vs黒羽
次の瞬間、黒羽が飛んだ。
翼を羽ばたかせて急上昇し、加速して僕の元へ突っ込んでくる。慌てて飛び退いたコンマ数秒後、さっきまでいた場所に強烈な踵落としが炸裂した。
土が散り、落ち葉が舞う。特訓のときとは明らかに違う、正真正銘本気の一撃だった。
「……っ、おい黒羽! 何してる!」
「……」
「黒羽!」
やっぱり反応が無い。聞こえないのか、無視してるだけか。どちらにせよ、正気を失っているのは確かだ。
黒羽が距離を詰めてくる。迎え撃つべきか迷った結果、僕の対応はいつもより遅れた。繰り出されたローキックを寸前で受け止め、その次の回し蹴りは上体を反らして回避。更に足払い、蹴り上げと続くが、これは何度も見たパターン。大丈夫、今の僕なら受け流せる。問題はここからどうするか。
黒羽を傷付けずに済む方法があればいい。だって彼女は操られてるだけなのだ。そうでなくても、好きな人を殴るなんて、僕には……。
「殺す」
「うぐっ!?」
考えていたら一発くらった。脇腹に膝蹴り。肉体のぶつかる鈍い音と共に、僕の身体が揺らぐ。
「楓……殺す殺すころすころすコロス……!」
ブツブツと呪詛を撒き散らしながら、黒羽は攻撃を強めていく。叶うなら耳を塞ぎたかった。
「死ね」
「やめろ」
「死ね、しね、シネ……!」
「やめろ! うるさい黙れ!」
聞きたくない。黒羽の言葉が本心じゃないと分かっていても。殺意に狂った恋人の姿は、見てるだけで心が痛くなる。
「ほれ、どうした人間。先程の勇ましさは何処へ消えた?」
「……っ、このクソ蛇! よくも黒羽を!」
「そう喚くな。無駄口を叩く暇は無かろうに」
癪に障る声で嘲笑を浮かべる。悔しいがこいつの言うとおりだった。
黒羽への対処で手一杯な僕など、その気になればいつだって吹き飛ばせるのだろう。どうにかしたいが今のところ打開策は無い。実に面倒な展開になったものだ。
「く……ああもう! 正気に戻れ黒羽!」
「殺す」
「黒羽! いい加減にしろ聞こえてんだろっ!」
耐えきれず怒鳴る。返ってきたのは飛び蹴りだった。
両手を胸の前で組み、防御態勢を取る。ミシリ、と骨が軋む音。弾き飛ばされそうになるのを何とか堪え、僕は全身をバネのように使い、黒羽の身体を上空へと押し戻す。
「……ああそう、聞き耳持たずってわけ。だったら……しょうがないな」
実力行使だ。良心の呵責に目を瞑り、僕は大きく息を吐く。
「かかって来なよ。相手になってやる……!」
僕が半身になって構えれば、黒羽は数秒間、様子を窺うように空中で静止した。
空に逃げられれば為す術が無い。しかし遠距離からの攻撃手段に欠けるのは向こうも同じだ。殴りたければ自分から近付くか、相手をこちらの間合いまで誘い込むかだが……この場合、正解は後者だろう。
「ほらどうしたの? 僕はここにいるよ。殺したいんじゃなかったの?」
これ見よがしに手を叩いて煽る。案の定、黒羽は挑発に乗ってきた。
真上からの踏み付け。慌てず横に跳んで回避する。頭狙いには姿勢を落とし、中段への攻撃は前に出て抑える。僕だってこの三ヶ月、伊達に稽古を付けて貰ってたわけじゃないのだ。
身体は激しく動かしつつも、思考は冷静に。蹴りと拳の応酬を続けながら、僕は黒羽の隙を窺う。
天使の羽は背中から生えるが、黒羽の場合、腕か翼の二者択一だ。半人半鳥の形態になれば、繰り出せるのは必然的に足技ばかりとなる。
キックはパンチより高威力。けれどその分……大振りだ。
「――そこ!」
タイミングを合わせ、黒羽の蹴りを腹筋で受け止めた。腕を彼女の足に巻き付け、そのまましっかりと抑え込む。
捕まえた。
「っしゃ! 大人しく――」
だが喜べたのも束の間。ふわり、と黒羽が宙に浮かび上がったかと思えば、身体を横に回転させ、僕のうなじに膝を叩き込んでくる。完全に不意を突かれた僕は、哀れ無様に地面へと突っ伏した。
グワングワンと視界が歪む。痛い。歯を食い縛って立ち上がりかけた矢先、今度は鳩尾を蹴り上げられた。内臓を潰されるような感覚と共に、僕の身体が一瞬だけ浮く。
「げほっ! ぐ、くっそ……!」
空咳をすれば、口の中で鉄の味が広がった。
吐血したのか。朦朧とした頭でそんなことを考えたとき、頭上から猛烈な殺意が迫ってくる。
慌てて転がって避けようとしたが、時既に遅し。黒羽は両脚で僕の胴体を掴むと、万力のような力で容赦なく締め上げ始めた。
「しまっ……! 放せ!」
「断る」
「何を――ぐはっ!?」
身体が宙に持ち上げられたかと思えば、叩きつけられた。瞼の裏側で星がチカチカと瞬く。拘束から逃れようと足をバタつかせるが、再び地面に叩きつけられ、危うく意識が遠のきかけた。
二日前の夕方。黒羽との稽古の記憶が浮かぶ。
あの時も確かこんな感じだった。背後から掴まれ、地面に押し倒されて負けたのだ。僕の力じゃ彼女の脚からは抜け出せない。こうなってしまった時点で、勝敗は決したも同然なのである。
――昨日まではそうだった。
右手に意識を集中させ、呼吸を整える。上手くいくかは怪しいが、今の僕に迷っている暇なんて無い。
木崎曰く、大事なのはイメージだ。
自分の体内を流れる霊力。それを腹の中で一つに纏め、腕を通して掌まで押し出すように。そして圧縮された力が外へと溢れる寸前、脳内で青白い輝きを想像し、そのエネルギーに確固たる形を与える。
右手がじわりと熱を持つ。目標、黒羽。気合いを込めて叫んだ。
「――“燃えろ”!」
青い炎が噴き出して、黒羽の身体を一息に包み込む。
「っ!? うわぁああぁあぁあ!?」
頭上から狼狽した悲鳴が上がる。圧迫の弱まった一瞬の隙をつき、僕は彼女を思い切り弾き飛ばした。炎上停止。火傷になる前に素早く消火し、黒羽が体勢を整えている間に僕も立ち上がる。
黒羽には秘密にしていた、木崎との特訓の成果がこれ。自身の霊力を変質させ、指定したものだけを熱する狐火の術だ。いや、ここは鬼火と言うべきだろう。僕は狐じゃないもんな。
「……ごめんね黒羽。出来るなら君には使いたくなかった」
怯えたような表情の恋人に、小さな声で謝罪を送る。
彼女にとって、この炎は因縁の相手が使っていた技だ。見ていて気持ちの良いものではないと思う。トラウマを想起させてしまうかもしれない。
……それでも。
それでも僕は。君を取り戻すためなら……!
「“燃えろ”!」
「……ッ!?」
腕を振るい、火球を投げる。所詮は付け焼き刃、不慣れなせいで上手いこと威力が出なかったが、初めから当てるつもりはない。目的は牽制だ。
再び地を蹴る。相手のキックは手を使って流し、勢いのままに彼女と擦れ違って、反転。背後から首に腕を回した後、絞め上げるようにして地面へと引き倒す。普段の抱擁と見かけだけが近くて、中身は似ても似つかない格好。
逃がさないよう胴体に足を絡める。黒羽の身体の強張りが痛いほどに伝わってきた。
「かはっ……あ……」
見開かれた瞳。弱々しい喘ぎ声。必死に藻掻いて拘束から抜け出そうとする姿。それら全てが僕の心をドス黒いもので塗り潰していく。けれど躊躇うことはない。
胸が張り裂けそうになりながら、黒羽を絞める腕に力を込めた。数秒、そのまま。そうして僕の大好きな人は、完全に意識を失った。
「ふむ。もうしばらく長引くかと思うたが。存外に早く決着が付いたようだ」
他人事のような声が降ってくる。僕はそれには応えず、恋人の身体をその場に横たえて、立ち上がった。
「……殊勝な顔をしているな、人間。愛する者を弄ばれたことへの怒り。そして我に対する憎しみか。良い、実に良いぞ。命を賭ける戦いとは、激情に彩られてこそ美しく輝くもの」
「黙れ。お前の御託は聞き飽きた」
切り裂きの術を放つ。鱗が裂け、血液が飛び散った。蛇神は気にする様子もない。
「“鉄槌”」
「そんなの当たるか! ほらこっちだ!」
「“雨”。“嵐”。“雷”」
走る僕。水が、風が、電流が押し寄せてくる。それらを回避すれば次は、死角から迫る尻尾の一撃。気付いたが反応が間に合わず、弾き飛ばされた僕は草むらの中へと転がった。
「……つぅ、痛いな。やってくれる」
「小さき者よ、なにゆえ未だ諦めぬのだ。汝では我に敵わないというのに」
「ハッ、余計なお世話。そんなのこっちだって分かってんだよ」
悪態をつく。吐き出した唾には血が混じっていた。手の甲で口元を拭いながら、僕はついさっき術を打ち込んだ場所、蛇神の喉を確認する。
そして思わず――微笑みをこぼしてしまった。
「この期に及んで笑う余裕があるとはな。なんぞ気でも狂うたか」
「……いいや? 生憎、僕はまだ正気さ。むしろ変なのはそっちじゃないかな」
「どういう意味だ?」
「気付いてないのかい?」
問い返してから、白い巨体を正面から見つめ返す。本人に自覚は無いのだろうが、対峙している身からすれば違いは一目瞭然だった。勝利を確信した僕は、軋む身体を叱咤激励して、戦いを続けるべく身構える。
この時を待っていたのだ。
「お前の力、僕たちがここに来た時と比べて弱ってる。現にほら。さっきの傷、まだ治っていないじゃないか」




