もう一つの華
泣き疲れて眠った黒羽を抱え、僕は蛇神の社を後にする。
もう戻ることは無かろうと、幾ばくかの寂しさを覚えて振り返れば、主を失い空っぽになった聖域が目に入る。
少し前に、エックスの残骸は風に攫われて消えた。蛇神の亡骸も、僕たちの見る前で溶けるように地面へと沈んでいった。
その結果、今はなぎ倒された社と灯籠だけが残っている。村からは離れた場所だ。数年もすれば緑に飲まれ、何があったかを知る者もいなくなるだろう。
かくして山の主は死ぬ。蛇神の存在も、やがて忘れ去られて――。
「……いや、そうでもないか」
少なくとも僕らが生きている内は。数少ない生き証人として、後世まで語り継ぐ……とまではいかなくとも、せめて覚えておくようにしたい。それこそが、蛇神に対して僕たちが示せる何よりの敬意だと思うのだ。
夢の中で蛇神に出会ったことは、黒羽にも伝えてある。辛そうにしていたが、エックスが現れた時点で覚悟していたのだろう。マヤの死ほど取り乱したりはしなかった。ただ一言、遠くに向けて「ありがとう」と呟いてから、僕と二人で黙祷を捧げた。
あとは……狐たちだ。途中から蚊帳の外にいたとはいえ、一応彼らも蛇神の眷属。何があったか知る権利がある。寄生体『エックス』の出現と、マヤも混ざった一連の死闘。そして蛇神の最期。間違いなく長くなるが、余さず彼らに話すとしよう。
だけど、まずは二人と合流しないとな。はてさて、どこにいるやら。
「んん……ぅ」
腕の中で黒羽が身じろぎをする。起こしてしまったか? 一瞬焦るが、どうやら杞憂だったらしい。僕が立ち止まると、黒羽も動きを止め、安心した様子でスースーと寝息を立て始めた。
二百点。
もちろん百点満点だ。さすが黒羽、可愛いが過ぎる。
僕も手酷く消耗しているが、このくらいは彼氏として、面倒を見るのもやぶさかではない。
曲がりくねった山道を抜け、廃墟と化した神社に辿り着く。空は薄暗くなりつつあった。昨日の朝、停めておいた筈のレンタカーまで、あと少しだ。
家に帰ったら、迷わずベッドに直行しよう。そう頭の中で考える。狐たちをどうするか決まってないけど、取り敢えずベッドだ。僕は休みたいのである。
戦いを終えた今なら分かる。霊力を使い切っただけでなく、疲労も相当、蓄積している。まだ大丈夫、まだ行けると誤魔化しながらここまで来たが、身体はしっかりと蝕まれていたらしい。
睡眠が必要だった。短くてもいい。意識を落とし、力を回復させるための時間が……。
ああでも、帰るためには運転しなきゃいけないのか。
僕しか免許持ってないもんな。結構かかったよな、家まで。
そういや明日は大学か。期限厳守のレポートもあったな。
史学概論の課題も。
フランス語の小テストも。
言語学実習のレジュメも。
うん、多い。やることが多いぞ……。
無慈悲な現実を思い出し、僕は盛大にため息を吐く。そしてすぐに、悩むことを放棄した。
全て明日の僕に任せる。明日の僕が無理だったなら、明後日の僕を酷使しよう。
「狐たちも動員してみるか。手を貸してやったお礼ってことで……」
人間のふりして講義を受けていた連中である。頭は良い。木崎なんか僕より博識だ。こういうことはなるべくしたくないが、今回だけゴーストライターになってもらおう。
などと姑息な企みを抱きつつ、参道を下って下の広場まで降りてきた。車は無事だったらしく、ちゃんと昨日と同じ場所にある。
鍵はポケットの中だったかな? と曖昧な記憶を遡りながら、僕がそちらに歩みを進めようとした時だ。
駆け寄ってくる人影があった。
「――楓さんっ!」
絢音ちゃん……?
予期せぬ人物の登場に僕は首を傾げる。彼女が何故ここにいるんだろう? 廃工場で隠れてろ。そう言った筈だが……。
「良かったぁ。二人とも無事だったんだね」
安堵の表情で屈託のない笑みをこぼす。両手を背中で組み合わせてから、クルリと華麗にターンを決め。さも当然のような動きで、絢音はそのまま僕の隣に並んだ。
「え……、どうしてここに?」
「最初は工場で大人しくしてたんだけど、途中で抜け出しちゃったの。皆が頑張ってるって思うと、いてもたってもいられなくなってさ。危ないかなとは思ったよ? だけどそれなら楓さんたちはもっと危ない真似してるし。逃げ足には自信あったから、大丈夫かなって」
やけに楽観的な思考だ。実際に命を削った身として、ものすごく苦言を呈したいところだが……まあ、それは今じゃなくてもいい。
黒羽の寝顔を覗き込んで絢音が訊いた。
「重たいでしょ。手伝おうか」
「……いや。僕の彼女だから、責任は持つ。代わりに車の鍵取ってくれない?」
「どこ?」
「ポケットの中。左」
「了解。……ん、取れた。ついでにドアを開けてあげよう。こちらへどうぞ」
「助かるよ。鍵は運転席の上にお願い」
「ウィ、ムッシュ」
執事のような仕草で車内を指し示す絢音。僕はお礼を言いながら、黒羽の身体を運び込む。
「……終わったんだよね、これで」
後部座席に黒羽を寝かせていると、絢音が不意にそんなことを言ってきた。僕の背後という位置関係上、彼女の表情を窺うことは出来ない。
「楓さんこれからどうするの?」
「何も無ければ、このまま帰るよ。……君は?」
「アタシ? うーん、どうしよっかな-。まだやり残したことがあるんだよな」
意味深な言葉を口にした直後、それを誤魔化すように笑う気配があって。
「でもホント、無事で良かったよ。アタシ信じてた。楓さんなら絶対に負けない。蛇神様を倒してくれる、ってね」
……ああ、そうか。
そういうことだったのか。
横たえた黒羽の顔を僕は眺める。目に前髪がかかっていたので、指で除けてあげた。身体をかがめ、恋人の頬にそっと口付けを落とした後、財布と携帯をポケットから取り出し、運転席の上に放り投げる。
そうして動きやすい体勢を整えた僕は……扉を閉めた。
振り返る。距離を詰めてこようとする絢音を、僕は無言で手を上げて制した。
「止まれ。それ以上近付くな」
「……なぁに、楓さん。険しい顔してどうしたのさ。もしかして、アタシが言い付け守んなかったから怒ってんの?」
「……いや。そんなんじゃないね。それで怒れたらどれほど良かったか」
「んんん??」
頭に疑問符を浮かべる絢音に、僕はこう続ける。
「話は変わるけど、蛇神様ね。実は寄生されてたんだ。ヤドリギの怪物が体内に根を張ってて、そいつが裏から蛇神を操ってた」
「そうだったの!? 何それ、こっわ……!」
さも初めて聞いたかのように、絢音が目を見開いた。
「え、え。じゃあさ、蛇神様を倒したら、中からそいつが出てきたってわけ?」
「うん」
「どうなったの」
「ちゃんと殺したよ」
僕が答えれば、絢音はホウッと息を吐き出した。
「ビックリしたけど、何とかなったなら良かったよ。安心した」
「ありがと。……で、その後だけど。臨死体験みたいなことがあってね。一面真っ白な世界で、僕は蛇神様と話した」
「何を?」
「寄生された日についてとか、色々と。君も教えてくれたよね? 山道で何かを見つけたって。あれが実は、ヤドリギの怪物の種だった」
「そっか-。……他には?」
「励ましの言葉と警告を貰ったよ。……まあ、上手く聞き取れなかったけど。きっとこう言いたかったんじゃないかな。“私の記憶が正しければ、ヤドリギの種は一つじゃなかった筈だ”」
「……っ」
絢音の肩がピクリと震える。それに気付かぬフリをして、僕は話し続ける。
「ずっと不思議に思ってたんだ。どうして君だけが、蛇神の洗脳を受けなかったのか。顔見知りだから見逃した? 違う。蛇神は記憶を封印してた。僕や狐たちと同じように、君の存在だって忘れてた可能性が高い。であれば、絢音ちゃん。蛇神にとって君は、ただの一人の人間だ。特別扱いする訳がない。……そこまで考えて、ようやく気付けた」
そこで一拍、呼吸を挟み。僕は改めて絢音に向き直る。
大事なのは、発想の転換だった。
「蛇神――いや、エックスは君を洗脳しなかったんじゃない。初めから眼中に無かったんだ、ってね」
「……どういう意味? アタシってそんなに、魅力不足なのかな?」
まだとぼけるか。それともこの状況を面白がっているのか? ……別にどっちでもいい。ハッキリさせるのがお望みなら、遠回しに質すのはもうやめだ。
「一つだけ聞く。君は……本当に人間か?」
すると絢音はくしゃっと顔を歪めて……。
「ふふっ、あははははははっ! 何それ、おっかしー! 真剣な顔して、どーんなこと言うのかと思ったら! アタシが人間か? だって! そんなの――――」
盛大に笑った後、ふっと真顔になった。
「違うに決まってんじゃん」




