狭間にて
見覚えのある真っ白な世界に、僕は立っていた。
辺りを見渡し、ああまたか、と苦笑を漏らす。夢。あの世。もしくは臨死体験。少なくとも現実ならざる場所。十中八九こうなる気がしていたので、一度目と比べて戸惑いは薄かった。如何なる空間であれ、現在進行形で僕が死にかけているのは変わりないのだから。
しかしそれでも、一つだけ訊きたいことがある。神でも仏でも悪魔でもいい。誰か僕の質問に答えて欲しい。
「やっほーう。また会えたね」
……どうしてこいつがここにいるんだ?
「何かなその不満げな顔はー。感動の再会だよ、もうちょっと喜んでもいいじゃない」
「喜ぶ? 僕が? ふざけるなさっさと消えろ」
「うわぉ、相変わらず辛辣だね。楓さんの気持ちも分かるけど、一旦落ち着こ? アタシがいなくなっても別にすること無いでしょ。お話でもしようよ。さっきはそれどころじゃなかったからさ」
座って? 絢音が自分の横を指し示す。僕は一歩後ずさった。
「断る」
「座れって言ってんの」
胸ぐらを掴まれ引き寄せられる。振り払って逃げようとした直後、みぞおちにパンチを入れられた。「うっ」と僕がよろめいたところで、絢音は僕をお姫様抱っこし、そのまま優しく足下に横たえる。
仕方なく、僕は逃走を諦めて、身体を起こした。
「良ければお膝に乗っからせて?」
「近寄るな」
「んもう、いけずぅ」
「死ね」
本当にムカつくやつだ。くっついて座ると尊厳が侵されそうだったので、少々乱暴に絢音を突き放す。こいつと馴れ合うつもりはない。
しつこかったらぶん殴ってやるつもりだったが、どういう心変わりか、絢音はそれ以上距離を詰めてこようとはしなかった。
「……ねぇ、質問してもいい?」
「黙れ」
「ここどこ」
「……さぁね。僕の頭の中らしいよ」
「てことは夢? 何にも無いね。つまんなーい」
「退屈で悪かったな。けど僕に言われても困る」
「頑張れば変えられるんじゃないの? ほら、明晰夢みたいにさ」
本当か? 思わず眉をひそめる。こいつの提案には乗りたくない。だけどこのまま真っ白な空間に二人きりというのも、考えてみれば気が滅入りそうである。一度だけ、試してみよう。
どこにしようか。落ち着ける場所がいいな。とすればやっぱり……。
「うぉ、ホントに変わったね。ここは……楓さんの部屋?」
「……っ」
しくじった。落ち着ける場所には違いないけど、結果的にこいつを招き入れる形になってしまった。見慣れた自室の光景を前に、僕は舌打ちをする。
「へー、やっぱり男の子の部屋って感じだね。ちゃんと片付いてるし……ふむふむ、結構小説がある。何読むの? ラノベ? 文芸? 純文学? どれどれちょっと拝見」
「おい、勝手に触るなよ! 大人しくジッとして――」
「おおお!? この表紙の人、黒羽さんにそっくりだ。はぁん、ふぅん? なるほどね? 把握した。楓さんの好み、完璧に把握しちゃいました」
「……ごちゃごちゃとうるさいな」
腹が立ったので場所を変えることにした。高千穂の山をイメージしたつもりだったが、数ヶ月帰ってないせいで記憶が曖昧で、完成したのは何処とも知れぬ謎の場所だった。
僕たちの目の前に、底の見えない渓谷が走っている。周囲は鬱蒼とした森に囲まれ、対岸に渡る道はボロボロの吊り橋だけ。不気味なとこだな、と内心で思いつつ、僕は絢音に背中を向けた。
「おや、ふてくされちゃった」
絢音が肩を突いてくる。僕はそれを、断固として無視する。
「楓さん」
「黙れ」
「話そうよ」
「来るな」
「こっち向いて」
「嫌だ」
「……お願い」
唐突にしおらしい声。本当にこいつは、人の心に入り込むのが上手いというか。ここで応じるのは癪だけど、放置してもそれはそれで面倒で……。
「ああもう、何だよ! 用があるなら手短に言え」
しょうがなく振り返る。絢音はお行儀良く土の上に正座して、こちらを見詰めていた。
全くもって腹立たしいことだが、やっぱり外見は整っている。キリッとした瞳に、真っ直ぐ伸びた背筋。ショートカットの黒髪。女子校の王子様、という肩書きが実に良く似合いそうだ。
「アタシね。楓さんのことが、好きだよ」
死の直前に見せた、恋する乙女の表情で、絢音は自らの胸に手を当てた。
「楓さんがアタシを嫌うのは分かる。信じないのも分かる。人のフリして皆を騙してきたんだもんね。だけど、この想いだけは嘘じゃないの。信じて欲しい」
「……どうせ僕の霊力が目当てだったんだろ?」
そう吐き捨てれば、絢音はどこか切なげな笑みを浮かべて。
「うん。でも最初だけだよ。途中から、人だった頃の心が楓さんを好きになっちゃった。あなたと戦ってたときは、取り込みたいって気持ちと、好きって感情と、両方あったの。今だって、こうやって話してるだけで幸せなんだよ?」
「だったらどうしてあんなことした!」
「そりゃまあアタシがイケイケな気分だったからかな! ……うん、ごめんね? あのときのアタシ、ちょっとハイになってたかも」
反省の色など微塵も見えない、飄々とした態度。さすがの僕も我慢の限界だった。絢音の首を掴み、怒りに任せて押し倒す。絢音が微かに目を見開いた。
「……わぉ」
「いい加減にしろよ! イケイケな気分? ちょっとハイになってた? 笑顔で僕の潰しておいて、よくもそんなことが言えるな! お前さえ、お前さえいなければ……!」
「“こうして僕が死にかけることもなかった”なんて思ってるの? 馬鹿らしい。一番最初、蛇神から無事に逃げられたのは、誰のおかげだったっけ? アタシの協力がなかったとして、あそこまで上手に事が運べたとでも?」
首を絞められているにもかかわらず、絢音の瞳に恐怖の色はなく、それどころかこちらを試すような目付きを向けてきた。その表情が僕の心をますます揺さぶり、胸中の激情を加速させる。食い縛った歯が、割れそうな程に痛い。
「楓さんは出来た筈だよ。狐たちを見捨てるって選択も。だけど実際にはそうしなかった。死ぬの覚悟であの二人に霊力を与えた。その結果あなたがどうなろうが、アタシに文句つけられても困るんだけど」
「そうかもしれない……そうかもしれないけどな! お前にそれを言う資格は無いんだよ! 僕の、僕たちの人生を滅茶苦茶に掻き乱しておいて……!」
「だからどうしたって言うの? 謝って欲しい? 償って欲しい? 甘いね。楓さんは思考が甘すぎる。この世は弱肉強食。弱者が守られるのは人間の社会だけ。そこから外れる道を選んだくせに、自分の弱さを棚に上げないでくれるかな? あなたがもっと強ければ良かった。それだけのことなのに」
「黙れよ!」
手に力を込める。死んでしまえ。衝動的な殺意がふと脳内に芽生えた。だが、一切抵抗をしない絢音の姿を見て、僕はハッと我に返る。
僕が激しい感情を向ける程、こいつは喜ぶのだ。だとしたら挑発に乗るのは悪手。落ち着け。冷静になれ。こいつの思い通りになってたまるか。
「およよ……死ぬかと思った」
「もう死んでるだろ」
わざとらしく咳き込みながら、絢音が起き上がる。僕も乱れた息を整えながら、その場に腰を落ち着けた。「まったく……」と諦め混じりの溜息を吐く。
流れる空気が、絶妙な距離感が気まずい。絢音は僕が好きだと言うが、こっちからすれば仇敵だ。だが今はその敵と、一時的な休戦とも呼ぶべき状態にある。正直、接し方が分からない。
そんなわけで黙っていると、絢音の方から話しかけてきた。
「にしても、驚いたよ。寄生したヤドリギを枯らす方法、教えなくても理解してたんだ?」
僕が気になっていたことを的確に突いてくる。無視しようかとも思ったが、最終的には好奇心の方が勝った。
「……理解はしてない。単純な消去法さ。僕だけにヤドリギが根付けなかったから、鍵は僕の霊力にあると思った。だけど、結局どういう理屈なんだ、あれ」
「そこはアタシが解説したげよう。考えられる要素は二つ。霊力の格と、概念的な強弱だね」
学校の先生みたいに指を立て、絢音が続ける。
「霊力の格ってのは、文字通り格が違うって意味。所詮は先代の七光りだとしても、神様の霊力だもん。素の抵抗力は、妖怪や人間のそれよりも強い。当然のことだよ」
「……なるほど。だけどそれだけじゃ納得が出来ない。現に蛇神はヤドリギに負けて、操られたじゃないか」
「そうだね。だからここで、二つ目の理由が関わってくるの」
「概念的な強弱……僕とヤドリギの間の?」
「そう。アタシが迎えに行く前、楓さんはエックスと戦った。そして勝利したよね。おそらくその時に、二者の間で上下関係が定まったんだと思う。楓さんという存在に、エックス、すなわちヤドリギの怪物に打ち勝つ者という“意味”が与えられた。寄生に抗う免疫が出来た。それだから、アタシの種も体内で駆逐されちゃったんだよ。転じて楓さんの霊力は、アタシたちに対する特効薬になった」
……いや、きっとそれだけではない。思えば先代のマヤも、先々代の猪神も、ヤドリギと戦い勝利してきた実績がある。絢音の言った“ヤドリギの怪物に打ち勝つ者”という概念が正しいとするなら、それは決して、僕一人で築き上げたんじゃなくて……。
「意味とか、概念とか……抽象的な話だな」
「怪異ってそういうもんでしょ。ふんわりしてるけど、ハチャメチャではない。根っこにある論理が、人間の科学とは異なってるだけ」
「黒羽があそこで無事だったのも……」
「一部とはいえ、楓さんの霊力が体内に流れていたからだろうね。心当たり無い?」
「……山ほどある」
蛇神を倒したあと、黒羽を回復させるために霊力を与えた。何なら普段から日常的に似たようなことしてる。今回は、それが奇しくも彼女を助け、僕の勝利に遠からず貢献したというわけだ。凄いな、愛が世界を救ったぞ。
「さらっとイチャついてんの認めたねぇ……チクショウめ」
「悔しがってもお前の席は無いからな」
「分かってるよ。ま、他の女に浮気するんならともかく、黒羽さんに盗られるなら仕方ないかな。奪うのは、無理だって証明されたし」
「……おい、お前あの娘に何した」
「楓さんほど酷いことはしてないよ。……ところでこれからどうする? 目の前に橋あるけど、渡っちゃう?」
「いや。多分、やめといた方がいい」
理屈ではなく、僕の直感が進むなと叫んでいる。底の見えない渓谷と、その両岸を繋ぐ一本の橋。此処はきっと、境界だ。あっちに行けば、もう戻ってこられない。そんな気がする。
「残念。楓さんと心中出来るかと思ったのに」
「いちいち物騒なやつだな。……じゃあ、やっぱり?」
「三途の川的なサムシングだろうね。向こう側に行きたいなら、アタシも一緒に逝くけど」
「突き落としてやるから一人で死ねよ」
「……またフラれちゃった」
「何度試しても僕の返事は同じだ」
たとえ絢音が外見通りの良い娘で、真っ当な方法を使い告白してきたとしても、僕は迷わずノーと返すだろう。愛する人が僕の横にいてくれる限りは、絶対に。
そう心に決めた瞬間、誰かに上着を引っ張られた。振り向くがそこには何もない。……その筈なのだが、僕を引く力は確かに存在していた。……手、だろうか? ちょうど三人分。僕の腕や、肩や、服を掴んで、こっちだこっち! とばかりに、橋とは反対方向に誘導しようとしてくる。この上なく不気味な現象だけど、僕はそれに、不思議と安心感を覚えて……。
立ち上がって移動しようとする。そんな僕を、絢音は手を振って見送っていた。
「戻るんだね」
「ああ」
「このままずっとここにいない? 現世は辛いよ。楓さんの霊力に惹かれる存在は、きっと他にもいる。アタシよりずっと強くて、ずっと残虐な連中たちがね。今度こそ本当に破滅するかもしれない。大切な人を、失っちゃうかもしれないんだよ?」
「……分かってる。君の言う可能性は、否定出来ない。だけどそれでも……まだ、僕は死なない。死ねないんだ。僕が死んだら、きっと黒羽は悲しむから」
「違いないね」
「……それに」
「それに?」
「“一緒にいる”って約束した。だから戻る。未来がどれだけ大変でもいい。今よりももっと強くなって、彼女との暮らしを守れるようになってみせるよ」
確固たる意思を以て宣言すれば、絢音は胸の膨らみに手を当て「頑張って」と応えた。
「どうしてお前が嬉しそうなんだ?」
「好きな人が好きな人のままでいてくれるから」
そう言ってグータッチを求めてくる。面倒くさいな……。だが、まあ、最後くらいはいいだろう。冥土の土産だ。
「……ほら。これで満足した?」
僕が拳を突き合わせれば、絢音は満面の笑みを浮かべて。
「また会えたらいいね」
絶対に嫌だ。




