決戦の刻
子供の頃、旅行で訪れた北海道の牧場で、ポニーに乗せてもらったことがある。
よく晴れた空の下。のんびりまったり草を食むポニーは、小学生の僕にはいささか大きすぎるように見えて。おっかなびっくり蔵に跨がり、振り落とされやしないかと内心でビビりながら敷地内を一周した。もちろん、係のお姉さんに引かれてだ。振り落とされることもなかった。
動物に乗ったのはあれが初めて。そして二回目は今。ポニーではなく山犬に乗っている。乗り心地? とんでもなくスリリングだ。
風を切り、岩を足場にジャンプして、茂みの中を突き抜ける。人間一人を背負っても、マヤの脚に衰えは感じられない。対する僕は、落下しないようしがみつくのに必死だった。
足と左手をマヤの胴に回し。右手は顔の防御兼、戦闘時の迎撃に使用する。不格好には目を瞑って欲しい。両手を放すと、勢いで吹き飛ぶのである。
ちなみに。妖怪になりたての頃は柴犬サイズだったマヤは、今ではオオカミを思わせるくらいに大きくなっていた。本人曰く『力をつけた』らしい。それでも若干小さいが、頑張れば乗れるレベルではあった。
「もうすぐだ。楓、準備を!」
「大丈夫、終わってる!」
横を飛ぶ黒羽に声を張り上げて応える。黒羽が頷いて上昇していった。彼女の役目は突入の援護、そして僕の護衛だ。
「ほーほっほっほ! 何百年ぶりの戦かのぅ!」
緊張している僕とは対照的に、マヤのテンションは高かった。
「この興奮、この高揚! 良い、実に良いぞ! 久しく忘れていた山犬の本能が蘇ってくるわい」
「勢い付くのはいいですけど、無茶はしないでくださいね!」
「分かっとる。これでも脳味噌は冷静じゃ、安心せい!」
とても引退した身とは思えない返事だ。
人里から遠ざかるにつれて、エックスの気配が段々と濃くなってきた。僕は右手を前に向け、いつでも術が打てるように身構える。
ここからは考える暇など無い。即断即決が出来なければ死ぬ。それだけだ。
どこまでも続きそうな雑木林は唐突に途切れ、一転して開けた空間に出る。
目測にして百メートル前方。石灯籠で囲まれた空間の中心に、巨大なヤドリギの怪物――エックスが悠然と鎮座していた。
そして戦いが始まった。
「リリリラ、ロロロ、ラレロレッ!」
気味の悪い鳴き声が僕たちの鼓膜を揺らす。攻撃の第一波は、蔦が四本。鞭のようにしなって左右から迫ってきた。
ギリギリまで引きつけてからマヤが跳びはねる。すぐ下で、空振った蔦が誰もいない地面を打ち据えた。
着地のタイミングに合わせて右手を横にし、僕は蔦の一本に対して照準を定める。
通用するのは確認済みだ。
「急々如律令――斬!」
指先から放たれた透明な刃が、狙った蔦を掠めて奥の木を切り裂く。外したか。やっぱり揺れるから難しいな。……などと思っていると、上から黒羽が急加速して飛び込んできた。閃光一線、かぎ爪の先で蔦を切り落としてみせる。
先端を失った蔦は狂ったように暴れ始めた。透明な液体が切り口から飛び散る。一部は僕の顔面にかかった。
慌てて袖で拭おうとすれば、ベタベタした何かが手の甲に糸を引く。何だこれ。樹液か?
「けったいな匂いじゃのう。嗅ぎすぎれば鼻が効かんくなるか」
「フゥ、手厚い歓迎ですね。VIP扱いだ」
気持ちだけでも余裕を持とうと、すかした風を装って応える。実際は、進行方向の敵に注意を払うので精一杯だった。後ろまでは気が回らない。だがそれは、上空の黒羽がカバーしてくれる。
「――させるか!」
こんな風に。
マヤを狙った死角からの一撃に対し、割り込んできた黒羽がそれを防ぐ。今のところ、エックスの攻撃は僕とマヤに集中していて、黒羽は半ば無視されていた。どういう基準で脅威度を測っているのか知らないが、黒羽にとってみれば、遊撃隊として存分に機動力を発揮出来る、悪くない状況だ。
かくいう僕も口だけの男ではない。
「しつこいな。僕たちばっか狙うなよ!」
悪態を吐きながら上半身を起こす。両手を左右に。瞼を降ろし、意識を集中。手早くイメージを固める。
緻密さはいらない。威力が高ければそれでいい。
「“燃えろ”!」
霊力によって炎を生み出し、僕たちの盾となるように広げる。接近していた蔦の一群が、炎の先端に触れるやいなや、たちまち折り返して離れていった。
「やるではないか」
「優秀な先生がいたもんで」
付け焼き刃の妖術だが、それでも多少は役に立つ。
異形とはいえ相手も植物、火の類は苦手であるらしい。「レレラリ、ロロロラ」と、焦ったようにエックスがざわつき始め……瞬間。草体に無数の穴が開いた。そこを通って体内から、新しい蔦が全方面に伸びてくる。手数を増やして押し潰そうという算段だろう。
このまま突き進むのは困難だと判断した僕は、事前に決めておいた合図に従い、右足でマヤの横腹を蹴った。
「回り込みましょう!」
「承知した。しっかり掴まっておれ!」
即座に方向転換が為され、殺到した蔦はまたしても地面を打つ。衝撃で土塊が舞い上がった。
首だけを動かして後ろを見る。理想的な回避だったが、振り切るまでは流石にいかなかったらしい。相手も速やかに体勢を立て直し、僕たちの後を追ってきた。
牽制として切り裂きの術を放ちながら、僕は考える。
やけに攻撃が一辺倒だ。体躯の大きさに差がある分、機動性ではこちらが上。単純な追いかけっこを続けても、僕たちを捕えるのは難しい筈だ。敵にそこまで考える頭がないのか? いや、違う。相手は信仰の自給自足を思い付くようなやつだ。ある程度の知性は間違いなく有している。
……僕だったらどうする?
正面からの攻撃が躱されるなら、それを逆手に取り、敵の意表を突くのがセオリーだ。陽動をかけ、注意を引き。そして死角から奇襲を仕掛ける。この場合はつまり……。
「――下か!」
慌てて警告を発しようとしたとき、マヤの身体がグラリと揺らいだ。
「ぐぬぅ!?」
呻き声が聞こえ、赤い飛沫が飛び散る。地面から突き出した蔦が、マヤの腹部に深々と突き刺さっていた。
「あ……」
「ぬかったわ……ごふっ」
吐血して勢いを失うマヤを前に、僕の頭は一瞬、思考することを拒否した。わずか二秒、あるいは一秒とその半分の隙。刹那が勝ち負けを左右する世界において、その時間はあまりにも長すぎて……。
「――ハッ!?」
我に返ったとき、すぐそこに迫り来る蔦の姿があった。
咄嗟に胸の前で腕を組む。だが圧倒的な暴力を前にして、その程度の防御が意味を為す筈もなく。
「うああぁあぁあっ!」
薙ぎ払われる。ミシリ、と全身の骨が軋んで、意識が細切れに寸断される。打ち上げられた僕の身体は、山なりの軌道を描いて自由落下を始めた。
「楓!」
待っていたのは固い地面……ではなく、力強い僕の恋人の腕。黒羽が受け止めてくれたおかげで、頭から激突するのは何とか避けれた。だがそれでも。
「マヤ様っ!」
「儂に構うな、突き進め!」
痛みを堪えつつ名前を呼べば、有無を言わせぬ怒号が返ってくる。見るまでもなくマヤは重傷だ。本人もそれは分かっているのだろう。お前の役目を果たすことに専念しろと、黄金色の瞳が言っていた。
助けている余裕など無い。僕は直感でそう悟る。
黒羽も同じ判断のようだった。
「運んでやる。掴まってろ」
「君が……でも確か、僕を抱えては飛べないって」
「前まではな」
短く応えてから、黒羽は不敵な笑みを浮かべて続けた。
「私も強くなってるのさ。短距離なら、汝を抱えてでも大丈夫だ」
信用しろ。落ち着いたアルトでそう囁かれてしまっては、身も心も彼女に委ねるほかない。
僕より背の高い女性の身体に、コアラの要領で思い切り抱きつく。黒羽が両腕を翼に変え、地を蹴った。
目指すは根元、エックスと蛇神の接合部。ホップ、ステップ。飛翔と跳躍の合わせ技で宙を駆け、あっという間にエックスとの距離を縮めていく。蔦の集団が左から迎撃にやって来た。しかし黒羽は動じない。
「――遅いな。押し通る!」
風切る音を伴って、更に加速する。その時僕は、彼女の周囲に、黒く輝く炎のような光を見た気がした。
それはきっと幻の煌めきで、現実に存在するわけではないのだろう。オーラか、あるいは溢れ出す黒羽の気迫か。何にせよ、彼女の翼と同じ色の靄で彩られたその姿は、見惚れるほどに綺麗でカッコよかった。
身体を反転させ、黒羽が回し蹴りを放つ。蔦を弾き返すのではなく、最小限の力で受け流すように。そのまま別の一本を足場代わりに、エックスまでの残り数メートルを一気に消化した。
「着いたぞ楓!」
「っ、了解! 後ろを頼んだ!」
黒羽を愛でるのは勝ってから。地に足をつき、体勢を整える。眼前で蠢くヤドリギの塔、こいつを壊すのが僕の役目だ。高さは僕の数倍はあるし、太さだって然りの巨大な相手だが、やるしかない。僕なら出来る。出来ると思う。出来るということにしておく。
「――――っ、はぁああああぁあ!」
息を吸い込む。左足を前へ、右足を後ろへ。わずかに身体の重心を落とし、前へ踏み込む。神様としての馬力に体重と殺意を上乗せして放った蹴りは、草体の“芯”があるだろう位置を的確に捉えた。
「ラーラーラー!!」
聞いたことのない奇声を発して、エックスの巨体が揺れる。ダメージは通った、だが致命傷にあらず。そんなところか。元より一撃で仕留められるとは思っていない。
「――フッ!」
呼吸に合わせてもう一度。攻撃に対応するためか、ヤドリギの枝葉が密集して固まる。僕は気にせず、その上から蹴りを叩き込む。
反動が痛みとなって足を貫き、対してヤドリギの装甲は砕けた。
間髪入れずにパンチを繰り出す。今度は敵も反撃に出た。“塔”から細やかな蔦が飛び出し、接近した僕に向けて突き出される。
「ぐっ……が……」
近接防御もしっかりしているらしい。肩の肉が抉られたが、こっちも相手に穴を開けてやった。両手を突っ込み、枝を一掴み引きちぎれば、頭上から悲鳴に似た絶叫が上がる。
だが……。
「……やっぱりか」
思わず舌打ちが漏れる。今しがた破壊したばかりの箇所が、急速に再生を始めたのだ。
植物の強みはいくつかあるが、一番はその並外れた生命力だろう。条件さえ整えば、葉の一枚からでも新しい株を生み出せる。
エックスも例に漏れず。それどころか怪物の補正が乗って、普通の植物よりも再生速度が桁違いに早いという始末だ。
一応、想定はしていた。けれど対抗策はない。相手の回復が先か、僕が壊すのが先かの力勝負というわけだ。
傷口を攻めれば再生を阻害出来るか? そう考えた瞬間、僕は背中に刺すような殺気を感じて振り返った。
当初から僕たちを狙っていた太めの蔦。それが全部、僕に狙いを定めている。黒羽が防いでくれるとしても、これは流石に数が多い。
「邪魔はさせんよ」
白銀の閃光が飛び込んできた。と同時に、蔦の半数が見えない力で切り裂かれる。
黒羽の横に並び、僕の盾になるような位置で身構えたのは、致命傷を負った筈のマヤだった。
「師匠! 大丈夫なのか!?」
「当然じゃ。山犬が簡単に陥ちるか!」
出血は継続中。疲労困憊といった様子だが、元・神としての気迫はまだ消えていない。
「小手先の技しか使えんが、それでも時間は稼ぐことが出来る。急げ青年よ。儂らの守りが崩れぬ内に!」
「っ、はい!」
一人と一匹を信じ、僕は攻撃を再開する。とはいえ敵の再生力が底知れぬ以上、このままただ殴っていても、ジリ貧になるのは明らかだった。
だから、ちょっと趣向を変えてみようと思う。
木崎から習った鬼火の術。掌から炎を出すのが基本的な形だ。だがそれは、あくまでイメージのしやすさと利便性を踏まえてのこと。霊力を炎に変えて体外に押し出すことさえ出来れば、掌にこだわる必要はどこにもないのである。
そう、例えば少し範囲を広げて……腕を覆うように出してみるとか。
「“燃えろ”!」
右手に意識を集中させれば、ボウ、と紛い物の熱気が沸き上がる。籠手を装着したかのように、肘から指先までが青白い炎で包まれた。
上等だ。理屈ではともかく、実際に上手くいくかは未知数だった。霊力の使い方に慣れてないせいで、まだ形が安定しないが、出力は十分事足りる。
「っらあ!」
炎を纏った拳を振るい、さっきと同じ場所を殴りつける。修復しかけの装甲が破れ、右腕がエックスの中にめり込んだ。僕はそのまま閉じていた手を開き、ありったけの鬼火を内部へと注ぎ込む。これなら……。
「――――! ――――――!!」
割れそうな絶叫が空を裂いて響く。当然だ。どれだけ頑丈な身体でも、内側からの攻撃には脆いもの。ましてやこいつは火が苦手らしい。いくら何でも堪えるだろう。
だが。
「っ!? 嘘だろ!?」
掴みかけた勝利が指の隙間から零れていく。事は単純。焼却を越える速度で周囲の組織が成長しているのだ。このままでは先に僕の霊力が尽きてしまう。
「くっ……そぉおおおっ……!」
全力を出す。それでも足りない。炎が押し潰される。もっとだ。もっと炎を! もっと、もっと、もっともっともっと……!
「――やはりまだ力を扱い切れんか」
穏やかな声が耳元で聞こえた、その直後。身体がグッと重くなり、何かが僕の中に“入って来た”。春の日差しのように温かい気配は、僕も覚えがあるものだ。
……マヤ様?
『うむ儂じゃ』
いわゆる憑依というやつだろうか。声が、頭の中に直接響いてくる。
事態を飲み込めず当惑する僕に、マヤは短くこう告げた。
『お主の身体、しばし借りるぞ』
バキリ、と。脳内で何かが外れた音がする。そして……。
――瞬間、僕の身体に電流が走った。




