現人神の目覚め
冬の朝に聞く目覚ましのアラームほど不快な音は、この世に無いと思っている。
午前六時半。黒羽の影響で早寝早起きを心掛けるようになった僕が、決まって目を覚ます時間帯だ。夏であればそのまま活動を始めるところだが、十一月も半ばに差し掛かる昨今、布団の外は寒い。だから僕は、決まって二度寝を試みる。
温かい布団に全身を包まれ、添い寝する恋人の匂いに幸せを覚えながら、微睡みに揺蕩う時間。起きなきゃな、と頭では思いつつも、冬のお布団の魔力には勝てず。気付けば寝ているのが最近の僕だ。
大抵そこで、七時にセットしたアラームが鳴る。
良い感じの夢は爆音でかき消され、不愉快極まりない形で現実を突き付けられる。チャリラリララララン、というあの電子音は、人の心を逆なでするためだけに作られたのではないかと思う程だ。うるさいを通り越して嫌になったので、最近、アラームの音を好きな洋楽に変えた。以来、僕の寝覚めはアップテンポなメロディーと共にやってくる。
今回も、それは例外ではなかった。
耳をくすぐるのは、掠れ気味のアルトで紡がれる鼻歌。目を開ければ、すぐ真上に黒羽の顔がある。どうやら僕は、俗に言う膝枕をされているらしい。
「……おはよう。ようやく起きたか」
僕を見下ろしてフッと微笑み、すぐに頬に手が添えられる。伝播する体温から彼女の生を実感し、僕は久しぶりに心の底から安堵することが出来た。道のりは果てしなく困難だったが、好きな娘の命を、彼女と暮らす毎日を、僕は守り抜いたのだ。
「まったく。無茶をするなと何度言えば分かるんだろうな? 私だけならともかく、狐まで助けてぶっ倒れるだなんて。目覚めたときの私の気持ち、少しでいいから想像して欲しいものだよ」
「うん……心配かけてごめんね。でも、あのときはああするしかなかったんだ。許して」
「別に怒ってはいない。汝が無理するのは今に始まったことじゃないからな。ただ、汝が誰かのために傷付くのを見て、ヤキモキさせられる女もいるってだけさ」
いつになく真面目な口調から、彼女の愛の深さが分かる。実家の母曰く、こういうのは叱られる内が華。僕を想っての忠告だ、出来る限り善処していこう。
「調子はどうだ?」
「絶好調」
「本当だろうな」
「半分くらいはね」
よっこらせ、と身体を起こす。気絶する前は衰弱死寸前だったが、今はそうでもない。いつのまにか霊力が復活しているのだ。しかも自然回復にしては量が多い。これは、おそらく……。
「霊力、分けてくれてありがとう。助けたつもりが助けられちゃった」
「礼はいい。私は私に出来ることをしたまでだ」
素直に感謝の意を示せば、いつも通りの素っ気ない返事がある。彼女にとっては僕に尽くすことが当然になっているのだろう。かくいう僕も彼女の立場なら、迷いなく同じことをした筈だ。だって彼女は、僕にとって本当に大切な人で……。
「愛してるよ」
隣にいるのが当たり前になっちゃったくらい、重要な存在なのだ。
出逢ってからまだ数ヶ月。互いに互いを知り尽くしたわけじゃないけど、それでも互いを知りたいと願う、そんな関係性。絢音の手で危うく奪われそうになって、僕は初めてその大切さに気付けた。どれだけ大切に思っているか自覚した。それを、拙い言葉でもいいから、彼女に伝えたかったのである。
「……どうしたいきなり。汝にしては珍しい。本当に楓か?」
黒羽が僕を抱き締めて、弟にするみたいによしよしと頭を撫でた。きっと、赤くなった自分の顔を見られたくないのだろう。本人は誤魔化せてるつもりでも、声のトーンで丸わかりだった。
「本当、君は照れ隠しが下手だね」
「……仕方ないだろう。嘘は苦手なんだ。本当なら汝を愛でたいとこだが、状況も状況だし、取り敢えず我慢だな」
「どういう意味?」
「……ん」
黒羽の手が僕の身体を掴み、反対側に向けさせる。直後に僕は「うわっ」と顔をしかめた。少し離れたところで、木崎と結城があぐらをかいて座り、寄り添う僕たちを満面の笑みと共に見守っていた。
「どうも。おはようございます!」
「……おはよう」
「何ですか、その『そういやこいつらがいたな』的な視線は。遠慮しなくていいんですよ。どうぞ好きなように続けてください? 当方は黒子として沈黙を保つんで」
「黙れ。貴様らがいると落ち着かない。どっか行け」
心底鬱陶しそうな様子で手を振る黒羽に、木崎は「あらあら」と肩を竦めてから、僕の方を向く。目の下に隈が出来ているが、体調は良さそうだった。
「二人とも元気かい?」
「おかげさまで。何があったかは、全て黒羽さんから聞きました。お疲れ、楓くん。そして何より、ありがとう。またしても借りが出来ちゃいましたね」
「お互い様だよ。そっちだって、死にかけてた僕に、霊力を分けてくれただろ」
「はて? 何のことでしょうか?」
「……とぼけるね」
生と死の狭間から僕を連れ戻してくれた手は、確かに三人分あった。一人は黒羽。残り二人は? 状況的にこいつらだろう。当人らは認めたくないみたいだが……。
「感じるんだよ。黒羽のとは違う霊力が、今、僕の中に流れてる。それも二種類ね。疑いの余地はない」
「いやいや、気のせいです」
「君らが僕を助けるなんてさ、前なら絶対に有り得なかった。実を言うとちょっと嬉しいかも」
「だから何もしてませんって。事実はともあれ、そういうことになっているんです。よろしいですか。別にわたしはどっちでも良かったけど、そういうことにしたんです。ね、結城くん」
「……」
結城が黙ってそっぽを向く。あからさまに会話を拒絶するその姿勢に、僕は首を傾げた。おい、どうしてこっちを無視するんだ。
「結城?」
「放っておけ。あいつも色々と複雑なんだろう。宿敵に命を救われ、そして救い返したなんて、私でもすぐに認めたくないさ」
「黒羽までどうしたの」
「どうもしていないぞ。“私は”な」
「いや、だからそれって――」
気になった僕が更に聞き出そうとしたとき、それを遮るように木崎がパァンと手を叩いた。
「はい、おしまい。この話題は終わりです。解散。閉廷! 人の心を根掘り葉掘りほじくり返そうとしてると、碌な目に遭いませんよ」
「え?」
「それじゃ、わたしと結城くんは、ちょっと二人で話したいことがあるので失礼しますね。また後で。そちらもどうぞ、ごゆるりと。よろしくお願いします」
そう言って結城の腕を掴むと、僕が呼び止めるのも気にせず颯爽と歩き去ってしまう。どうやら彼らは神社の裏に向かったようだ。一体何が何だったのか。なにゆえ結城は一言も喋ろうとしなかったのか。考えても分からない。
「……どっか行けとは言ったが、本当にどっか行くとはな」
掴めん女だ。そう黒羽がぼやく。置き去りにされた僕たちは、何をするでもないまま、しばし無言で互いの顔を見詰め合った。
木崎に変なことを言われたからだろうか、流れる空気が妙に艶めかしい。
僕を再び抱き締めて、黒羽は耳元で呟いた。
「あの女に、勝ったんだな」
「……うん。負けそうになったけど」
というか負けた。最終的には勝てたけど、それまでの過程は本当に一方的なもので……絶対に。絶対に忘れはしないと思う。そのくらい熾烈だった。
地獄の夜が脳内でフラッシュバックして、僕の身体は自然と強張る。だが蘇りかけた嫌な記憶は、次の瞬間、黒羽の良い匂いによって塗り潰されていた。
「ちょ、なに……!?」
「お礼兼、ご褒美だ。文句があるなら今の内に言え。無ければ黙って受け取るがいい」
柔らかい双丘に顔面を押し付けられ、甘い囁きと共に頬擦りをされる。頭が潰れそうになるほどの馬鹿力……じゃなかった。怪力、でもなくて。惚れ直しそうな逞しさを感じ、僕の胸はバクバクと高鳴った。
ああ。何だろう、このお姉さん感。年上が好みで良かった……。
「楓。良ければ少し、炎を出してくれないか?」
「炎? 別にいいけど……」
掌に霊力を集める。生じた鬼火を見て、黒羽は「ふむ」と興味深げに唸った。
「色が変わっているな」
「絢音を倒したときから、金色になったんだ。どうしてか分かる?」
「おそらく霊力の質が上がったのだろう。私の勘違いかと思ったが、やはり、そうではなかったようだな。瞳も両方、黄金色になっているし、半神の力が馴染んできているのかもしれない。よく頑張った。短期間で本当に頼もしくなったな。恋人として嬉しいぞ!」
「ぐ……くるじい……!」
「おっとすまない。危うく汝を窒息死させてしまうところだった」
黒羽が笑いながら僕を解放する。一抹の名残惜しさを感じたが、直後にそれは解消された。僕の後ろに回り込んだ黒羽が、背後から僕を包み込むようにして抱き締めたのである。
「どうした、何を赤くなっている? 狐どもはいない。絢音もいない。私たちだけだ。存分に触れ合おう」
ここ数日、スキンシップ不足だった反動だろうか。普段なら外でこんなことしないのに、今日はやけに積極的だ。まるで、二度と僕から離れるつもりは無いと言うかのような……。
「もしかして……怖かった?」
訊けば、彼女の身体が固まる。その反応に、僕は自分の言葉が正しかったことを確信した。
「……悪いか?」
「そうとは言ってないだろ。寄生されたらどうなるか、なまじ知ってるからね。恐怖は当然の感情だよ。僕だって怖かった」
「なるほど。……ありがとう。だがな、実のところ、私が怖かったのはそんなことじゃないんだ。もちろん死ぬのは嫌だが、過去に私は一度死んでいるし。そこまで恐れてはいないさ」
「……じゃあ、何を」
「汝のことだ。汝が絢音に殺されるんじゃないか。そうでなくとも弄ばれて、私の元からいなくなるのでは……それが怖かった。汝なら勝てると信じてはいたぞ? だが、戦とは得てして予想外のことが起きるものだ。万一を想定せずにいられるほど、私はお気楽な女ではない」
「……そっか」
返す言葉が見当たらず、頷く僕。現にその予想外に見舞われた身としては、黒羽の不安を痛いほど実感出来る。
大丈夫だよ。と胸を張って言い切れるほど、僕が強ければ良かったのだが、現実はそうもいかない。蛇神にも、絢音にも、正攻法では敵わなかった。彼らを上回る存在も、この世界にはきっと大勢いる。
安心出来る最強の座は、まだ遙か彼方。決して届かない目標かもしれない。だけどそれでも……努力することに意味はある。がむしゃらでいいから突き進め、と蛇神が言っていたように。
「よしよし」
黒羽の喉を撫でてやれば、嬉しげな鳴き声が降ってくる。
この娘と過ごす毎日を、どんな脅威からも守り抜くために。僕は高みを目指し続けよう。
※
しばらくして狐たちが戻ってきた。二人で何を話したかは知らないが、結城の様子は元通りだった。対する黒羽は僕とイチャつき足りなかったようで、社に上がってくる木崎らを見るやいなや、盛大に舌打ちをしていた。
「お邪魔して悪いな。そんで、こっからお前はどうするつもりなんだ?」
「家に帰るよ。場合によっちゃ君たちも乗せていけるけど?」
結城が訊いてきたので、僕は静かにそう返す。ここから福岡のアパートまでは、車で数時間。遅くとも日暮れ前に着けるだろう。こいつらの目的地次第では、ある程度の寄り道もやぶさかではない。
「そこをどうするか、俺たちも今さっき相談してたんだよ。ひとまず事件は幕引きだ。蛇神が死んだから、俺たちは晴れて自由の身。人の中に紛れて暮らすもよし、山に帰って獣らしく生きるのもよし、ってな」
「だけどなかなか決められなくて。どうしたものかと現在進行形で悩んでいます」
結城の言葉を受け継いだのは木崎だった。慣れ親しんだ野山が恋しいとはいえ、小説好きの彼女としては、人の世も捨てがたいのだろう。
いずれにしても、僕や黒羽には関係の無い話だ。
「口出しはしないし、出来ないよ。君たちの命は、君たちの好きに生きればいい」
「なーるほどな。完全に想定通りの返事だぜ」
結城が皮肉っぽく肩を竦めるのを見て、僕はズボンのホコリを払いながら立ち上がる。
彼が言うとおり、今回の騒動は既に片付いた。従って、僕たちの協力も意味を失う。この先がどう転ぶかは、ずっと不透明なままだった。
「……君らだって僕に指図されるの嫌だろ? お互いに対等で自由。気に入らないのかい?」
僕の言葉を受けて、結城の後ろに控えていた木崎が、小さく首を傾げた。
「もちろん、わたしたちは好きに生きますよ。何にも縛られない生き方こそ、獣が獣たるゆえんですから。……それでも。一時的とはいえ、わたしたちは同盟関係にありました。同盟とは、互いへの敬意があってこそ成り立つもの。心残りがあれば最後に聞いておこうと思いましてね。いかがですか?」
「いや別に」
「そこまでは無いかな」
黒羽と僕が息を合わせて返す。狐たちが吹きだした。
「意外と素っ気ないものですね。生死の境を潜り抜けた仲だってのに。名残惜しさとか感じたりしません?」
「名残惜しさ? ……そうだね。正直、ここでこのままお別れってのも寂しくはあるけど。最低限、君たちが僕らに敵対しなければ、それでいいんだ。だから」
「だから?」
ニッコリ笑って問い返す木崎。その隣では、結城が静かに腕を組んで立っている。意味ありげな表情から、二人の考えが直感的に分かってしまい、僕は思わず肩を落とした。
絢音を倒して終わりだと思っていたが、もう一波乱あるようだ。
「その鉤爪、今すぐ仕舞ってもらえないかな?」




