復活
その違和感は、絢音が神社へ戻ろうとしているときにやって来た。
最初は、食べ過ぎによる胃もたれかと思ったが、時間が経つにつれ酷くなってくる。お腹が妙にタプンタプンしていて、大量の水を飲んだあと全力疾走したような、不快感を伴う気持ち悪さだった。
少し休めば収まるだろうかと、地面に腰を落ち着ける。自分と同じ背丈の人間を呑み込むのは、さすがに無茶だったかもしれない。楓を消化し終えるまで、今しばし辛抱が必要のようだ。
焦ることはない。抵抗勢力が消滅した以上、時間は絢音に味方をする。取り込んだ楓の霊力を以てすれば、この村の人間を全て苗床にするまで、そう手間はかからないだろう。
しかし、眠い。
徹夜で楓とイチャイチャし、加えてお腹が一杯とくれば、眠気を抱くのは当然のことだ。まったく欠伸が止まらない。
どうしよう。今の自分は裸だけど、ここに人なんか来ないだろうし、急ぎの用事も無い。
よし、寝ちゃうか……。
「――――ぎっ!?」
横になった身体が、次の瞬間に跳ね上がった。何かが体内から絢音を殴打し、その腹を山のように膨らませたのである。
「い、今のなに!?」
想定外の出来事に戸惑いを覚えた刹那、間髪入れずに二度目の衝撃が襲ってきた。耐えがたい激痛で上半身は仰け反り、歯を食い縛って堪えようとするも、それが収まる気配は一向に無く。どすり、どすりと連続して腹部が盛り上がる。まるで外に出てこようとしているような……。
「――嘘。まさか!」
最悪の予感が脳裏によぎる。全身を支配するのは、凍り付くような戦慄。それとは対照的に、高熱の塊が喉の奥を駆け上がってくる。思わず息を飲んだ、その直後。絢音の口から“黄金色の”炎が漏れた。
「は、え……?」
自分の見ているものが、信じられない。何だこれは? 何が起きている? 自分はこれからどうなるんだ?
不安という名の問いが脳内で渋滞する。その答えは、すぐに分かることとなった。
「あ……ぎゃあああああぁぁあぁあああ!?」
途端に威力を増した高熱が、絢音の体内を蹂躙し、穴という穴から炎が上がる。
必死に川の中へ戻ろうとするも、焼かれる身体は言うことを聞かず。荒れ狂う痛みの奔流が、彼女の正気を容赦なく削り取っていく。
植物ゆえに、絢音の生命力は破格の域に達していた。だが、あらゆる生き物がそうであるように、彼女もまた不死身ではなかった。鉄壁の要塞が内側からの攻撃には脆いように、頑強な絢音の身体とて体内から攻められればダメージは通る。
ましてやそれが弱点の炎ならば……。
「が、ぐぎっ!? い、嫌だっ! 熱い! 熱い!あついあついあづいぃっ!」
致命傷どころの騒ぎではなかった。
耐えがたい苦痛に心身を蝕まれ、目の端から大粒の涙が零れる。それを無視するように、金色の炎は絢音の全身を破壊し続けた。
自慢の再生力も、物の見事に封じ込められる。手足は動かせず、出来ることと言ったら泣き叫ぶくらい。ああ、死んだ。そんな絶望が絢音の中で芽生えた。
だが、そこで炎は唐突に途切れた。
終わったのか? 一縷の望みを抱きかけた瞬間、ブチリ! という生々しい音がして、絢音の腹が突き破られた。
「あ、ああ……!」
まず始めに出てきたのは、腕だった。右腕と、左腕。作った穴の縁を掴み、力尽くでそれをこじ開ける。そうして出口を十分に広げてから、満を持して、“彼”が姿を現した。
「――言った筈だ。あまり、僕を舐めるな」
熱気で視界がボンヤリと霞む中、鼓膜を揺らすのは低く、静かな声。凄まじいまでの霊力と、それを塗り潰すほどの怒りを全身から放出しながら、一人の青年が立ち上がる。彼の身体は血の紅で彩られ、舞い上がる灰と合わさって、不死鳥のごとき神々しい気配を漂わせていた。
「か、えで……さん……?」
「僕だよ」
「え、あ、でも、でも……!」
恐怖でガタガタと震え出す絢音に、楓が冷え切った視線を浴びせる。その瞳は“両方とも”、稲穂を思わせる美しい黄金色に染まっていた。
何よりも――纏う気迫が違う。
「なんで……なんでぇっ! 嘘だ、こんなの有り得ない! ついさっきまで、あなたはあんなに弱ってた! 炎だって使える筈が」
「使える筈がない? ああ、途中まではそうだったね」
腕の力で這って逃げようとする絢音を、楓は即座に足で押さえ込み、剣呑とした空気に似合わぬ柔らかな微笑みを浮かべた。
「君の毒は確かに厄介だったよ。だけど、弱かろうが強かろうが毒は毒だ。死ななければ、やがて免疫が出来る」
「……まさか、抗体を作ったって言うの? あの何時間かで? そんなこと――」
「出来るさ。現に出来てるじゃないか。人間を辞めて正解だった」
炎が絢音の表皮を炙る。笑顔をスッと無表情に戻して、楓は話し続ける。
「僕が君に抵抗出来なかったのは、毒のせいじゃない。その余裕が無かったんだよ。誰かさんが、僕のことを散々弄んで、霊力を吸い上げてくれたからね……!」
無防備となった絢音を、楓が蹴り上げる。体組織が嫌と言うほど抉り取られ、絢音の身体は数メートル吹っ飛ばされた。
「う、ああ……お、お願い。待って……!」
「待つと思うか? 自分が何したか考えてみろ! お前は……お前は!」
立ち上がることも出来ないまま、絢音が後退る。楓は拳を握り締め、静かに距離を詰めていく。燃えるような殺意を肌で感じ、逃げられないと悟った絢音がキッと顔を上げた。
己の死を目前に控えたとき、絢音の心にあったのは恐怖でも諦めでもなく、死んでたまるかという強靱な闘争心だったのだ。
「は、はは……こんなの認めない。絶対に認めるかぁっ! あと少しでアタシは勝てるんだ。たくさんの人を苗床にして、たくさん子どもたちを作るんだ! だから、こんなところで……!」
満身創痍の己を叱咤し、絢音が立ち上がった。最後の力を振り絞り、細胞を急速に増殖させる。
「――負けるわけにはっ! いかないんだよぉおおっ!」
引き裂かれた腹から無数の蔦が発生し、一斉に楓へと襲いかかった。以前の彼なら押し潰せていた筈の物量。だが……。
「黙れよ」
今の楓には効かなかった。炎を纏った足を振るう。殺到した蔦の集団が、一撃で蹴散らされた。
「そん、な……」
敵わない。そう悟る。
力を使い果たした絢音が立て膝になって座り込むと、楓は無言で彼女に近付き、突き飛ばすようにして地面に押し倒した。
恋人同士でするような格好に目を白黒させる。抱き締めてキスして。そんな願いが芽生えてしまうが、もちろん叶うわけもなく。絢音の動揺を無視して、楓はそのまま絢音の胸に手を当てた。
「いいこと教えてあげようか」
「ふぇ、あ、なに……!?」
「男ってね。好きな娘のためなら、夜叉にも勇者にもなれるんだよ」
そう言うと、楓は何の躊躇いもなく、その手で絢音の心臓がある位置を貫いた。
「ひ、ぎいぃ! 痛いっ!」
「痛い? はっ、笑わせるな。お前は僕にもっと酷いことしただろ」
「やめ、て……ゆるして」
「もう遅い。何を言っても聞かない。僕は君を殺す。焼き殺してやる」
「ぎ、あ……いやああああああああ!?」
流し込まれる業火で全身を犯される中、絢音は自らの敗北を悟る。
自分が執拗に追い求めた男は、開けてはならないパンドラの箱だった。なのに自分は宝箱だと信じて、そこに秘められた途方もない力を、最悪の形で覚醒めさせてしまったのだ。
気付いた時にはもう、手遅れだった。
※
二度と同じ間違いはしない。
その決意の元に、僕は絢音が再生出来なくなるまで延々と炎を浴びせ続けた。絢音は最初、悲鳴を上げて僕から逃れようとしていたが、すぐに無理だと分かったらしく、観念したように目を閉じて苦痛を受け入れた。
女性をいたぶる趣味は無い。このまま速やかに逝かせてやろう。そう思い炎の威力を上げる。
しかし絢音の生命力は、僕の、そしておそらく本人の想像をも超えていた。
「……なんで、死なないんだよ」
胴体が炭になり、手足は灰と消え。首だけになってなお、彼女はまだ息があった。瞳孔は開き、再生力も失われ。座して死を待つような状態ではあるがそれでも、絢音の身体は最後まで命を繋ごうと足掻いていたのだ。その姿は必死を通り越して哀れだったけれど、絢音に抗い続けた自分とどこか重なるところがあって、僕は気付けば攻撃を中断していた。
「……あれ。どしたの。殺さないの」
数時間前の狂乱が嘘のように弱々しく、絢音が問い掛ける。僕はそれに沈黙を以て返した。
わざわざ手を下すまでもない。放っておけばこいつは死ぬだろう。だが、万一ということもある。ここでトドメを差す方が確実だ。
「殺して欲しいのか?」
「どうせ死ぬなら、好きな人に殺されたいな」
絢音がくしゃっと顔を歪める。死の間際だというのに、どうして穏やかな表情でいられるのか。考えても分からなかった。
「ねぇ……お願い。早く……して。苦しいよ」
「お前は……」
「早く殺して……殺して殺して殺してっ! 時間に任せないで。あなたの手で終わらせてよっ! アタシが、まだ、生きてられる内に……!」
ヒューヒューと苦しげな息を交え、潤んだ声でそう懇願する。……仕方ない。僕がその口に左手を差し込むと、絢音は本当に嬉しそうな様子で、ススまみれの頬を鮮やかな桜色に染めた。
「ありがと、楓さん。……好き」
覚悟を決めたのか、絢音が瞬きをする。瞳に満杯の涙を湛え、熱い視線で僕を見詰め続けるその姿は……紛れもなく、恋する乙女のそれだった。あんなことさえなかったら、僕は彼女を可愛いと思っていただろう。
霊力を左手に集中させる。無心で。無心で。何度も自分に言い聞かせながら、僕はそこで、一度だけ深呼吸を挟んだ。
殺す準備だけが整って、けれどなかなか先に進めない。
何してる? ……落ち着け、別に難しいことじゃないんだ。これまで通り炎を出せばいい。それでこいつは死に、長かった戦いもようやく終わる。黒羽のところに帰れるんだ。なのに――。
なのにどうして、僕は躊躇っている?
命を奪いたくない、だなんて。この後に及んで言うつもりか? こいつがしたことを考えてみろ。僕はこいつに……言うのが憚られるくらい、色々されたんだ。大義名分はあるだろう?
それとも何だ、こいつが人の姿をしてるせいか? だから殺すのに抵抗があると? そんな甘っちょろい思考回路だから、僕はこいつに……。
『これから先、より強く、より残虐な敵に出会ったとき、その優しさは欠点になります。治さないと身を滅ぼしますよ』
木崎の言葉を脳内で反復し、僕は必死に、芽生えかけた葛藤を振りほどこうとする。
せめて。
せめて今、こいつの視線に少しでも敵意が込められていたら――。
「……もう。仕方ないなぁ、楓さんは」
僕の逡巡を感じ取ったのだろう。呆れ半分、愛しさ半分。そんな表情で絢音は溜息を吐き……直後。僕の左手に猛烈な痛みが走った。
「ぎっ!?」
いきなり僕の手に噛みついた絢音は、凄まじい力で歯をギリギリと食い込ませてくる。慌ててもう一方の手で絢音を掴み、引き剥がそうとするが、彼女も本気だった。皮膚が破れ、肉がこじ開けられ、そのまま食い千切られるのではという予感がよぎる。僕はやむなく最終手段に出た。
「くそっ……燃えろ!」
絢音の頭が炎に包まれる。それを待っていたように、彼女はすぐ口を開け、燃え上がる火球となって地面に落下した。
「……良かった。良かったね。これで……殺せたでしょ。あは、あはははは……」
自暴自棄じみた笑い声を上げ朽ち果てていく絢音は、企みを挫かれたにもかかわらず清々しげだった。きっと満足しているのだろう。というのも、彼女は僕に負けたけど、それ以上に僕を極限まで追い詰めた。あそこまで心が壊れそうになったのは初めてで、彼女の存在は僕の中に永久に刻み込まれた。どれだけの月日が流れても、決して忘れられないと思う……悪い意味で。
好きな人に覚えてもらえるとか最高じゃん! と絢音なら言いそうだ。
燃える物が無くなったのか、火の勢いが弱くなり、そのまま風に煽られて消えた。後に残ったのは、灰の山。足で蹴散らすよりも早く、早朝の空気に乗ってサラサラと舞い上がる。無数の粒子が朝焼けを反射して煌めく様は、まるで世界がラメ色にコーティングされていくようで……あいつの性格には絶対に合わない、神秘的な美しさがあった。
「……そうだ。急がないと」
しばし呆けて、僕はハッと我に返る。重大な使命がまだ残っていた。早く黒羽を迎えに行こう。
最大の難所は突破できた。ヤドリギを取り除く方法も、これじゃないかというのを考えてある。時間……ギリギリ間に合うだろう。あとは……。
僕の命が、最後まで保ってくれればいいが。




