記憶の中で
黒羽と出会ったあの日以降、痛い目には沢山あってきたように思う。
足の肉を囓られたり。
崖の上から川に落ちたり。
逆さ吊りのままサンドバッグにされたり。
神の力を引き継ぐときの拒絶反応。あれは本当に辛かった。
黒羽との特訓で怪我をしたのも、一度や二度ではなく。
泣沢村に来てからは、絢音を庇って腕の骨を折られたり、マヤによって暴走を強いられたり。どれも決して楽しい記憶ではないものの、おかげで痛みには慣れたつもりだった。
……今日、この夜までは。
これまでの出来事が、こそばゆく感じるほどに過酷な試練を、絢音は僕に連続して課した。
皮を剥がされた。
「ん、あっ……ひぎ!? が、ぐ、ああああぁ!?」
「安心して。半神の身体は強いから、すぐに再生するよ。つまり一回じゃ終わんないって意味ね」
仰向けで手足を縛られたまま、上半身の皮膚に爪で切り込みを入れられ。そこを基点に、僕が悲鳴を上げるのも気にせず、ゆっくりゆっくり。剥ぎ取った皮を、絢音は僕の目の前で見せびらかしてから、あろうことか口に含んだ。咀嚼し、堪能し、ゴクンと飲み込んだ時の恍惚とした表情を、僕は一生忘れられないと思う。
「胃カメラってあるじゃん? 絶対に気持ち悪いよねー。あんな太いもん喉の奥に入れられるんだからさ。……ところで今どんな気分?」
細く引き延ばした蔦を、体内に差し込まれた。喉を越え、食道を通過し、胃の中を好き放題まさぐられた。全身の筋肉が硬直し、まともに動けない僕の耳元で、絢音が嘆願する。
「ねぇお願い。アタシのものになって」
必死に首を横に振れば、絢音は「ああん?」と鼻を鳴らしてから。
「ゴメン。暗くて楓さんの様子がよく分かんないの。もう一度、今度はちゃんと声にして、答えてくれる?」
「が……黒、羽……」
「えぇ何て? 聞こえないよ。もっと大きく、ハッキリと言ってくれないかなぁぁあ!?」
思い切り蔦を引き抜かれる。跳ね上がる僕の身体を見て、絢音は楽しげに嗤っていた。
そこから暫く、回復のための“休息”を挟んだ後。あらゆる急所を責められた。
絢音曰く、人体の弱点は中心線に沿って分布しているという。目、眉間、鼻、顎、首、鳩尾……。
「ほら、さっさと鳴きな。“絢音ちゃんの彼氏になります”って。鳴いて。鳴いてよ。おい、鳴け!」
「あああああっ!?」
……しいては、公言するのが憚られるようなところまで。執拗に蹴られ、殴られ、抉られて。悲鳴を上げるのも許されないほどの痛みを延々と味わされ続けた。
僕から抵抗の意思を奪い、けれど絶対に殺しはせず。巧妙な加減の下で僕を嬲る。本来なら強みである半神の再生力が、絢音に拷問を加速させる口実を与えていた。
「んんっ……最高! 最高だよ楓さん! もっと色んな声を聞かせて。もっとアタシに抗って! 黒羽さんのことは忘れて……アタシだけを見て」
地獄の営みは留まるところを知らず。意識を飛ばした先で恋人の幻覚に会うも、更なる苦痛で覚醒を強制される。逃げ場は元より打開策を考える暇さえ与えられぬまま、骨を砕かれ、耳を犯され、爪を剥がされた。
そうやって、手を替え品を替え様々な形で、僕は絢音に弄ばれ続け……。
※
「……ああ、早いな。もうこんな時間か」
仄かに明るむ空を見て、宮野絢音は落胆に肩を落とした。
「朝まで続けるつったけど、まさか本当に耐え抜くなんてね。結構アタシも本気出したのに、ざーんねん。だけどまあ……嬉しくもあるかな。ここでアタシに靡くような人なら、アタシはあなたを好きになってない筈だから」
切なげに吐き出した息が、冷たい空気に晒されて白む。腕に付いていた返り血を舐め取って、絢音は大きなのびをした。その隣では、一晩中虐め尽くされた楓が、赤子のように身体を丸めて、横たわっている。
自分がしておいて言うのも何だが、酷い有様だった。服は脱がされ、全身をくまなく玩具にされて。いたるところに歯形とキスマークが付けられた彼は……死んでいるように見えて、まだ生きていた。現にこうして頬を撫でれば、ほら。ビクンと肩を震わせた後で、ゆっくりと彼の瞼が開き、黄金色の隻眼を拝むことが出来る。その奥に灯った闘志の炎は、弱くなったがまだ消えていない。凄まじい精神の強さだ。
「あ、や……ね……!」
「よく頑張ったね、楓さん。アタシの負け。お手上げだよ」
是が非でも彼が欲しい。その一心で、絢音は色んなことをした。苦しいやつから甘いやつ、挙げ句の果てには淫らなやつまで、思い付く限りのあらゆる手段で楓を陥落させにかかった。だが、どんな苦痛を与えても、どんな快楽に沈めても、彼の心は最後まで黒羽に向いていた。裏切られる痛みを知っているからこそ、彼は最後まで恋人を裏切らなかったのだ。
自分の力じゃ彼の意思を崩せない。否応なしにそう悟らされた。
だから――。
「……おわりにしよっか。ねぇ?」
耳元に口を寄せて囁く。その瞬間、楓の瞳が恐怖で見開かれた。
おわりにする。それは決して、お前を見逃すという意味ではなく……。
「いっ!? ……っく、があ……」
何をされるか勘付いたのだろう。地面に手を付き、楓が立ち上がろうとする。
だが、その試みは挫かれる。絢音が楓を上から抱き締め、全体重をかけてのしかかった。楓はしばらく腕を震わせた後で、「あうっ」と耐えきれなくなったように地面へと突っ伏す。女性一人を押し退ける力さえ、今の彼には残されていなかった。
「……怖がらなくても大丈夫。バラバラにしたりはしないよ。だからほら、リラックスして。ゆっくりと、身体の力を抜くの。はい、息を吸う。吐く。吸う。吐く――」
緊張を少しでも和らげてあげようと、楓の身体をまさぐり、筋肉を揉みほぐしていく絢音。“二人で”過ごす最後の一時を、存分に堪能する。
自分が何をしようとも、楓の心は手に入らない。かといってこのまま諦めるのも論外だ。もつれにもつれた恋愛劇に、決着をつける方法はただ一つ。
食べるしか、ない。
「丸呑みにしちゃうね。楓さんの全てを、余すことなーく取り込んであげる。そしたらアタシたち、本当の意味で、一緒になれるよね」
「……やめ、ろ」
か細く、震える声で絞り出した嘆願が、絢音に聞き入れられることはない。当然だ。この場において、主導権は百パーセント絢音にある。楓じゃない。楓はもはや何も出来ない。
「じっと、しててね……!」
「やめろ……! やめ……」
引き攣る悲鳴に胸をゾクゾクさせながら、絢音が上半身を逸らせる。今のままでは口が小さく、彼の身体を呑み込むことが出来ない。だから少しだけ変態するのだ。怖がられるかもしれないが、なーに今更である。
バキリ、メキ、ビシリ。木の枝が折れるような音が連続して響き、頬から耳にかけて裂け目が走る。そこから、まるで花が咲くように、絢音の顔が開き始めた。
露わになった内側は、植物質の組織でビッシリと覆われている。喉があった場所には黒い穴が空き、その奥から、触手のように蠢く無数の蔦が、獲物を求めて這い出してくる。
怪物と呼ぶに相応しい、異形の姿。楓の瞳に分かりやすく絶望が浮かんだ。
「おまえ、それ……!」
「驚いた? 植物だから、身体の形にはある程度融通が利くんだよねー」
得意げに応えてから、絢音は何の躊躇いもなく、大きくなった口を楓の頭部に重ねた。
「お、おい、何を……ひっ!? あ、う、あああ!」
草食動物として生きたことがないから、食べられる側の気持ちはよく分からない。きっと物凄く怖いのだろう。楓が必死に首を振り、捕食から逃れようとしているのを感じる。だがそれは、この上なく無意味な抵抗だ。
身体を起こす。楓を持ち上げ、縦に。重力の力を借りて少しずつ嚥下していく。
「むぐぅっ! ん……く、ぐぁ……が……!」
「……動いたらダメ。落ちちゃう。じっとしないと、折り畳むよ」
肩が入り、胸が入り、腕まで入ったところで一旦休憩。大の男を呑み込むのはさすがに苦しい……が、一方で至福の一時でもあった。
楓の身体を間近で見れる。しなやかな筋肉が緊張で強張っていた。
楓の声をすぐ傍で聞ける。苦しげに喘ぐ声。可能なら録音したかったな。
直に触れる。密着した箇所から、彼の体温が、鼓動が伝わってくる。
匂いを堪能出来る。無臭に近いが、ハッキリ男の子のそれと分かる匂い。
楓を味わう。霊力はもとより、彼の汗や血液まで。全身に染み渡っていくようだ。
ああ……凄すぎる。こんな快感、知らない。麻薬だ。反則だ。魔性だ。蠱惑的で魅力的で非日常だ! 五感の全てを好きな人で満たす、これよりも素晴らしい時間が他にあるだろうか!? 楓が足をバタつかせているが、特に支障は無い。
数秒をかけて腰まで呑んだ。ここまで来ればあとは楽なもの。やがて楓の抵抗もなくなり、ただビクビクと痙攣するばかりになった彼は、滑り落ちるようにして絢音の体内へ消えていく。
そうして初恋の青年を取り込み終えた絢音は……口を閉じた。
「はい。ごちそうさま」
手を合わせ、食後の挨拶を済ませる。絢音の心は満足感に満ちていた。
口元が綻ぶのを抑えきれない。膨らんだ腹を見下ろし、愛しげに撫で回す。
「望む形とは違うけど。これで一緒にいられるね、楓さん」
健やかなるときも病めるときも。死が二人を分かつまで、うんぬん。誓いの言葉を口ずさむ。楓と自分は、晴れて永遠に一つとなった。
そう……永遠に。
なんて良い響きだろうか。
※
『私は黒羽。出雲楓、汝の命を守りに来た』
暗闇の中、聞き覚えのある台詞がどこからか響く。
目を開けてみれば、僕は大学のベンチに座っていた。隣には、見目麗しい黒髪の美人がいて、僕に向けて何やら語りかけている。よく聞き取れないので顔を近付けた。次の瞬間、周囲の風景が瞬く間に一変する。
そこは洞窟のようだった。黒髪の女性と僕は壁際の段差に座って、一緒に何かを食べている。
『うん、美味い! やっぱりクルミは最高だな』
『食感がいいよね、ポリポリしてて』
『同感だ。ところで楓、喉は渇いてないか? 沢の水。汝が眠っている間に、上流の方で汲んでおいた』
随分と気の効く女性だ。受け取った竹筒を傾け、僕は水を飲む。そこでまた、世界が変わる。
今度の僕は岩場に立っていた。目の前には、さっきと同じ女性がこちらに背を向けて座っている。風に揺られて靡く黒髪に、僕は自分がこの人に恋をしていて、これから告白するつもりだったことを思い出す。
……思い出す?
じゃあ結果は……どうなったんだ?
記憶にかかる真っ白な靄の存在に気付いた時、また場面が移った。
見えるのは、森の中で手を繋いで歩く、僕と女性の姿。良い感じの雰囲気ってことは、きっと上手くいったんだろう。女性の方はすごく疲れてるみたいだ。何かあったのかな?
僕が不思議に思ったところで、堰を切ったように情報の波が押し寄せてきた。
寄り添って眠る二人の姿。とっても幸せそうに見える。
一緒に服を選ぶ、二人の姿。僕の方から誘ったんだっけ?
今夜は何を作ってやろうかと、ワクワクしながら買い物をする僕の姿。確か料理は僕の役目だった気がする。
卵を割れずに握り潰し、途方に暮れる女性の姿。……そういえば、そんなこともあったな。
トレーニングに励む僕と、それを監督する女性の姿。僕が頼んだ側ってのもあるけど、彼女の指導は本当にスパルタで……。
夜、布団の中で愛し合う姿。どっちが優勢かは日によってまちまちだ。
目の前に、様々な画像が現れては消える。よく分からないけど、この男は本当に羨ましいやつだ。……あれ? ああそうか、こいつは僕か。
僕だよな。
うん、その筈だ。まったく、自分が誰かで迷うなんて。痴呆症になるにはまだ早いぞ?
『改めまして、こんにちは。アタシの名前は宮野絢音。蛇神様の友達で、多分お兄さんたちの味方だよ』
そんなことを考えていたらまた新しい人が出てきた。男っぽい出で立ちをした、快活な女の子。同姓からモテそうな印象だ。
場所は、誰かの家の応接間。男が二人、女が三人。コーヒーを飲みながら、真剣そうな顔で何かを話し合っている。……いや、待て。この女だけ緑茶を飲んでるじゃないか! 可愛い顔して、中身は絶対に捻くれ者だ。
しばらくすると、鉄パイプを持った男が部屋に侵入してきた。どうやら男は、さっきの少女を狙っているらしい。彼女を守るため、近くにいた青年が咄嗟に割って入る。
身体を張って庇ってくれたその姿に、アタシの胸はドキドキと高鳴った。
……あれ。
僕って、“アタシ”だったっけ。
僕?
アタシ?
どっちだ……?
……。
……“アタシ”か。
そうだよな。だってアタシは宮野絢音だもんな。考えてみれば当たり前だ。馬鹿らし。
『何があっても、君に手出しはさせないよ』
『事が終わるまで君を守るって意味』
この言葉はよく覚えてる。やっぱこれ、ズルいよね。ただでさえ素敵な霊力を持ってて、顔も性格もアタシの好みなのにさ。真っ正面からこんなこと言われてみ? 心臓がズッキュンズッキュンして、その人のことしか考えられなくなっちゃうってば。
『死なないで』
『大丈夫。負けないよ』
蛇神との戦いに赴く前のやり取り。エックスのことは伝えられなかったけど、彼ならきっと勝つだろうって思ってた。というか、勝ってくれなきゃ困る。アタシにとってエックスが邪魔だったのもそうだけど、一番の目的は…………だもの。
だから、その日の夕方になって、彼を迎えに行くときは緊張したなぁ。
いつバラそうかな? って思ってたんだけど、意外とすぐにバレちゃった。ま、あの時点で計画はほぼ完遂されてたから、問題なかったんだけどね。
勝ち目は薄いって分かってた筈なのに、それでも彼は立ち向かってきてさ……。
『キツいなら降参すれば?』
『……誰が。絶対に嫌だね!』
そーんなこと言われたら、こっちだって是が非でも屈服させたくなっちゃうわけで。
『戦うって決めたのそっちなんだから、痛いことされる覚悟も出来てるよね』
アタシとしては、ちょっとした調教のつもりだった。それなのに……何なの、あの苦悶の表情。正直言ってめーっちゃくちゃゾクゾクしたよ! 思い返してみれば、あそこでアタシ、スイッチが入ったんだろうな。苦しみながら抗う彼の姿を、もっともーっと見てみたいって欲が湧いてきちゃったんだから。
だけどそこで、横やりが入った。
『私の男に手を出すな!』
あんの烏女。迷惑ったらありゃしないよ。アタシもその時イライラしてたから、感情に任せて酷いことしちゃった。でもまあ、仕方ないよね。警告はしたし。そもそも向こうが邪魔してくるのが悪い――。
……うん?
邪魔、だって? 誰が? 烏女。なんで邪魔? 妨害してきたから。立ちはだかってきたから。なるほど。なら、どうして彼女は邪魔をした? 誰かを守るため。恋人を守るため。しつこかった。面倒くさかった。だから骨を折って、ボコボコにしてやった。説明完了。
……ちょっと待て。それは変じゃないか?
変じゃない。至って当然だ。
おかしい。
おかしくない。
間違ってる。
正しいよ。
アタシは誰だ?
宮野絢音でしょ。
本当にそうか?
どうして疑うの。
何かを忘れてる。
そんなことないって。
相反する思考が脳内で激突する。おかしい。おかしくない。おかしい。おかしくない。おかしくない。おかしくない。おかしくない……。
『――汝は、私が守ってみせる』
……いや、やっぱりおかしい。絶対におかしい! だって彼女は。
黒羽は――、僕の恋人の筈だ!
気付いた瞬間、世界が光に包まれた。




