黒羽と結城
昔、まだ普通の烏だった頃の私は、未来というものに興味がなかった。
今を生きるだけで精一杯だったからだ。
少し前まで、妖怪として楓をストーキングしていた私も、やっぱり未来には興味がなかった。
一度は死んだ身である自分に、大層な未来なんて見出せなかったからだ。
だからこそ。自分がこれからどうなるか、なんて、あまり考えたことはなかった。
楓と一緒に暮らし始めて、それが変わった。未来を意識するようになった。好きな人と過ごす大切な今が、どこまでも続いて欲しいと願うようになった。ちなみにここまでは惚気話だ。
幸せに手に入れた一方で、苦悩も生まれた。
未来は見えない。
神様にだって見通せない。
今までは、だからどうしたという心持ちだったのに、最近なぜだか不安を覚えてしまう。誰かが傍にいれば大丈夫。けれどこうして独断で廃工場の屋根に上って、一人孤独に見張りをしてたりすると、ついつい思考がネガティブな方向に傾いていくのだ。
「まったく、私らしくないな……」
楓は私に憧れを抱いている。こんな一面を知ったら、どう思うだろうか? 気にせず受け入れてくれそうだけど、やっぱり彼の前では強くてカッコいい黒羽でありたい。
「それならもっとシャキッとな、私」
頬を叩いて気合いを入れる。何をウジウジと悩んでるんだ。そんな暇があるなら、明日に備えて養生する方がよっぽど生産的だろうに。
幸い今夜は静かなものだ。視界が狭まる夜間の行動は、奴らも避けているのかもしれない。私が徹夜で見張らなくても良さそうだ。
もう寝るか? いや、それは流石にまだ早い。だったら楓に会いに行こうか。たしか見回りに出るって言ってたよな。そろそろ帰ってくる頃合い……む?
立ち上がりかけた私は、背後に気配を感じて振り返った。
「……いるんだろ。隠れてないで出てきたらどうだ」
敵じゃないことは分かってる。
軽い口調で呼び掛ければ、一拍の沈黙を挟んだあとで、煙突の影から宗像結城が姿を現した。
「やーれやれ。一人で夜風に当たるつもりだったんだが、先客がいらっしゃるとは驚きだぜ」
「悪かったな。村人どもが来ないか見張ってたんだ。ここなら下の道路がよく見える」
「そりゃご苦労なこった。で、様子は?」
「この通り平和さ」
「みてぇだな」
私の隣に宗像が腰を降ろす。一応、捕食者と被食者の関係だ。けれど性悪な嫁の方と比べれば、こいつは一回りも二回りも相手しやすいように思う。
楓は感情が声に出るが、こいつの場合は顔に出るタイプなのだ。つまりそれだけ分かりやすい。
……とはいえ、進んで仲良くしようとはならないが。
「しっかし、思ってたより大事になってきたなぁ」
話しかけられて無視するほど、あからさまに敵対する気もない。
「この一件を持ち込んできたのはそっちだろう。勝手に手を引いたら許さんぞ」
「へいへい了解してまさぁ。そこまで目くじら立てなくたって、別に俺らだけ逃げたりしねぇし、裏切る予定もねぇよ」
「ふん、どうかな。お前らには前科があるからな」
「協力はしても信用は無理ってわけか。ま、元は殺しあってた俺たちだ。そんくらいの関係でいいんじゃねぇの」
同感だ。私にとってこいつらは敵。親愛なんてなくていい。損得感情で付き合えば十分だろう。
「まあ……楓の方は、違う風に考えてそうだが」
「だろうぜ。あいつは何というか、気持ち悪いくらいにお人好しだ。気に食わねぇ。善人気取りの優男がよ」
「気取りじゃない、善人だ。私がそうなるように育てた」
楓のそこに惹かれたから。世の中の悪意で、彼の博愛が潰されないように。時には暴力的な手段まで使って、私は楓に近付く敵を排除し続けた。
自惚れかもしれないが、今の彼があるのは私のおかげだ。
一方で、私があるのは彼のおかげでもある。
大好きな人は歪まずにいて欲しい。それだけを願い、尽くしていたら、いつのまにか自分が歪んでいた。振り返ってみれば馬鹿みたいな話だ。
「アンタも健気だな」
「自分勝手だよ、私は。だから今だって悩んでる」
意識せずに呟いてから、しまった、と頭を抱えた。私は何を言ってるんだ。これじゃあ相談してるみたいじゃないか。
……いや、うん。するとしたらこいつしかいないんだけども。楓には、楓だからこそ言えないし、あの女狐など論外だからな。
「悩みぃ?」
「どうした意外か」
「俺はてっきり、日がな一日、乳繰り合って過ごしてんのかと思ったぜ」
「……貴様」
ふざけるなよ、こっちは真剣なんだぞ。軽薄な態度にイラッとくる。だけど真面目に応えられても、それはそれで何か不気味だ。ふざけ半分の方が気楽かもしれない。
嫁と違って脳筋な宗像のこと、碌な解決策も出せないだろうが……裏を返せばそれは、私が何を話そうと悪用はされないという保証でもある。丁度いい。聞き手になって貰おう。
「……楓は、私と関わるようになってから、変わったよ」
自分でも驚くほど弱い声で囁く。あしらわれるかと思ったが、宗像は黙って私の話に耳を傾けた。
「強くなりたいって言い始めた。そして実際に強くなった。このまま進めばそう遠くない内に、楓は私を越えていく筈なんだ」
「いいことじゃねぇか」
「そうだな。だけど……なんて言えば、いいんだろう。少し……寂しいんだ」
「寂しい?」
「ああ。だってそうだろ? 楓は強い私に惹かれた。なのに私より強くなったら、私の価値が今よりも薄れてしまうんじゃないか」
「大丈夫だと思うけどな」
「断定出来ないだろ。それに」
それに……。
「私は、楓に、いつでも守れるような場所にいて欲しいんだよ。強くなるのは構わない。だけど私の前に出て欲しくない。後ろがいい。これまでずっとそうだったみたいに」
言葉にしてみて何となく分かった。要するに、私は変化が怖いのだ。
今の暮らしが幸せすぎて。今の関係に満足してて。どんな形であれ、それが変わるのを恐れてしまう。
恋人の意思は尊重したい。私のために頑張る楓は、正直言ってとんでもなく好きだ。だけどそれと矛盾する思いも、私の中に確かに存在している。
ドロドロと濁ったヘドロのような。きっと、人はこれを独占欲と呼ぶのだろう。
「……私は、傲慢なんだ」
「重たいのは確かだぜ。でもアンタ、そう言いながらあいつを束縛しようとはしてねぇだろ。そんだけで十分、立派じゃねぇかな」
「だといいが」
「……俺だって、アンタと似たような悩みを持ったことはあるぜ?」
お前が? ……ああ、なるほどな。
「あの女狐か」
「おう。俺はあいつを守ってあげてぇんだけど、あいつ俺より強いだろ」
「勝ち目すら無いように思える」
「だよなー!? 実のところ無いんだわこれが!」
皮肉を込めたつもりだったんだが。なんで笑ってるんだこいつ。
「無力感に苦しんだ、ということを言いたいんだな。それで? そこからお前はどうしたんだ」
「諦めた」
「諦めた?」
「不甲斐ないけど、一緒にいられりゃそれでいいかってな」
「――っ」
吹っ切れたような宗像の言葉に、私はハッと息を飲む。
こちらの反応を片目で見てから、彼は続けざまに問い掛けてきた。
「なぁ、オトコ女」
なんてことない軽薄な口調で。
「楓を守りたいのか、一緒にいたいのか。アンタはどっちが一番なんだよ」
『私と一緒にいたい? ああそうか私も同じ気持ちだ!』
……いつかの記憶が脳内に蘇る。
そうだ、あれも。今夜と同じ、綺麗な月の下の出来事で。
本来の姿を剥き出しにして、意地でも楓を追い返そうとした私に、彼は怖くないと囁いてくれた。
好きだ、と。
これからも好きでいたい、と。
「……くく、はははっ」
私は、なんてくだらないことで悩んでいたんだろう。
楓を守りたい。その気持ちは嘘じゃない。だけどそれは、あくまで手段だ。どうやら私は愚かなことに、最も大事な目的を見失っていたらしい。
「一緒にいたい。それが私の願いだ」
きっぱりとそう答えれば、宗像はニヤリと口元を歪めた。
「だったら今のままでいいんじゃね。アンタが弱かろうが強かろうが、俺の知ってる楓は、恋人を捨てるような真似しねぇよ」
「当然だ。万一にも捨てさせてやるものか」
『言っとくが私は重たいぞ!』
『汝が私を嫌いになっても手放してやらんからな!』
そう宣言し、彼から頷いてもらえたからには。
楓が、私が、未来がどうなろうが構わない。
愛し、追いかけ、引っ張って。死ぬまで彼につきまとう。
しつこくて上等、それが私だ。私の在り方だ。二人の関係性なんて、考えてみればただの些末事じゃないか。
そして何よりも。
「カラスは離婚しない。一度心に決めた相手と、生涯を共に添い遂げるものなんだよ」
相手が人間でも、同じだ。
「うぇえ、女って怖えな」
「狐、今のは褒め言葉か?」
「そういうことにしとくぜ」
「お前の嫁には負けるがな。それはさておき、感謝する。おかげで吹っ切れた」
「どういたしまして。……ってか、何で俺、こいつの人生相談なんかに乗ってんだ」
「さぁな。同類相哀れむってやつだろ」
こいつと似たもの同士ってのは不服だ。だがまあ、今回ばかりは我慢してやるとしよう。
「ところで狐……いや、宗像。一つ確認したいんだが」
「お? いいぜ、言ってみろよ」
「貴様、楓に手を出すつもりはあるのか?」
訊いた瞬間、宗像の顔にサッと影がよぎった。
「何を言ってんのか分かんねぇ」
「とぼけるなよ。これでも敵意には敏感なんだ。今でこそ共闘しているが、貴様の中には楓への憎悪がまだ残ってる。頃合いを見て襲いかかろうとか、密かに考えているんじゃないのか?」
「……ほぉ、考えていたらどうすんだ?」
私はしばらく黙ってから、答えた。
「お前が楓を狙うなら、私は彼の盾になる。それだけだ」
「おうおう勇ましいこった。精々、そんな余裕があるように祈っとけ」
何だと?
「おい貴様、今のはどういう――」
腕を掴んで問い質す。だが宗像は一瞬で私の拘束から逃れると、意味深な台詞を最後に残して、そそくさとそこから立ち去ってしまった。
「ま、背後と暗闇には気を付けな」
……つくづく訳の分からないやつだ。




