げた。
それならば。私は即座に前進する。木崎を押し返すか、少なくとも位置を入れ替える……そのつもりだった。だが……。
「なっ……ぐっ!?」
瞬間、身体が宙に浮く。投げられた。そう悟ったとき、私の視界には空が広がった。
「くそ……よくも」
背中から地面に叩きつけられた私は、全身を突き抜ける痛みに悪態をついた。
何してる。早く起きろ……! そう思うや否や、身体がひっくり返された。そこに木崎が、満面の笑みでのしかかってくる。
「邪魔だ! どけぇええっ!」
「あはっ! 絶対に嫌でぇええぇっす!」
私は木崎を振りほどこうと暴れ、木崎は私を抑え込もうとして抱き締める。
もつれにもつれて転がったまま、私たちは暴力的なキャットファイトを繰り広げた。
私が相手の肋骨を砕けば、お返しとばかりに鎖骨が折られる。頭突きで顎を突き上げれば、手刀が喉に叩き込まれる。互いに互いを仕留めようと藻掻き、苦悶の声と身体の壊れる音が響く。
当初、戦いは拮抗していた。だが……。
「あまり――舐めないでくださいな」
揉み合うこと数秒。現在の体勢。私が下、木崎は上。いつも楓を押し倒すときと同じで、位置だけが普段と違っている。その状況で、彼女は私の両手首を掴んでいた。
「小鳥が狐に勝てるわけないでしょう? 立場の差ってもんを分からせてあげますよ」
私の手を頭の上で一纏めに握ると、彼女は空いた手を私に近付けてくる。
何する気だ? まさか……。身体に戦慄が走る。直後、私の視界が真っ黒に染め上げられた。
「うあ、ひぎっ!?」
感じたのは、焼けるような痛み。一拍置いて、私は何が起きているのかを理解する。木崎が、私の両目に指を突っ込み、眼球をグチャグチャにかき回していた。
「暗くて怖くて痛いですね? このくらいすれば、いよいよ黒羽さんも屈するかしら?」
苦しむ私を、木崎は愉快そうに嘲笑って、更に奥深くまで指を差し込んだ。
折り曲げ、回し、蠢かせる。その度に激痛が正気を蝕む。尊厳が散々に侵されているというのに、拘束された私はただ足をばたつかせ、悲鳴を上げることしか出来なかった。
「……よぉし、このくらいで十分ですかね。食べるにしたってマナーは大事。まずは、お上品に、吸い上げちゃいましょう」
「っ!? あ、ひ、がああぁああ!?」
掃除機のような音が頭骨の内側を揺らし、私の脳を本能的な恐怖で満たす。
潰した目玉を啜ってから、狐の女は恍惚とした声で笑った。
「はぁあぁああ……美味っ! トレビアンッ! 期待以上の味ですよ! 獣から人になろうとした人妖。ましてや動機が純愛で、肉体まで引き締まっているとくれば、美味しくない筈がなかった!」
「う……がぐっ、ああっ!」
「色んな料理で味わっちゃいましょうね。ええ、もちろん命は奪わずに。鎖で繋いで、大切に“飼って”差し上げます。毎日毎日、太股の肉を削ぎ落として」
頬に吹きかけられる、蕩けるような吐息。感じる、彼女の興奮。全身の筋肉が否応なしに強張った。
「ソテー! ステーキ! ミキサーにかけてハンバーグっ!」
リズム良く殴打を重ねてくる。身体が軋む音を聞きながら、私は歯を食い縛って、終わりの見えない辱めに耐え続けた。
「うぅん……良い匂い。絶対に美味しいやつ。ご馳走ですねぇ。ブランドですねぇ。恋人が家畜になると知ったら、楓くんはどんな表情をするでしょうか」
唐突に打撃が止んだかと思えば、木崎は私のこめかみに顔を近付け、堪能するように深々と息を吸い込む。視界は閉ざされて見えないが、きっと私が“お気に召した”のだろう。ぺちゃぺちゃと嫌な音がして、こめかみに舌が這わされる。そこで私は……。
好機とばかりに、その耳を思い切り噛み千切ってやった。
「ふぇ? なに今の。なんかブチッて……ひぃいっ!?」
彼女にしては妙に間抜けな悲鳴が聞こえ、次いで私の上にあった重みが消えた。解放された私は口の中の生肉を噛み締めつつ起き上がる。コリコリとした感触で、まるで軟骨を食べているようだ。
「……ふん。不味いな。だが、最低限霊力の足しにはなる」
「く、黒羽さん? あなた何を――」
「何を、だと? はっ、笑わせてくれる! もしや貴様は、食われる覚悟も無しに私を食おうとしたのか?」
だとしたら相当に滑稽だ。あるいは、目を潰したことで私の心が折れた、と考え油断したのかもしれない。……馬鹿らしい。その程度で私は挫けない。絢音に骨を砕かれた時の方が、よっぽど辛かった。
「捕食者の立場に甘んじてきて、食われそうになったことが無いんだろう? 経験が違うんだよ、女狐」
そう言って地を蹴る。おそらく木崎は思っている筈だ。目を奪ったのだから録に動けはしまい、と。
本来ならばその予測は正しい。だが私に限って言えば……。
「――そこだッ!」
肉薄し、蹴り上げを放つ。続いて連撃。肩を、腹を、足を打つ。心を無にし、全神経を集中。己を殺戮の機械に変えた私は、鳥の速度で木崎を圧倒する。
こいつは知らないだろう。私が盲目の状況を予期し、密かに鍛錬を重ねていたことを。
「んな馬鹿な……何ですかその動きは! まるで、全部、見えてるみたいに――」
「視えているのさ。聴覚、触覚、直感。これらを研ぎ澄ませば、目に頼らずとも色々と分かる。敵の位置。動き。息遣い。貴様が今、私に恐怖していることさえもな!」
「っ!」
息を飲む彼女の頭部を掴み、額も割れよと頭突きを食らわす。肌の上を温かいものが流れた。果たしてどちらの血液か。どちらでもいい。よろめく木崎の身体を掴み、叩きつけるようにして地面に押し倒す。
今回は、私が上だ。
「ひゃん!?」
「可愛い声を出しても無駄だ。楓であれば躊躇ったかもしれんがな。生憎、私に色仕掛けは通じない」
震える木崎の首を絞め、もう片方の手でその顔面を殴る。「嫌、やめっ……」と懇願が聞こえるが、勿論これで終わりにはしない。高千穂での件と、ついさっき。こいつには実に、実にたくさんの“借り”があるのだ。
「立場の差を分からせると言ったな? ありがとうよく分かったよ。お礼に私も、貴様に同じ事を教えてやろう」
お返しだ。微笑み、私は木崎の喉笛に噛み付く。
勝負が決した瞬間だった。




