誰が為に君は泣く
稀に見る最悪な寝覚めだった。
意識を取り戻して最初に感じたのは、全身を包む倦怠感と疲労感。あれだけの力を使ったからか、反動が尾を引いているらしい。骨という骨はズキズキと痛み、頭から爪先までが石になったように重かった。瞼を開けることさえ難しく感じる。
けれどこうして思考出来ている辺り、僕はまだ生きているのだろう。……多分、ギリギリのラインで。
願わくばこのまま眠りたいとこだが、そうもいかないのが現実だ。休息は後回し、取り敢えず起きるとしよう。
……あれ。おかしいな動けないぞ。
どうなってる。何だこれ。身体が固い……いや違う。原因は僕じゃない。周りだ。何かが僕の周囲を埋め尽くしているせいで、動こうにも動けないんだ。
辛うじて自由の利く左手を駆使し、僕は状況を探ろうと試みる。指先にザラザラとした感触が当たった。地面、にしては乾燥してる。これはきっと木の枝だ。
なるほど完璧に理解したぞ。僕は今、エックスの残骸に埋もれているんだな。
……冗談じゃない。
「――――っ! だれかっ……!」
生き埋めとか絶対に苦しいじゃないか! 嫌だ死にたくない! 助けを呼ぼうと叫んだが、出た声は自分でも驚くほど小さかった。ヒューヒューと無様な息だけが漏れて、そこでようやく、僕は我が身が死の一歩手前まで弱り切っていることに気付く。
自力でも這い出ようにも、力が入らない。沈黙と暗闇に押し潰されそうだった。
……え、もしかして死ぬのか?
化け物は倒したのに。蛇神から励ましてもらったのに、こんなとこで? 待って欲しい。それは流石に酷すぎやしないか。
「――楓ぇえっ! どこだぁっ!」
絶望しそうになったそのとき、僕の名前を呼ぶ声が聞こえ、捨てかけた希望を取り戻す。
……黒羽?
彼女が近くにいるんだ。しかも僕を探してくれてる。だったら……まだ諦めるには早い!
「ここっ……! 僕は、ここに――」
彼女は耳が良い。掠れまくって碌な声量も出ないが、もしかしたら気付いてくれるかもしれない。僕はあらゆる手を使い、自分の居場所を彼女に伝えようと試みる。焦り気味の足音が近付いてきて……一度、僕の頭上を通り過ぎた。
けれどすぐに戻ってくる。やがて視界が明るくなり、僕にのしかかっていた重みは取り払われた。
「見つけた」
腰まで伸ばされた黒髪が、甘い香りを伴って目の前で流れる。ヒーローのような黒羽の登場に感極まった僕は、思わず涙を流しそうになっていた。
「……このまま死ぬかと思ったよ」
「私の目が黒い内は、死なせないさ」
僕の背中に腕を回し、少々強引に引っ張り出してくる。かくして僕は生き埋めの恐怖から解放された。
ホッと息を吐き、それから足下を見る。僕たちは今、エックスの上にいるようだ。僕とマヤが根元の“芯”を壊した結果、こいつは養分の供給を遮断された。枝や葉っぱは全て枯れ、生気を失ってパサパサになっている。
おそらく僕は、こいつの倒壊に巻き込まれたのだろう。黒羽が助けてくれなかったら。考えるだけで恐ろしい。
ゾッとする可能性に僕が身を震わせていると、不意に、柔らかな感覚に全身を包まれる。
黒羽が僕を抱き締めたのだ。
「無事だな。生きてるな。よくも私を心配させてくれたな。もう放さないぞ」
こういうことをされると僕がドギマギするのはいつも通りで、彼女の愛情表現がストレートなのも、やっぱりいつも通りだった。今回は頬擦りから始まり、次いで何度か口付けを交わした後、また抱擁のターンがやって来る。
黒羽には無理を強いてしまったが、幸いにして大怪我はしてないようだ。見る限り、ところどころに擦り傷がある程度。それも現在進行形で塞がりつつある。
対する僕の身体も、あれだけズタズタにされたのが嘘のように元通りだった。折れた筈の骨が折れてない。全身に開けられた穴は、いつのまにか全て閉じている。蛇神が治してくれたのだろう。
霊力の消耗はそのままだが、生きているだけで万々歳。贅沢は言うまい。
……ところで、黒羽さんよ。そろそろ僕を放してくれませんかね。なに当然のように抱き上げて運ぼうとしてんの。いや、いいんだよ? 別にそれでもいいんだけどさ……。
「じ、自分で立てるよ」
彼女のガッチリした腕を叩き、アピールする。黒羽が不服そうに眉をひそめた。
「駄目だ。ジッとしてろ」
「へ、あの」
「気に食わないか? 今の汝、死人みたいな顔してるんだぞ。私の前では無理するな」
凜と言い切る黒羽。かくして強がりは封じ込められ、視界が九十度横になった。もはや見慣れたお姫様抱っこである。こうしていると、黒羽の体格の良さを肌で感じられる。
「ふぉっ」
変な声が出て、僕は顔を真っ赤にした。
「腕を私の首に回せ。そうしてくれると運びやすい」
「……りょ、了解」
勝てないのは分かりきっているので、大人しく彼女に従う。性別的には明らかに逆だが、男女のステレオタイプが僕たちに当てはまらないのは、もはや言うまでもない。
いつか黒羽をお姫様抱っこしたいな。という柄にもなく男っぽい願望も、一応持ってはいるのだけど。こんな調子じゃ果たして叶うのはいつになるやら。
「……そういえば」
「どうした?」
「マヤ様はどこ? 僕の中にはいないんだけど」
一足先に脱出したのかと思っていた。にしては姿が見当たらない。
黒羽が落ち着かない様子で唇を引き結んだ。
「分からない。気配も感じないし、声も聞こえないんだ。私はてっきり、汝の近くにいるとばかり思ってた」
「もしそうなら、さっき一緒に見つかるよね」
「だな。ったく、どこに行ったんだ。まあ師匠だから大丈夫だろうが……」
僕もそれには同感だったが、放ってはおけないので探すことにする。黒羽に抱かれたまま周囲を歩き回っていると、やがてマヤの頭がエックスの残骸の下から飛び出しているのを見つけた。
「黒羽!」
「あそこか。――師匠!」
僕みたく埋もれていたらしい。急いで駆け寄っていくと、マヤは瞼をゆっくりと持ち上げ……やけに力の抜けた目で、僕たちを見つめた。
様子がおかしい。僕ですらすぐ気付ける程に。黒羽も何かしら悟ったようで、表情を一気に険しくした。
「……生きておったのか」
「生憎な。今助けるから、ジッとしててくれ」
黒羽が僕を地面に降ろし、マヤにのし掛かる枯れ枝の束を押しのける。解放されたマヤは、おぼつかない足取りで外に出てきた。
消耗しているのだろう、耳と尻尾がグッタリと垂れ下がっている。身体は血に汚れ、純白の毛並みも輝きを失いつつあった。動きの全てがひどく弱々しい。満身創痍を越えて……これじゃ瀕死だ。
「……やれやれ、参ったわい。神と同じ感覚で力を使いすぎた」
自嘲気味に笑い、そのまま地面に倒れ込む。黒羽が傍らに跪き、腹の傷の具合を確認した。僕も横から覗き込む。
次の瞬間、僕たちはゾッとなって顔を見合わせた。
「どうなっとるんじゃ」
「これは……大したことない。すぐに治ると――」
「本当のことを教えてくれんか」
「……っ!」
黒羽が黙って、唇を噛む。僕も彼女も言葉にはしないが、頭では分かっていた。マヤの腹部にある、エックスに貫かれたときの刺し傷からは、今なお出血が続いている。治癒はおろか、塞がる気配すら無いのだ。
僕は着ていた上着を脱ぎ、傷口に当てて止血しようとする。
無駄だった。流れ出る血が、上着を瞬く間に黒く染めていく。思わず僕が手を放せば、抑え込んでいた血が一気に溢れ、水溜まりとなって僕たちの前に広がった。
独特の臭いが鼻を突く。濃厚な血の臭い。死臭。うっすらと湯気が上がるくらいに、それはまだ生暖かった。
「……青年、頼む」
黒羽が何も言わないので、僕に声がかかる。マヤの顔を見れないまま、僕は震える声で答えた。
「正直……酷いです。傷が深すぎて、血が全然とまりません。しかも、これ、内臓まで見えて――」
堪えきれず口をつぐむ。それでもマヤは何となく察したらしい。遠い目をして、大きく息を吐き出した。死を悟った者の目付きだった。
「いよいよ儂もこれまでか」
「なっ……何を言ってるんだ師匠! このくらい、師匠なら普通に治せる筈だろ!」
「昔であればな。今の儂は一介の妖。死に損ないの駄犬に過ぎん。加えて……」
取り乱した黒羽に、マヤは優しく、諭すような口調で語りかけた。
「分かるじゃろう。儂の身体は今、空っぽじゃ。奴への攻撃に霊力を割きすぎた。再生に回す分が残っていない」
「うっかりみたいに言うな。確信犯のくせにっ……!」
「ほほほ、何のことやら」
「どうしてそこまで無茶をした。死ぬと知ってたなら、どうして」
「……尚更じゃろう、痴れ者め」
「え?」
「娘婿に命を削らせておきながら、ジジイが飄々と生き残る訳にもいくまい?」
そこでマヤは、おもむろに僕の顔を見た。
「あのとき儂は、お主と心身を分かち合う状態にあった。一時的に一体化することで、儂の意識をお主の霊力に接続し、真の意味で全力を出させようとしたのじゃな。しかしそれは、儂とお主の両方に対し、多大な負荷を強いるという側面もあった」
「つまり……僕が感じたのと同じ痛みを、マヤ様も?」
「徹頭徹尾、味わっておったよ。文字通り融合しておるのじゃから、感覚も当然、共有される。しでかした儂が言うのも何じゃが、あれはちとキツかったの」
「……そう、だったんですね」
死の寸前まで追い込まれる程の消耗を、マヤもまた課せられていたんだ。蛇神のおかげで僕は助かった。だけどマヤは……。
重傷の身で、あれだけの力が失われれば。いくら元・神様でも、そこから立ち直るなんて……。
「諦めてどうするッ! 師匠に力が残ってないなら、私か楓の霊力を移せばいいだろう!」
「この深傷では焼け石に水じゃよ。そもそも、そこの男には、余力なぞ欠片も残ってはおるまい」
激昂する黒羽に対し、マヤはどこか達観したような表情をしていた。
せめて事前に言って欲しかった、とか。勝手に人の身体を使うな、とか。ネチネチと責め立ててやろうと思っていたのも、数分前までの話。マヤの死を目前に控えた今は、ただ哀悼の意が勝る。
「……ふざけるな。ふざけるなよ師匠! こんなところで終わる気か? 二度目の命を謳歌するって言ったじゃないか!」
「するつもりだったんじゃがなぁ。考えてみれば……ゴホッ、儂はもう十分に生きた。可愛い我が子と、跡継ぎに恵まれた。そなたらの行く末も安泰そうとくれば、もはや未練は無い」
話すだけでも苦しい筈なのに、その口振りはどこか安らかで。
「“寝るとするかのう”」
満足そうに放たれた言葉を、僕も黒羽も否定することが出来なかった。
「師匠……」
「養父の死に際じゃぞ。感謝の送辞を聞かせてくれんのか?」
「……ハッ、馬鹿師匠が。感謝なら、十年前に拾われた時からずっとしっぱなしだ」
「奇怪じゃ。お主にしては正直すぎる」
「最期くらい素直になったっていいだろ」
泣き笑いを浮かべて返す黒羽。その身体に、マヤが鼻先を近付けていく。黒羽は震える手でそれに触れた後、一拍開けて、正面から抱きついた。
首元に顔を当て、何も喋らず、ただ肩を上下させる。マヤの瞳が「やれやれ」とでも言いたげに細められ……それから再び僕の方に向けられた。
まばたき一つ。多分、「すまない」の意思表示だろう。一時とはいえ意識を共有したからか、マヤの考えていることが何となく分かるのだ。
僕は無言で頷き返す。それだけで、十分な応えになっていたと信じたい。
マヤの視線が朧気になり、目の端から小さな雫が流れた。
「……待たせた、我が友。今、そちらへいこう――」
風が集まり、マヤの周囲で渦を巻き始める。純白の毛並みが先端からほどけ、光の粒となって天高く上っていく。黒羽がますます力を込めて抱き締めるも、消失は決して止まることなく。少しずつ、少しずつ。完全な別れが刻一刻と近付いてくる。
最初に、尾が。次に手足、胴体と溶けて。ついには首だけになったマヤが、スッと瞼を降ろした直後――。
愛娘の腕の中、かつての犬神は風と共に消えた。
「……っ!」
声にもならない声を上げ、掌に残った最後の粒子を握りしめる黒羽。だがそれも、やがては指の隙間から零れ、地面に落ちて弾けて果てる。
悲しみに打ちひしがれる黒羽を前に、僕はかけるべき言葉を見つけられず。ただ彼女に寄り添って、別れの余韻を共に分かち合うことしか出来なかった。
黒羽が嗚咽を漏らす。込み上がる嘆きが口を割って溢れる寸前、僕はそっと手を伸ばし、彼女の背中を優しく撫でる。耐えきれなくなったのか、黒羽が僕の胸に倒れ込んできた。
「――っ! 楓――!」
「……うん。ここにいるよ」
十年一緒に過ごした家族を、唐突に、しかも目の前で失ったのだ。いくら気丈な彼女でも、心が限界を迎えて当然だと思う。
いつしか黒羽は、半人半鳥の姿に戻っていた。僕に体重を預け、小さな声で語り始める。
「師匠は私にとって……師匠だったんだ」
「うん」
「戦い方を教えてくれたのも、人としての振る舞いを仕込んでくれたのも師匠だ。一緒に過ごした時間は汝より多い。私がここにいるのだって、半分くらいは師匠のおかげだ」
「……うん」
頷くことしか出来ない自分に、僕はどうしようもない不甲斐なさを覚えた。もう少し口が上手ければ。素敵な言葉を二つ三つ使って、彼女を癒してあげられたかもしれないのに。
「大切な家族だったんだ……! なのに、なのにっ……!」
肩を小刻みに震わせる黒羽は、悲しみを押し殺そうとするように見えた。
……身内を亡くした経験が、僕には無い。それがどれほど辛いのか、完全に理解している訳でもない。
けれどそれでも、一つだけ言えることはある。
黒羽の頬を撫でながら、彼女の耳元で囁いた。
「我慢しないで」
「……へ?」
「悲しかったら、泣いていいんだよ。好きなだけ、思い切り」
僕はここにいるから。彼女の目を見てハッキリと告げる。
黒羽は一瞬、呆けたように口を開け、そして――。
「うぅ……うああああああぁぁ……!」
堰を切ったように、感情を爆発させてきた。
「大丈夫」
何が大丈夫なのかは自分でも分からない。だけどせめて、何か言いたかったのだ。
泣いていいよと諭しておきながら、僕は恋人の涙を止めたかったのだ。
「あぁぁ……かえでっ……! わたし、わたし――」
支離滅裂にわめき散らす。普段の凜々しい黒羽とは、似ても似つかぬほど弱くて無防備な姿。
僕も初めて見る姿。
「……大丈夫だよ、黒羽」
呼び掛ければ、黒羽は額を僕から離す。泣き腫らしてグチャグチャになった顔で、上目遣いに覗き込んできた。
涙は女の武器になる――。
本当だった。現にほら。僕の胸は今、割れそうな痛みで悲鳴を上げてる。
「……なぁ、楓」
「何?」
「汝は……! 師匠みたいにいなくなったりしないよなっ……?」
縋りつくような声色が、肯定以外の答えを封じる。
それは懇願であり、誘惑であり、またある意味で呪いだった。僕の心をますます歪め、黒羽という女性に溺れさせる破滅の呪いだ。
「僕は、君の傍にいるよ」
「……本当か?」
「本当」
「ずっとか? いつまでも、私と一緒にいてくれるか……?」
「うん。……ずっと」
見捨てるなんて誰が出来るか。この娘には僕しかいないのだ。
烏から妖怪に変化して、育ての親を失って。頼れそうな蛇神はついさっき亡くなった。十年も僕に付きまとい続けたせいで、妖怪の知り合いは文字通り皆無。僕がいなくなれば、黒羽は本当の意味で孤独になってしまう。
……そんなの嫌だ。
「約束する。君を独りにはしない」
危ういと頭では分かりながらも、僕は誓いを立てるのを止められなかった。
何があっても裏切らず。
二度とこんな顔をさせないために。
抱き締め合った二人分の影が、鬱蒼とした林の中に長く長く伸びていく。
最期まで彼女と共にいようと、覚悟を決めた夕暮れだった。




