日向神話異聞
時は、今から五百と数十年の昔。
人間の世界では、“応仁の乱”と呼ばれる争いで日本中が不安定になっていた時代。
九州南部のとある村落に、一人の男がやって来たことから異変は始まる。
その男は、村の入り口に倒れているところを、通りすがりの猟師に発見された。全身が傷だらけで、息も絶え絶えの酷い有様であった。村人たちの介抱虚しく、男は次第に衰弱していった。
『おれの村がおかしい』
熱に浮かされたような口調で呟いたのを最後に、男は息絶えた。長老たちは男の言葉をどう解釈するか協議したが、何しろ証言が少なく、一向に結論が出ない。最終的に、腕の立つ猟師数人を、調査隊として隣村まで送り出すことにした。彼らが戻ってくることはなかった。
何らかの祟りを恐れた村長は、村の神社にこの事態を報告した。これを受けて、一帯を統括していた主が、男のやって来た村へと赴く。しかしやっぱり、戻ってこない。何かが起きているのは、もはや明らかであった。
噂が新たな噂を呼び、神の人脈を通して広まった情報は、やがて高千穂の猪神の耳にまで届くことになる。
『あの辺りはムカの上の領域であったか。遠縁とはいえ我が血族の一員。事を確かめねばなるまい』
猪神の呼び掛けに応える形で、九州各地から実力者が集まった。鹿神、猿神、鳥、蛇など、総勢十匹からなる遠征隊が結成される。その中には、長生きしすぎて妖怪の域に達しつつあった、一匹の山犬も混ざっていた。彼は、猪神の旧い友だった。
山越え野を越え辿り着いた村は、一見したところ普通に思えた。人々は皆仕事に勤しみ、質素なおかつ慎ましく、普段と変わらない暮らしを送っている。
安心しかけた一行だったが、猪神だけはその光景に疑問を抱いた。
『平穏無事であるならば、何故ムカの上は消息を絶ったのか。奇妙である』
かくして密かに観察を続けること、丸一日。遠征隊の参謀役を担っていた鹿神が、村人たちの不審な動きに気付いた。朝から晩まで一切の食事を摂っていないのである。にも関わらず、空腹に苦しむ様子は一切無かった。唯一摂取したのは水だけだった。
村人の一人を捕まえ、尋問が行われた。するとそいつは神獣たちが監視する前で、途端に身体を植物へ変化させ、襲いかかってきた。ヤドリギの怪物に成り代わられていたのだった。
不意を突かれ、鹿神が寄生された。生き物に寄生して成長する怪物の性質を悟った鹿神は、ヤドリギが根付く前に自壊を選び、自ら命を絶った。これが最初の犠牲者となった。
仲間に弔いを捧げた後、神獣たちは村の最奥部――神木の座する社へと向かった。そこには、怪物に取り込まれた村の御神木と、猪神の遠縁ムカの上の姿があった。寄生された村人も続々と集まり始め、そして戦いが幕を開ける。
数的劣勢は甚だしくも、そこに集いし神獣たちは、皆一騎当千の強者揃い。当初は優勢に事を運んでいた。有象無象の株を蹴散らし、連携によってムカの上を打ち払った。しかしそれでも、神木の株を倒すには力不足であった。
原点にして頂点。神格の霊力を吸い上げて育ったヤドリギの親玉は、神獣たちですら手を焼くほどに、強大化していたのである。
加えて怪物の再生力は圧倒的だった。砕き、引き裂き、食らい付き。どれだけ攻撃を与えても、瞬く間に損傷を回復してしまう。神獣たちは次第に押され始めた。一柱、また一柱と殺害されていき……いつしか、残っているのは猪神と山犬だけになってしまった。
山犬が撤退を要求するも、猪神は断固として応じなかった。
『いかなる犠牲を払おうとも、こやつを村の外に出すわけにはいかぬ。今ここで駆逐するのだ』
『貴方の仰る、その理屈は分かります。しかしどのように』
『容易いことよ。傷付けても再生されるのならば、一撃を以て仕留めればよい』
そう言い残すと、猪神は単身、ヤドリギの怪物に突っ込んでいった。自身の命を糧とした特攻であった。
引き止める間もなく、閃光一閃。続けざまに爆発が起きた。すぐ近くにいた山犬でさえ、何が起きたのか完全には把握出来なかった。だがそれでも山犬は、押し寄せる光と衝撃の中、ヤドリギの親玉が内側から砕け散り、焼け焦げた炭となって息絶えたのを確かに見たという。
そして……。
※
『存外に早い別れとなったな、我が盟友よ』
戦いによって傷だらけとなった一柱の猪神は、隣に付き添う純白の山犬に向けてそう言った。
『思えばお主には世話になった。これまで余に仕えてくれたこと、心より礼を言うぞ』
『何を情けないことを。鎮西の大神ともあろうお方が、こんなところで果ててよいものですか』
山犬は激励し、横たわる猪の脇腹に鼻を近付ける。傷口は深く、出血が止まる気配もない。流れ出す血潮は草木を染め、純白の毛並みを染め。土石の上へ到達してから、小さな川となって斜面を流れていた。
自身が汚れぬのも構わずに、山犬は猪の下に顔をねじ込ませ、巨大な体躯を何とかして立ち上がらせようとする。
しかし上手くいかない。類い稀なる知恵を有し、同族の仲間たちと比べて圧倒的に長く生きてきたとはいえ、その山犬はあくまで山犬だった。たかだか一匹の力では、自分の数倍もある巨体を動かすなど到底不可能であった。
『無駄に消耗するでない。お主とて疲れておるだろうに』
『……むう。ですが、このままでは』
諦めようとしない山犬へ、猪神は穏やかに語りかける。
『よく聞くのだ。見ての通り余はもう長くない。どうにも落ち着きのない、波瀾万丈の命であったがな、最期くらいは静謐に看取って欲しいのだよ』
『……いえ、いえ! どうか泣き言はおやめください。ただちに御身の地へと帰還すれば、この程度の傷などたちどころに治してしまえるでしょう!』
『その通りだの。だが今の余にとって、高千穂の山はあまりにも遠すぎる』
諦めか、それとも年の功故か。這い寄る死にも動じることなく、猪神は喉を震わせて笑う。その拍子に口から血が噴き出して、目の前のツツジをびしゃりと濡らした。呼吸は回を重ねるごとに浅く、そして弱々しくなっていく。
『……終わりの前に、余はすべきことを為しておかねば』
瞳孔の開きつつある瞳で山犬を見つめて、猪神は呟くように口にした。
『近う寄れ、マヤ。比類なき我が友。余はこの時より、己が神の座をお主に委ねるものとする』
『……何を。私にそのような大役など』
『務まらぬと申すか? ならば、他に何者がおろう』
『私はあなた様と比べて無力です。この国はおろか、眼前の御身を救うことさえ能わない』
『最初から無欠な神などおらんよ。余や、朽ち果てた神獣たちが皆そうであったように』
猪神が愉快そうに鼻を鳴らす。どうしてそこまで余裕を持っていられるのか、隣の山犬にはまだ分からなかった。
今の猪神をかろうじて生かしているのは、紛れもなくその身に宿す神としての力だった。それを他者へと移譲すれば、猪神は間違いなく命を落とす。しかしこのまま放置したところで、事態が好転しないのもまた明白であった。
それを理解している以上、山犬としては、渋々その場に跪く他ない。
『陽気なお主と過ごした日々は、実に楽しいものであった』
『光栄にございます』
『いまわの際くらいは、その堅苦しい敬語を取っ払っても構わぬぞ?』
『……ならば言うがな、猪神よ。ああするのが最善であったとはいえ、少しくらいはこの私に相談があっても良かったのではないか? 猪突猛進に過ぎる』
『ふはは。それは仕方ない。いかなる壁にも、正面から突撃してなぎ倒す。これこそ余の生き方であるが故に』
『存じているとも。おかげで私が迷惑した』
屈託のない口調で山犬は応える。別れを惜しむのも悪くない。しかしおそらくこの猪神は、涙より笑いで看取られる方を好むだろう。
顔を重ねる。猪神の霊力が、少しずつ山犬へと流れ込み始めた。
『――極楽にて待っている』
それが最期の言葉だった。
対する最期の返事はこれだ。
『ならば私は、しばし遅れて参上しよう』
猪神に届いていたかは、今となっては知る術さえない。




