柔よく剛を制す
視線を蛇神に向けたまま、僕は全力で地面を蹴った。
黒羽と二手に分かれ、相手の後ろへ左右から回り込むように近付いて行く。蛇神は一瞬だけ迷う素振りを見せたが、すぐに頭部を黒羽へと向け、飛翔する彼女に攻撃を加えようとした。
僕に背を晒す格好だ。
「急々如律令、斬!」
そこですかさず印を組み、最大威力で切り裂きの術を放つ。僕の手から放たれた真空の刃は、間を置かず蛇神の背中に殺到し。純白の鱗を赤黒い体液で汚した。
だが予想通り……効果は薄いらしい。傷はそこまで深くなく、僕の見る前でまたたく間に塞がっていく。さすがは神格の生命力と言ったところか。
「笑止。その程度の火力では、我が心臓に届かぬぞ」
「……どうかな」
走りながら応えれば、蛇神が僕の方に向き直る。赤い瞳に見つめられ、本能的に背筋が寒くなるが、足を止めれば狙い撃ちされるだけだ。更に二度、今度は弱めに術を放って、敵の意識を完全に自分へ引きつける。
「よし――今だ黒羽!」
「分かってる!」
死角から強襲をかける黒羽。回し蹴り、からの身体を捻って踵落とし。体重を乗せた渾身の一撃が、鈍い音を立てて蛇神の眉間へ命中した。
「どうだ!?」
「……おのれ小娘、賢しらな真似を!」
蛇神が黒羽を打ち落とそうとする。だが速度に関してなら、彼女は一枚も二枚も上手だ。空を飛び、素早く相手の間合いから抜け出す。そうして蛇神が背中を見せたところへ、僕は再び切り裂きの術を打ち込んだ。
蛇神がこちらを向けば、黒羽が再度、上空から攻撃を仕掛ける。黒羽を狙えば、その時は僕のターンだ。目標は大きい。外そうにも外せない。
一定の距離を保ちつつ、蛇神の周囲を回るように移動。交互に相手の注意を引き、ヒットアンドアウェイの繰り返しで攪乱していく。
敵は巨大だが動きは鈍い。戦い方を工夫すれば、ある程度は力量差を縮められる。人間が蚊やハエに手こずるのと同じだ。
それに――。
「……やっぱりね。思った通りだよ」
近くの木を盾にしながら呟く。深紅の瞳が忌々しげに僕を睨んだ。
「あなたの攻撃は強力だ。直撃を受ければタダじゃ済まない。だけど視界に入ってる範囲しか狙えないんだろう? そうじゃなきゃ今みたく、デカい頭をキョロキョロと動かす必要は無い筈だからね」
「……小僧が。キャンキャンとやかましいぞ」
「“厄介だ”って正直に白状したら? それともプライドが許さない?」
「やけによく吼える虫ケラだな。舌を抜けばさぞ静かになろう」
恐ろしいことを言ってくれるものだ。
今のところ、押してはいる。……ように見えるが、実を言うとそうでもない。
墜ちても老いても一流の神獣。不死身の象徴に相応しく、蛇神の再生力は文字通り桁違いだった。黒羽の打撃も僕の術も、傷は付けられるのだが瞬く間に回復されてしまう。
加えて、相手の攻撃は即死級と来た。お世辞にも優勢とは言い難い。良くて精々、膠着状態ってとこだろうか。
「“鉄槌”」
「――っと! あっぶな……!」
走り続けるすぐ後ろ、不可視の力で石灯籠が粉々に砕けた。
「“風”」
間髪入れずに蛇神が詠唱すれば、僕の足下に強烈な上昇気流が生じる。抜け出す間もなく上空に打ち上げられた僕だったが、咄嗟に近くの枝を掴んで、吹き飛ばされるのだけは何とか阻止した。黒羽が攻撃するタイミングに合わせ、地面に飛び降りる。
続けて、蛇神が何かを吐き出した。灰色の霧のようなものだ。それに触れた植物は一斉に急成長した後、たちまち力尽きたように枯れて朽ち果てていく。……毒か? 吸い込んだらまずそうだな。
黒羽に合図を送ってから、僕は息を止めて風上に逃れる。反撃に何発か術を打ち込むが、やはり致命傷にはならなかった。姑息でささやかな抵抗を続ける僕たちに、蛇神は哀れみを帯びたような目付きで笑いかけた。
「狐どもを陽動に回して、この始末とは。神の力を有していれど、所詮は人間。期待外れであったな」
「……はん。あまり人間を舐めるなよ。窮鼠、猫を噛むって諺もある。人間に噛まれると痛いんだから」
「誇りだけは一人前に持つか。その割には防戦一方のようだ。用意したのは減らず口だけらしい――“鉄槌”」
「……っ、斬!」
「効かぬ。痒いわ」
「斬! 斬っ!」
「効かぬと言うたであろう? いい加減それしか出来ぬなら……もうよい」
蛇神の声が低くなり、その双眸が怪しく煌めく。その背後から、追撃を仕掛けようと黒羽が接近する。嫌な予感を覚えた僕は、慌てて彼女に警告を発しようとした。
だが遅かった。
「飽きた」
カクッ、と。機械仕掛けの人形のように、蛇神の首が真後ろへ折れ曲がる。
黒羽は即座に旋回を試みた。けれど彼女が蛇神の視界を抜け出すよりも先に、紅い瞳から一筋の閃光が放たれて、逃げようとする彼女を背後から射止めた。
拡散する光が黒羽を飲み込む。そしてそのまま、僕の見ている前で、彼女の身体は空中に固定され、不可視の力で大の字に引き伸ばされ始めた。
「うぁ、ああぁあぁあ!?」
絶叫が森の中に響く。血の気が引いていくような感じがした。
「黒羽!」
「烏の娘よ、驕るでない。翼を閉じろ。拳を解け。頭を傅き我が軍門に下れ!」
「ぐぅ……貴様、何を――っ!? あ、がぁああぁああ!?」
「黒羽ぁ! くそっ……彼女を放せ!」
曝け出された蛇神の喉を目掛け、僕は切り裂きの術を放った。命中。流れ出た血液が純白の表皮を赤く彩る。だが蛇神はそれを意にも介さない。ならばと同じ場所に数発、出来た傷を更に抉るようにして打ち込むが、やっぱり駄目。苦しむ黒羽を救えないまま、時間だけが無慈悲に過ぎていく。
やがて、不意に閃光が途絶えた。
力なく地面に落下する黒羽。咄嗟に駆け寄って手を伸ばす。何とか受け止めた彼女の身体が、魚のようにビクンと震えた。
「黒羽っ! 大丈夫!?」
強張った声で名前を呼べば、黒羽の口から呻き声が上がる。目立った怪我こそ無いものの、結構なダメージを受けたのだろう。
キスして回復させるか? いや駄目だ、そうすれば蛇神に隙を晒す。この状況下じゃ自殺行為だ。ならばここからは僕一人で――。
……と、そんなことを僕が考えていると、黒羽の瞼が唐突にパッと開いた。
良かった無事だ。思わず肩を落としかける。けれど直後、彼女の様子にいつもとは違う何かを感じて、緩みかけた緊張の糸が再び張り詰めた。
「黒、羽……?」
端整な顔に視線を落とす。違和感の正体にはすぐに気付けた。
「赤い……光」
蛇神に操られていた村人たちと同じ。妖艶さ漂う深紅の煌めきが、黒羽の身体に蛇のごとく絡みついていたのだ。
その意味を悟ったとき、僕は頭から氷水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。
身体を回転させ、僕の腕から鮮やかに抜け出す黒羽。足早に距離を取って、正面から僕に向き直る。
「お、おい黒羽。どうしたんだよ」
呼び掛けるが返事はない。それどころか彼女は腰をかがめ、翼を広げて戦闘の体勢を取った。
黒羽の美しい漆黒の瞳が、ドス黒い赤で汚されている。そこにあるのは好意にあらず。これまで彼女が一度とて僕に向けることの無かった感情。
怒り、憎しみ、そして……殺意だ。
「終には果てる運命なれば、せめて神の目を楽しませてから逝くといい」
呆然となった僕を見下すようにそう言って、蛇神は高らかに哄笑を発した。
「御前試合の幕開けだ。“殺しあえ”」




