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比翼の烏  作者: どくだみ
2-4:芽生えし侵略者
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絶望へのカウントダウン

 ブチリと布地の裂ける音。若草色をした蔦が、シャツを突き破って生えてくる。その数は四。一本一本が注連縄のような太さを持ち、僕を狙ってウネウネと蠢いていた。

 それだけではない。繊維状の蔦が幾重にも網合わさり、絢音の全身を覆っていく。さっきのが武器なら、こっちは鎧。さしづめ戦闘用のスーツといったところだろう。表面に葉っぱが付いていることを除けば、個性的な色合いのタイツに見えなくもない。

 かくして絢音は異形への変態を遂げた。身体の輪郭と頭部だけが、何とか人間の形を保っている。僕の胸は否応なくざわついた。


「……それが本当の姿か」

「イグザァクトリー! キュートでチャームでセクシーな、魔法少女絢音ちゃんだよー」

「寝言は寝てからにしろ」

「女の子に向かって酷いなぁ。この衣装、動きやすくてお気に入りなのに」


 そう言って絢音は自分の太股を上から下へ撫で降ろしてみせる。引き締まった体躯が艶めかしく強調されるが、僕の心にそれをどうこう思う余裕はなかった。

 彼女の言葉と見た目から察するに、あのスーツの役目は衝撃の吸収。生半可な打撃ではダメージが通らないだろう。防刃性や防弾性もありそうだが、鉤爪も銃もない僕には無関係な話だ。

 準備運動のつもりか、絢音が数回その場でジャンプする。続いて屈伸、のび(・・)、後屈。誘うような動作に僕が仕掛けあぐねていると、不意に彼女は腕を振り下ろした。

 慌てて横へ飛び退けば、耳の横を蔦が掠めていく。矢のような速度だった。


「油断しないで。まだあるよ」


 今度は三本。咄嗟の判断で胴体を捻り、足の間と脇の下、腰の横を通す。手強い。だが対応出来なくはない。これなら……。


「――うわっ!?」


 体勢を整えて反撃しようとしたとき、不意に身体が引き寄せられる。見れば、左手首に、一本目の蔦が巻き付いていた。


「ほい、ゲット」

「くっ……」


 足を踏ん張って何とか堪える。絢音の馬力が予想以上に強い。少しでも気を抜けば、力負けして引き摺られてしまいそうだ。

 綱引きのような駆け引きの中、僕の頭はめまぐるしく回転する。面倒なことになったな。引くか。それとも千切るか? ……いや、これはむしろチャンスだ。相手の力を利用して、一気に距離を詰める!


「――ハッ!」

「ふぅ! そう来るか」


 僕が放った肉薄しての回し蹴りを、絢音は紙一重で頭を反らして避ける。惜しかった。あと一歩踏み込めていれば……!


「やるじゃん。だけどちょっぴし迂闊だったね。この姿のアタシに接近戦を挑むなんて」


 絢音が邪悪な微笑みを浮かべる。次の瞬間、さっき(かわ)した蔦が急速に巻き戻ってきた。対処するだけの時間はなく、僕の手足が瞬く間に絡め取られる。


「捕まえた」

「なっ……。おい、放せ!」

「えぇ? イ・ヤ。悪いけど、キャッチアンドリリースは釣りだけの世界だから」

「訳の分からんことをっ……!」


 必死に拘束から逃れようとするが、頑強な蔦はそれを許してくれない。無意味に藻掻き続ける僕の鼻を、絢音が指先で嘲るように小突く。


「戦うって決めたのそっちなんだから、痛いことされる覚悟も出来てるよね」


 パチン、と絢音が指を鳴らした。身体が持ち上げられる。何する気だ、と質す間もなく、そのまま絢音は磔の要領で、僕の手足を四方に引き延ばし始めた。


「あ……ぐ、あああぁああぁあ!?」


 骨と筋肉が嫌な音を立てて軋み、僕は耐えきれず悲鳴を上げる。構造的に抗おうとする身体と、それをねじ伏せるかのように加えられる外向きの力がせめぎ合って、気付けば目の端に涙が滲んでいた。

 腕が、足が、もがれるっ……!


「ねぇ、知ってる? アタシたちヤドリギは、他人の霊力を吸い取って生きる存在。幼体は言わずもがな、自立出来る成体になっても他人様の霊力が欲しくなるときはあるの。質の良い霊力を持つ楓さんなんか、最高級のご馳走だよね。こうして触るだけでドキドキしちゃう。……ねぇ、アタシのものになろ? そりゃまあ、黒羽さんが苗床になるのは辛いかもしれないけどさ。あの人以上に楓さんを愛せる自信あるよ? どう?」

「い……やだ……! ――ひっ!?」

「ふっふふ。そういう一途なとこも推せるよね」


 絢音の手が伸びてくる。引き攣った僕の腕を撫で、そのまま頬まで這い上がっていく。愛しさの込められた仕草。それに対して僕が覚えたのは、喜びではなく最大級の恐怖だった。


「ああ……駄目だなアタシ。我慢出来ない。食べちゃおうか」


 グイッと顔を寄せてくる。何をされるかと戸惑ったのも数秒。直後、僕の唇が絢音に奪われた。


「むぐっ!?」


 蠱惑的な感触で脳内に電流が走って、思考は完全にショートする。目の前で、ほぼゼロに等しい近さで、絢音の瞳が冷たい光を帯びた。僕の頭を両手で固定し、貪るように口付けを続行する。いや、それだけじゃない。何だこれっ……!? 力が、吸い上げられて(・・・・・・・)――。


「……ぷっ……はぁ。うん、良き。美味。でも、まだまだ、足りないな」


 ようやく解放したかと思えば、またすぐに再開する。絢音の喉がなまめかしく脈打つ。場合によっては、強引な女性と気の弱い男が愛を確かめ合っているように見えたかも知れないが、実際は一方的な捕食に近かった。四肢が引き裂かれそうになる苦痛で陵辱される傍ら、僕は自分の霊力が彼女に吸い取られるのを感じていた。

 痛み、快楽、脱力感のトリプルパンチ。打開策を考えようにも、その余裕さえ消し去るほどに過酷な責め苦。やがて手足が痙攣を始め、僕は己の死を覚悟する。

 その時だ。


「私の男に手を出すな!」


 夕闇を切り裂く凜とした声。絢音がわずかに息を飲む。その隙を突いて、黒い疾風が戦場に飛び込んできた。


「痛むぞ。構えろ」


 閃光一閃。僕を拘束していた蔦が、鉤爪の一撃によって切断される。現れた人影はそのまま身体を反転させ、僕を抱き留めながら絢音に回し蹴りを加えた。

 吹っ飛ばされた絢音が宙を舞う。そのまま地面に激突……とまではいかず。バク転の要領で体勢を整え、鮮やかに着地を決めてみせる。

 僕を庇うように立ちはだかった黒羽に対し、絢音はスッと目を細め、舌舐めずりをした。


「おはよう黒羽さん。早起きだね」

「……その姿。貴様も敵か。しかもあいつの仲間だな」

「仲間だなんて言わないで欲しいなー。同属だけど、アタシとあいつは敵同士だったよ」


 こちらに歩いてこようとする。黒羽が半身になって構えた。すると絢音は腰に手を当て、面倒そうに溜息を吐く。


「邪魔なんだけど。退いてくれない?」

「悪いが通すわけにはいかない。通行止めだ」

「残念。だったら押し通ろうか」


 虚空に火花が散る。互いに表向きは冷静だが、その実どちらも抜かりなく、仕掛けるタイミングを窺っているようだった。


「……なるほど、理解したぞ。成り立てとはいえ楓は半神。霊力を吸って生きる連中からすれば、それはもう魅力的に見えるわけだ。羽虫が灯りに引き寄せられるのと同じだな」

「アタシが虫だって言いたいの?」

「楓に近付く悪い虫だろう。……ああ違う、これじゃ虫たちに失礼か。じゃああれだ。ゴミだな」

「……思ったより口が悪いんだね」

「泥棒猫に払う礼儀は無い。今すぐこの場から立ち去れ。さもなくば殺す」


 そう吐き捨ててから、黒羽は拳を握り締める。僕が痛め付けられるのを見たのだろう。恋人でなくとも分かる程に、彼女は怒り狂っていた。

 でも、駄目だ。一人で戦わせる訳にはいかない。

 無理して立ち上がろうとした僕を、黒羽は静かに手で制した。


「そこにいろ。ここは私が――」

「私がどうするっていうのかな? 好きな男を身体張って守る? でもってアタシをぶっ殺す? 止めといた方がいいと思うな。アタシ結構、強いもん。多分、黒羽さんよりもずっと」

「……試してみるか?」


 挑発気味に返す黒羽に対し、「上等」と絢音が鼻を鳴らす。切り落とされた蔦は既に再生していた。


「全力で来なよ。タイマンだろうが二対一だろうが、まとめてボコボコにしてあげる!」


 女たちが一触即発の状況にある一方、僕の心に浮かんでいたのは、黒羽が殺されることへの恐怖だった。

 確かに黒羽は強い。スピードなら誰にも負けないし、格闘術の心得だってある。だがそれでも……直感的に分かってしまう。絢音を倒すには力不足だ、と。

 絢音が纏う植物のスーツは、おそらく耐物理攻撃用。格闘メインの黒羽と絶望的に相性が悪い。いくら彼女が体術に長けていても、一人だけでは……。


「随分、自信満々ですね。なら四対一にしましょうか」


 逃げろ、と黒羽に叫ぼうとしたところで、かつて僕らに絶望を与えた女性の声がした。

 直後、茂みの中から青白い火球が放たれ、呆気に取られる絢音に向かっていく。絢音はすんでのところで身を翻すと、攻撃を受けた方角に向き直り、憎たらしげに舌打ちをキメた。


「……面倒な人が来ちゃったな」

「あら、失礼なこと言ってくれますね。わたしはとっても会いたかったのに」


 柔らかく、繊細な響き。わざとらしい抑揚。以前は恐ろしかった筈が、今では不思議と頼もしく。


「ずっと、ずうっと追いかけてきたんですよ? 蛇神様の友達だから、せめて命は守ってやろう。捕まえて一緒に逃げだそう。そうするつもりでした。なのにこれはどういうことです? なーんでこんなに殺伐としてるんです? わたしたち一応、仲間なんでしょう?」


 木々の枝葉をかき分けて、二つの人影が姿を見せる。一人は精悍な顔立ちの青年。もう一人はスラリとした細身の少女。いつかの敵で、今は味方となった二人。


「“ゆっくり”お話しましょうかぁ、小さなマリア様。いえ……」


 スウッと、少女が腕を持ち上げる。貼り付けたような満面の笑顔と、これっぽっちも笑ってない目が、実に彼女らしかった。


「“裏切り者のユダ”。そう呼んだ方が良さそうですね。――絢音ちゃん」

「誰かと思えば木崎さんじゃん。こんなところで何してんの?」

「そっちこそ何してるんですか? 背中に……蔦? 変なイチモツまで引っ付けて。個性を出すのは素敵ですけど、いささか物騒が過ぎますよ」

「物騒なのはお互い様じゃない? いきなり火の玉ぶん投げてきたくせに」

「必要かなと思ったので」

「わぉ、怖い」


 絢音の蔦が木崎に向く。対する木崎は腕を上下に広げ、回転させるようにして左右の位置を入れ替えた。指の軌跡が光点となって煌めき、青白い炎が空中にポツポツと生じる。


「植物なら火は苦手でしょう? 灰にしてあげますよ、“身中の虫”さん」

「言ってくれるね。ところで屈服させられる(・・・・・)のは好き? ずる賢い狐さん」


 彼女たちが対峙している間に、結城は僕のところへ駆け寄ってきた。


「ズタボロじゃねぇか。何してんだお前」


 満身創痍の僕を見下ろし、嘲笑うように口元を歪める。流石の僕もムッとした。


「……あからさまに嬉しそうな顔すんな。色々あったんだよ」


 ヤドリギの化け物とか、絢音に霊力吸われたりとか。要するに死にかけた。というか、君なら多分死んでるぞ? 怪我人は気遣えって学校で習いませんでしたか?


「おーおー正直で悪かったな。おら、ボサッとしてる暇があんなら立て」


 服の襟を掴んで引っ張り上げようとする。僕も必死に立ち上がろうとしたが、足がガクガクと震えて、力が入らない。そのままバランスを崩して、尻餅をついた。


「……っ、ごめん。立てない」

「ああ? ったく、だらしねぇな」


 舌打ちして僕を突き飛ばす。おい。そこは支えてくれる流れじゃないのか。


「おい木崎―! こっちは一名戦闘不能だ」

「分かりました。三人でも問題は無いでしょう。結城くん、準備を」


 合図に合わせ、狐たちが素早く散らばる。結城と木崎、黒羽の三人で三角形を作り、絢音を包囲する陣形だ。

 結城が黒羽を見て、訊いた。


「やっちまっていいんだろ?」

「ああ。ただし私も混ざるぞ」

「殺意高えな」

「楓に手を出されたからな。遠慮は無しだ。潰す」

「……ふふ。怒ってますねぇ。ぶち切れですねぇ。まあ何にせよ、これでこいつが敵ということは確実になりました」


 ドスの効いた声で宣戦布告する黒羽に、木崎が肩を揺らして笑う。そのまま彼女は鉤爪を展開すると、腰を落として、飛び掛かる準備を整えた。


「話すにもまずは無力化から。取り敢えず手足をもぎますか。覚悟なさい、クソガキ」


 示し合わせたように全員が戦闘態勢をとる。僕一人では絢音に勝てなかったけど、三人がかりなら。

 これだけの戦力が揃っているんだ。いくら絢音が強かろうと、流石に……。


「――甘いなぁ。こうなることをアタシが考えてないとでも思う?」


 勝機を抱きかけた刹那、絢音が右手を天に向けて掲げた。そして……。


さあ発芽せよ(・・・・・・)、アタシの子どもたち!」


 叫んだ瞬間、黒羽たちが一斉に地面へと突っ伏す。

 何が起きたのか当人も分からない様子で、皆、胸や腹部を押さえ、額から脂汗を流して苦しみ始める。

 木崎の顔には珍しく恐怖の色が浮かび。

 結城は歯を食い縛って絢音を睨み。

 黒羽はその場に跪いたまま、ひたすら嘔吐き続けている。

 毒。病気。妖術。いくつもの可能性が浮かぶ中、ただ一人僕だけは無事だった。


「……最高。やっぱり楓さんには効かないんだね。ますます欲しくなっちゃう」

「皆に何をした!」

「何をした、って。そんな分かりきったこと訊く? 苗床にするって言ったじゃん」


 勝利を確信した目付きで、絢音が片眉を持ち上げる。蔦を一振り。それだけで、頼もしい筈の仲間たちが、無様に薙ぎ払われる。


「戦いはね、事前の準備で八割方結果が決まるもんなんだよ。機転を利かせて一発逆転、なんてのは所詮フィクションの話。勝負が始まった時点で、どっちが勝つかはもう、分かりきってるの」

「答えに……なってないぞ」

「まだ気付かない? じゃあもう一個ヒント出すね。“コーヒー美味しかった”?」


 コーヒーだって? 確か、絢音の家で飲んだな。あれがどうかし――まさか!


「……中に、種を混ぜてた?」

大正解コングラッチュレーションッ! 苗床にはさせない、って意気込んでるとこゴメンね。とっくの昔に(・・・・・・)植え付けちゃった(・・・・・・・・)。種子の大きさには融通が利くから、出来るだけ小さくして仕込んだんだけど、面白いくらいにバレなかったね」


 悪戯っ子を気取っているのか。ペロリと舌を出してみせる絢音に、僕は全身を氷水に浸けられたような悪寒を覚えた。

 もしも黒羽が寄生されたら。それは、マヤから怪物の性質を聞かされた際、僕の脳内に浮かんだ最悪の未来。エックスを駆逐して、もう大丈夫だなと。ただの杞憂になる筈だった未来。

 なのに。こんな事って……。


「せっかくだから教えてあげるけど、抵抗しても無駄だよ。アタシの種は強力で、成長も早い。発芽と同時に霊力の吸収を開始。宿主を無力化しつつ全身に根を展開。十二時間もあれば思考の乗っ取りが完了し、元に戻すことはほぼ不可能になる。つまりどれだけ頑張っても、明日の朝にはチェックメイトってわけだ」

「お前……よくも……!」

「ああ、楓さん。怒らないで……とは言わない。だけどね? これは仕方ないことだよ。アタシだって生き物だもん。子孫を残さなきゃならない。弱肉強食。自然の摂理でしょ?」


 教科書の中でしか見ないような言葉が、残酷な意味を持って僕の心に刺さる。思わず拳を握り締めれば、爪の隙間に土が挟まった。悔しさと無力感で胸は張り裂けそうになり、覆しがたい絶望で今にも心が折れそうになる。

 その時だ。


「自然の摂理だと? だったらこっちも死ぬ気で抗うぞ」


 絢音の余裕へ水を差すかのように、掠れ気味のアルトが凜々しく響く。

 まさかと思って振り返った僕が見たのは、立ち上がった黒羽が力強く地面を踏み砕く瞬間だった。


「……おかしいな。どうしてそんなに元気なの?」

「私にも分からん。だが動ける。それで十分だ」


 呟いて不敵に笑ってみせる。唖然となった僕の横を通り、黒羽はそのまま僕を守るように、絢音の前へ立ちはだかった。

 逞しい背中に胸を打たれる。この展開は予想外だったのか、絢音が訝しげに眉をひそめた。すぐさま襲いかかる気配は無い。

 僕の顔を見ないまま、黒羽が叫ぶ。


「おい宗像! まだ走れるか」

「ぐ……ったりめーだろ。こちとら体力だきゃ自信があんだよ」


 応えて結城が立ち上がる。黒羽と違って、明らかに意地と根性が原動力だった。


「フッ、脳筋もたまには役に立つな。お前に頼みたいことがある。いいか」

「……断ってる暇なんざねえだろ。早く言え」

「私が絢音を食い止める。その隙に楓を遠くに逃がせ」

「……てめぇ、俺が内心で何考えてんのか知って言ってんのか」

「ああ、分かってる。それでもお前しかいない。私の推測が正しければ、楓が鍵なんだ(・・・・・・)

「……」

「引き受けてくれるな」

「……しゃあねぇ、今回だけだぜ!」


 渋々といった表情で、結城が僕のところに歩いてくる。

 何する気だ。勝手に話を進めるな。黒羽が戦うなら僕も。そう言おうとしたが、弱った身体では声すらもまともに出せず、あれよあれよという間に担ぎ上げられてしまった。


「アンタの嫁からの命令だ。ジッとしてろよ」

「なっ……待って……!」


 黒羽の背中を見詰めつつ、僕は必死に手を伸ばす。いつぞやのトラウマが蘇り、割れそうな程に胸が痛んだ。


 またか。

 また逃げるのか。

 力ならあるのに。ある筈なのに。僕はまた、好きな娘を置いて、自分だけ――。


「……っ、ダメだ。結城、降ろしてっ……!」

「ゴチャゴチャうっせーな! いいから黙ってろ!」


 あくまでも残ろうとする僕の鳩尾に、結城が拳を叩き込む。一度では陥ちなかったので、二度、三度と。


「うっ……ぁ」


 かくして僕の意識は容赦なく刈り取られた。

 悔しさと焦燥と恋人への想いを最後に、一片の抵抗も出来ず。

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