神の血肉を苗床に
信仰の大元を断ち、蛇神を兵糧攻めにする。
そんな計画を楓から聞かされたとき、木崎加奈は「おもしろい」と思った。
力技で敵をねじ伏せるのではなく。卑屈に、小賢しく、コソコソと地を這い靴を舐め。泥水を啜りながら機を窺うような戦法。木崎好みの搦め手で、成功率もそこそこ高い。何より自分たちは安全だ。だからこそ彼女はその案に乗っかった。
蛇神の陽動を楓たちに委ね、夫と一緒に村人どもをぶちのめす。洗脳の解除は木崎が受け持った。最初は手間取る場面もあったが、回数を重ねる内に慣れていった。
二人対、少なくとも数百。数だけ見れば勝ち目など無いように思える。
だが実際は、百人いようが二百人いようが、その全員が一斉に飛び掛かってくるわけではない。一度に迎え撃つのは二、三人。戦闘に長けた妖狐たちが負ける筈もなく、鎧袖一触。結城だけで迎撃が追い付いた。
かくして二人は、蛇神に操られた哀れな人間たちを切った貼ったとなぎ倒していき――。
「はぁ、はぁっ……よ、ようやく、終わりました、ね」
今に至るというわけだ。
「あぁぁぁぁああん……もう、無理ですっ。イヤッ! 働きたくありません! 残業代はどこに申請すればいいですか!」
「……叫んでると余計に疲れんぞ。大人しくしとけ」
草の上に寝転がってため息を吐く木崎に、隣から結城が声をかける。
仕事自体は楽なものだったが、いかんせん量が多かった。
洗脳を解くためには、まずそいつを気絶させ、それから暗示を上書きしなくてはならない。一つ一つの労力は僅かだが、塵も積もれば何とやら。結城は体力を消耗し、木崎は霊力を磨り減らした。正直に言ってヘトヘトであった。
「こんだけ頑張ったんですから、あっちもキッチリ決めてくれるんでしょうねぇ」
「決めてくれなきゃ困るわな。俺の勘では大丈夫だと思うが」
「へぇ、何か根拠があるんですか?」
「楓は土壇場で強くなるタイプだ。俺らもそれで負けただろ」
「だから今回も負けない、と。嫌ってんのか信頼してんのか、一体どっちなんでしょう」
苦笑する木崎。結城にしてみれば、答えにくい二択だった。
楓に対する恨みがある。その一方で、かつて我が身を殺さずに生かし、今回手を貸してくれたことへの恩義もある。相反する気持ちに挟まれて、どうすればいいのか自分でも分からず、イライラする。それが結城の本音だ。
「……どっちなんだろうな」
一人言のように結城が呟く。タイミング良く、視界の端に起き上がろうとする村人を見つけたので、ぶん殴って再度意識を飛ばした。
戻ってきた結城の腕を、木崎がチョイチョイと横からつつく。
「ここ、ほっぺのとこ。返り血が付いてます。ハンサムな顔が台無しですよ?」
「ハンサムって……ま、まあ、おう。お前にとっちゃ、そうかもしれねえけど」
「舐め取ってあげましょうか?」
「手でいい」
「もう、照れ屋さん」
などと人目も憚らず、妖狐たちが白昼堂々イチャつき始めたときだった。
「……結城くん」
「ああ、俺も感じた」
揃って顔を上げ、蛇神の社がある山の方角を見る。
「少し……揺れたな」
※
地震の二文字が脳裏によぎった僕は、反射的に上半身を起こして、辺りを見回した。
ついさっき。謎の音とほぼ同時に、振動がやってきた。ズン、という、巨大な何かが蠢いたような波が、一度。だがそれは連続することはなく、すぐにまた静寂が戻ってくる。
気のせいか……?
「楓、今の」
「……ああ、君も感じたんだね。なら夢じゃないか」
眉をひそめて呟いた直後、山頂側から突風が吹き付ける。十一月とは思えないほど生温く、湿っぽい風。急にここだけ梅雨に戻ったみたいだった。
嫌な予感を覚えて立ち上がったところで、こめかみに刺すような痛みが走る。
僕は思わず唇を噛み締めた。脳内でアラートが鳴り響く。それは理屈ではなく、直感に由来する本能的な警告。大抵の場合は正しいと、前に黒羽が教えてくれた。
――来る。
姿は見えない。だけど確かに近付いてる。
「楓、備えろ」
「……とっくに」
正体不明の脅威を前に、身体は自然と戦闘態勢を取っていた。黒羽と互いの背中を重ね、全方位に油断なく視線を走らせる。
そのとき僕は、吸い込む空気の中に妙な匂いが混ざっていることに気付いた。
甘くはない。臭くもない。例えるならそう、手で揉み潰した草木の汁を、数倍に濃縮して浴びせられたような感じ。心地が良いとはお世辞にも言えなかった。
「何だこれ……植物?」
「みたいだな。どこから漂ってくるんだ? 楓、近くに怪しいものはないか」
「いいや。そっちは?」
「さっぱりだ。ったく、一体どうなってる」
黒羽の舌打ちに応えるかのように、地面がもう一度、今度は前よりもハッキリと揺れる。注意していたおかげで震源地まで分かった。
僕たちのすぐ近く――横たわる蛇神の真下からだ。
「下がってろ。私の後ろへ!」
黒羽はそう言って、僕を庇うように前に出る。
頭上を仰げば、社の上空で黒雲が渦を巻き始めていた。世界にさあっと影がかかる。今に雷でも鳴り響きそうな雰囲気だ。
突然、蛇神が動き出す。目をカッと見開き、僕たちの見ている前で、何事も無かったように起き上がった。
嘘だろ、目覚めるのが早すぎる。こうなったらもう一度気を失わせて――。そう思い、足を踏み出した僕だったが……すぐに、違和感を覚えて立ち止まった。
様子がおかしい。僕たちを馬鹿にしたような態度は消え失せ、だらしなく舌を外に出し、荒い呼吸を繰り返している。カラクリじみた動きで鎌首をもたげたかと思えば、途端に仰け反って白目をむいた。
これは……苦しんでるのか?
そう考えたとき、蛇神の身体が痙攣を始めた。最初は小さく、けれど次第に激しくなって。唖然として言葉を失った僕たちの前で、蛇神の狂行はまずます強く、手の付けられないものになっていく。
陸に上げられた魚のように、あるいは滅茶苦茶に振り回した鞭のように、巨体が暴走する。直線状に伸びたかと思えば、次の瞬間には崩れ、丸まり、のたうち回る。しなる尻尾が周囲の石灯籠をことごとくなぎ倒す。いつしかその鱗は灰色にくすみ、隙間から水っぽい赤色の液体が滲み出ていた。
堪らず距離を取る僕たち。何が起きてるのか分からない。こんなのを見たのは、僕も黒羽も初めてだった。
「コォー……ズズズズズガガ……我、は。神、な、なななななななり」
顎まで開かれた真っ赤な口から、壊れた機械のような声が流れ出てくる。
コミュニケーションが取れないのは明らかで、かといってこのまま静観するわけにもいかない。
確信にも似た予感があるのだ。放置すれば、間違いなく事態は悪化する。……その先は? こいつを放っておいたら、最終的にどうなるって言うんだ?
「我は我に我と我を我は我に我と我を我は我に我と我を我は我に我と我を我は我に我と我を我は我に我と我を我は我に我と我を我は我に我と我をわわわわわわわわわわ――」
骨の折れるメキメキという音が、ひっきりなしに鳴り響く。蛇神の口から吐瀉物が溢れ出した。胃液と、血反吐。それに混ざるのは僅かな未消化物に、植物の根に見える何かの切れ端。生臭い匂いに鼻がもげそうだった。
目を覆いたくなるような惨状の後、蛇神は急に大人しくなった。悪いものを吐き出したおかげで、回復したのかもしれない。そんな考えを一瞬だけ抱きかけ、またすぐに、それが希望的観測であったことを思い知らされる。
バキリ、と。ひときわ大きな破砕音に続いて、蛇神の背が直角に折れた。後ずさりする僕たちを、蛇神は深紅の瞳で正面から見つめ、そして……。
「――逃げなさい」
いつかのような優しい声で、確かにそう言った。
「……え?」
状況が掴めず困惑する。逃げろ、だって? 何で今になってそんなことを。……いや待てよ。もしかして蛇神は――。
とある可能性が脳内に芽生えたそのとき、蛇神の背中が、まるで体内から圧迫されているみたいに盛り上がった。宙を貫いて響くのは、地獄から込み上げてきたかのような甲高い断末魔。瞬間、頭の中で可能性が確信に変わった。
「――中だ! 中に何かいる!」
叫んだ瞬間、大蛇の背が縦に裂けた。
噴水のように血液が吹き出す。力尽きた白銀の巨体が、ドサリと地面に突っ伏した。瞳は今や光を失い、再び動き出す気配は無い。
ブチリ、ブチリ、グチュリ。肉組織の千切れる音が断続的に聞こえた……まさにその直後。
そいつは、裂け目をこじ開けて現れた。
「……嘘だろ、こんなのって」
驚愕。そしてそれ以上に、圧倒される。
そいつの造形を一言で表わすならば――“植物の塔”。紡錘形の葉を備えた、太さも長さもバラバラの蔦の集合体。お互いに絡まり合い、灯台を思わせる形で直立している。大きさは蛇神と同等か、少し小さいくらい。けれどそれは、あくまで目に見える範囲での話だ。植物は蛇神から生えている。根の部分も含めた全長は、おそらくもっと大きいだろう。
何よりも目を惹いたのは、植物の側面に散らばる無数の花のつぼみだった。一つ一つは丸っこくて黄色い。それが数個ごとにまとまって点在している。開花こそしていないが、ほとんどが開きかけだった。
ハッと息を飲む。蘇ってくるのは、僕がまだ中学生だった頃の記憶。
同じ見た目の植物が、僕の通っていた学校にもあったのだ。校庭の端、桜の木。下から二番目の枝分かれに、黄緑色の枝葉がこんもりと丸く茂っていた。その下で好きな人に告白すれば、必ず成功するというジンクスもあって、生徒たちの間では密かな人気者だった。
そう、こいつは――。
「ヤドリギだ」
「らしいな」
小さく頷いた後で、黒羽が付け加える。
「寄生、してたんだ。初めからずっと。楓が蛇神を倒して、宿主の身が危うくなったから、慌てて外に出てきた」
「僕も同じ意見だよ。だけどこれは……ただのヤドリギじゃない、よね」
「ああ。妖怪、にしても大きすぎる。汝なら感じ取れるだろうが、こいつの霊力、そこらの神木よりよっぽど強いぞ」
強いなんてもんじゃない。明らかに別格だ。高千穂でのマヤと同レベル、もしかするとそれを上回るかもしれない。
足の震えには知らぬフリをし。僕は意識を草体に集中させ、敵の力を推し量ろうとする。塔の根元、鬱蒼とした枝葉の内部に、ブラックホールのような黒い球体を見た気がした。けれど直後にドス黒い波動が押し寄せてきて、僕は嘔吐きながらその場に膝をつく。
全身から汗が噴き出した。駄目だ。これは駄目だ。戦えば、死ぬ。殺されるっ……!
「――危ない!」
黒羽が僕を押し倒す。同時に、ヒュッと風を切る音。蔦の一つが鞭のようにしなって、僕の頭上、わずか数センチの距離を薙ぎ払っていった。
「大丈夫か!?」
「う、うん」
「よし。――おい貴様、私の楓に何をする!」
怒りを露わに黒羽が怒鳴れば、ヤドリギの枝葉が一斉にザワつき始める。
きっと笑っているのだろう。無力で矮小な僕たちを。
「黒羽。戦っちゃ駄目だ、下がって」
「……っ、分かった。だがどうする、命乞いでもしてみるか?」
「……最高の案だね。無理だろうけど」
速攻で攻撃してきた辺り、話が通じるとは思えない。そもそもこいつに耳はあるのか?
「カラカラ、ヒュルラリン、ラリラリララロン、ピロララ」
エレクトーンを無茶苦茶にかき鳴らしたような声で、怪物が鳴いた。更に蔦が、今度は二本、僕と黒羽を狙ってくる。黒羽は一瞬だけ迷った顔をしたが、結局僕をお姫様抱っこしたまま、転がるようにして攻撃を回避した。
「急々如律令、斬!」
黒羽が援護してくれる内に急いで立ち上がる。蔦の一つが、半ばから切り落とされるのが見えた。右から襲ってきた別の蔦は、僕が回し蹴りで弾き飛ばす。続けて上から三本。僕と黒羽で一本ずつ打ち返し、残りは身体を反らして避ける。だがその間にも、別方向から追撃が迫っていた。
攻撃自体は至って単調。だが手数が多すぎる。
「キリが無いな……。黒羽! 逃げるよ!」
「賛成だ。逃げられればの話だがな!」
蔦を迎撃しながら僕は周囲を見渡す。その時だ。身体に危険信号が駆け巡る。僕たちを取り囲むように地面が割れ、開いた穴から無数の蔦が伸びてきた。どうやら、地中を通って回り込んでいたらしい。
全身の筋肉が硬直する。まずい。そう分かってもどうにもならず。気が付けば、僕と黒羽は蔦で出来た檻の中に閉じ込められていた。
「シャラララ、リリルルッ、リリリ!」
得意げに騒ぎ立てるヤドリギの怪物。見る限り口らしい口はない。全身を震わせて音を出しているのか? と一瞬だけ考えもしたが、すぐに頭を回している余裕は消えた。
上から。
下から。
前から。
後ろから。
絶対的な包囲陣。ありとあらゆる方向から、絶対に捌ききれない量の蔦が僕たちに狙いを定めている。その先端は槍のように鋭く、鱗のような組織に覆われていた。あれに貫かれれば……多分、生きてはいられないだろう。
どうする? どうすればいい? 焦燥に駆られて歯軋りをする。しかし僕が打開策を導き出すより先に、ヤドリギの怪物は攻撃を開始した。
全身から血の気が引いていく。回避、無理。防御も無理。どう動いても一撃は食らう。すなわち、僕と黒羽の少なくともどちらかが死ぬ。だったら……。
「――砕けよ!」
黒羽だけでも守ろうとした刹那、小規模な爆発が連続して起こった。蔦の軍団が、あるものは巻き込まれて粉砕され、あるものは直前で切り返して離れていく。突然の出来事に放心状態となった僕の横で、蔦の格子が目に見えない力で引き裂かれた。
そこにいたのは――。
「え……犬?」
「“神”を付けんか、無礼者」
口の端を持ち上げて笑う、一匹の獣。大きさは普通の柴犬くらいだが、その体毛は平凡から程遠く、美しい白銀の輝きを放っている。加えて、神々しい雰囲気に拍車をかける黄金色の瞳。素性を知らない人が見れば、自ずと地面に跪いてしまいそうな威厳がある。
「久しぶりじゃな。土産話に花を咲かせたいが、生憎とその余裕は無いらしい」
僕に主の座を譲った、高千穂の神獣。大先輩にしてお義父さん。銀狼マヤは懐かしそうな目で僕たちを見つめた後、喉を震わせ高らかな遠吠えを上げた。
「総員、一時撤退じゃ。この儂が退路を切り開く。続け!」




