たとえ我が身が粉と朽ちても
べとつく身体を川で洗い、脱がされたズボンを履き直してから、僕は皆が待つ神社へと向かう。
吸い込む空気は十一月らしく冷たくて、一歩踏み出す度にじわりじわりと体温が奪い取られていくようだった。
全身が重たい。絢音の毒には打ち勝った筈だから、多分、僕自身が弱っているのだろう。大したことない参道の傾斜も、今ばかりはゴルゴダの坂みたいに思える。
呼吸が、荒い。自分でもハッキリと分かるのだ――僕の心身は、とうに限界を迎えていると。
絢音に噛まれた左手の傷が、まだ治らない。どうやら再生力も落ちているようだ。出血は止まりつつあるのだが、穴の塞がりが妙に遅い。
気力だけで意識を保ちながら、永遠にも思えた階段を登り終えた先に、廃神社の社はあった。その中に、黒羽たち三人が蔦で縛られ、川の字になって転がされている。僕はフラフラになりながら黒羽の傍に行くと、跪き、彼女の安否を確かめた。
口元に手を当てる。弱々しいが息がある。顔は真っ青で、僕が呼び掛けても応答は無かった。
間に合うだろうか。分からない。だけど悩んでる暇はない。込み上げる不安を必死に殺し、そっと頭を近付ける。ここまで来れば、出来ることをするだけだ。
「……頼むよ」
黒羽の拘束を解き、僕はそのまま唇を重ねた。反射的に開かれた黒羽の口。そこに、いささかの背徳感を覚えながら、己の舌を差し入れる。黒羽の身体が微かに震え、僕の心臓は早鐘のように激しく脈打つが、気にしない。絡め合った互いの舌を通し、半神としての霊力をありったけ黒羽に注ぎ込む。
艶やかな喉が、こくん、こくん、と何かを嚥下する度に、彼女の頬は赤みを取り戻していった。上手くいきそうだ、と内心でガッツポーズをする。だが、いかんせん初めてのことで加減が分からず、念には念をと思った結果、黒羽の顔から苦しげな様子が消え去るまで僕たちは繋がったままだった。
唇を離し、「ふぅ……」と安堵の溜息を吐く。二人の間にかかっていた銀色の糸を、僕は手の甲で拭い去った。
僕が鍵だ、という黒羽の言葉。絢音との戦いに臨む前、僕はその意味を考えていた。彼女がああも言い切れた根拠は、一体何であろうか、と。
最初は皆目見当もつかなかったけど、僕が持っていて他の三人には無いものを消去法で詰めていったところ、一つだけ導き出されたものがあった。半神としての霊力である。
僕にヤドリギが根付けなかった以上、僕の霊力が何らかの影響を及ぼしている。そんな仮説を立てた。であるならば、それを黒羽に流し込むことで、寄生したヤドリギを枯らすことが出来るかもしれない……という、ある種の賭け。
詳しい理屈は知らないが、成功したんだからオッケーだ。そう己に言い聞かせ、黒羽に視線を落とす。さっきまで死人のような顔だった彼女は、すっかり安らかな表情に戻り、可愛らしい寝息を立てて眠っている。近く目を覚ますだろう。
「……ごめん。待たせて、ごめんね。だけど、無事で良かった」
彼女の右手を持ち上げて、僕はそこに、治療ではなく愛情の意味を以て口付けを落とす。
紆余曲折、波瀾万丈。色々と酷い目にあったけど、大切な人を守ることは出来た。その事実が少しだけ誇らしい。
あとは……。
「結城と、木崎……どうしようかな」
友達だった筈の二人。その本性は、僕に恨みを抱いていた狐。こいつらと僕の関係は、出会ったときから嘘にまみれていた。けれど今回の騒動を通して、僕たちは互いに協力することが出来た。信頼、和解、仲直り。そんな未来には程遠いものの、一定の前進はあったように思うのだ。
可能なら彼らも助けたい。というか、助けるしかない。放置すればヤドリギが成長してしまう。木崎の頭脳を得た怪物など、どうやっても敵う気がしない。今の内に、排除しなくては。
しかし二人に近付こうとしたところで、僕は腹部に強烈な痛みを感じて、咳き込んだ。
「うっ、ぐ……何だよ、これ」
口を押さえた掌に、べっとりと血が付着する。僕は思わず唖然となった。次の瞬間、まるで悲鳴を上げるかのように、心臓がひときわ強く脈打つ。今にも破裂してしまいそうだった。
ああ、まずい。ダメかも。
確信にも似た予感を抱く。今ならまだ、ギリギリ大丈夫。けれどここから狐たちを治せば、まともな休息も無く戦い続け、絢音に夜通し拷問され、霊力を使い果たした身体は限界を迎える。無様に衰弱して死ぬだろう。ヤドリギ定着までのタイムリミットがある以上、霊力の回復を待って治療、といったことも出来ない。
選択肢は二つ。死を覚悟して二人を救うか、このまま見捨てて時間を稼ぎ、最低限の回復の後に焼却するか。
迷うまでもなく、後者の案を採るべきだ。苦労して黒羽を取り戻したのに、僕が死んでは意味が無い。しかも彼らは、本来ならば僕の敵。協力したとはいえ恩より仇の方が多いまであるし、助けない方が合理的だと頭では分かっている。
そう、ちゃんと分かっているのだ。
分かっているのに――。
「……ああ、くそっ!」
彼らを見殺しに出来るほど、僕は強くなかった。
友達だった。正体を知るまで、僕は確かに二人を友達だと思っていた。その笑顔が偽物だったとしても、彼らと共に過ごす時間は僕にとってかけがえのない宝物だったのだ。
今回の件で、彼らとの距離が縮まった気がして。世辞でも冗談でもなく、僕は結構嬉しかったのだ。
たとえ我が身が粉と朽ちても、思い出に嘘は吐けない。
「……最悪だ」
行き場のない腹立たしさを抱きつつ、横たわる二人を引き寄せる。なんで。なんで僕が、こいつらのためにこんなことをしなくちゃならない。お前ら妖怪だろ。ちゃんと自衛しろ。
恨み言をひとしきり呟いてから、狐たちの蔦を解く。霊力を移すには……。
ちょっと待て、口付けするのか? よりにもよってこいつらと? なんか嫌だな。でもそれ以外の方法、知らないんだよな。黒羽曰く、粘膜接触が一番手っ取り早いらしいし。
「……もう、どうでもいいか」
最終的に僕は考えるのをやめた。どうせ本人には分からない。そもそも下手すりゃ死ぬかもなのに、今更キスが何だ。
激しい頭痛と目眩。収まらない耳鳴り。身体のあちこちが錆び付いて軋む。それらを無視し、心も殺して、僕は成すべき事を成す。
因縁の友に霊力を分け与える傍ら、僕の脳内にあったのは高千穂での記憶だった。足を囓られ、川に落ちた後で、黒羽が治療と称してしてくれた口付け。実を言うと、あれは僕のファーストキスだった。恋人以外の相手とこんなことをするのも今日が初めてだったのだが……まったくと言っていいほど、胸は高鳴らない。絢音とのそれなど拷問だし、今だって、自分は何をしているんだろうという自嘲の方が強かった。
何だか黒羽を裏切っているみたいで、すごく心苦しい。全部終わって死ななかったら、事情を話して、ちゃんと謝ろう。非常事態ってことで許してくれるかもしれない。
などと思考を現実から乖離させていると、一人目の処置が終了した。はい次。男。ここまで来るともう何もかもヤケクソで、相手の身体が跳ねるのも気にせず、僕はこれでもかとばかりに霊力を注ぎ込む。
「は、はは……やっぱ、もう、むりだ」
顔を上げた僕の口から、乾きつくした笑い声が漏れた。手足の感覚はいつの間にか消え、自分の身体が死に傾きつつあることを自覚する。
最後に見たのは、無邪気に笑う黒羽の幻影。可愛いな。率直にそう思った直後、僕は意識を失った。




