楓と絢音
作戦会議を終えてから、数時間後。
すっかり日も落ちた空の下、工場周辺の見回りから戻った僕は、建物の裏で一人佇む宮野絢音の姿を見つけた。
何をしてるんだろう? 不思議に思い、ふと足を止める。暗がりの中、彼女の横顔はどこか憂いを帯びているような気がして……放っておくのも忍びなくなった僕は、ゆっくりと彼女に近付いていった。
「絢音ちゃん」
呼び掛ければ、絢音はハッと振り向いて、それから花のような笑顔を浮かべた。
「お兄さん!」
「こんなところで何してんの。眠れない?」
「ううん。暇だったから、ちょっとお散歩してただけ。心配ありがとね」
「誰かと一緒にいないと危ないよ」
「大丈夫だって。敷地の外には出てないし、ここに来るのも初めてじゃないもん。そもそも、一人で見回りに出てったお兄さんに言われたくはないなー?」
おどけた様子でジト目を浮かべながら、持っていた懐中電灯を手渡してくる。ありがたく受け取って、僕は絢音の横に並んだ。
「呼び方、“楓”でいいよ。“お兄さん”は何かくすぐったい」
「そう? じゃあ、楓……くん? しっくりこないね、むぅー……」
腕を組んで真剣に悩み出す。普通にくん付けで呼べばいいのに。僕が彼女より年上だから、気を遣ってるのかもしれない。
「……楓さん」
初めに小さく呟いた後、舌を鳴らすように何回か同じ言葉を繰り返した。
「楓さん。楓さん。よしこれにしよう」
どうやら納得がいったみたいだ。下の名前にさん付け。これまではくんか呼び捨てだったから、やっぱり少しくすぐったいけど。
「ねぇ楓さん、せっかくだからちょっと散歩しよっ」
「散歩?」
「一度、二人でゆっくり話してみたかったんだー。今までは黒羽さんが近くにいたり、そもそもその余裕がなかったからさ」
楓さんのこと教えてよ。僕の手を取り、絢音が囁く。拒否する理由も暇もなく、あれよあれよと腕を引かれ、僕たちは工場の周りを歩き始めた。
しばらくの間、澄み切った夜気の中に、サリサリという草を踏みしめる音だけが響く。
田舎の夜は静かなものだ。都会にあるような人々の喧噪も、眩しい繁華街のネオンも、ここではせせらぎと星明かりに取って代わられる。
不気味に感じる時もあるけど、僕としてはこっちの方が好みだ。
いい機会だと思ったので、今日の昼間、絢音が斧男を叩きのめした件について訊いてみた。
「実はね、去年までカラテ習ってたんだ」
照れ臭げに頬を赤らめて応える。本人は口にしなかったが、あの動きからして、かなりの実力を持っていることは簡単に想像出来た。
「本当は、素人に手を出しちゃいけないんだけど」
そう前置きしてから、絢音はペロリと舌を出して続けた。
「襲ってきたのは向こうだもん。正当防衛だよね」
助けられた身としては、頷かざるを得なかった。僕の周りには強い女性ばかりである。
半分ほど回ってきたところで、敷地の一角に小さな花畑を見つけた。
咲いているのは全て同じ種類のようだ。小さく可憐な八重咲きの花びらに、無数の細かな切れ込みが走っている。触ると柔らかい感触が返ってきた。
「……ナデシコ。工場の持ち主が植えて、そのままほっとかれた感じかな」
「だろうねー。てか楓さん、よく一発で名前が分かったね。花のこと、詳しいの?」
「実家が田舎にあったから。その影響でほんの少し知ってるだけだよ」
「どこ?」
「島根」
「島根かー。十月には帰省しないとだ」
「今年は帰ってないけどね」
二人揃って忍び笑いを漏らした。絢音がグータッチを求めてきたので、喜んでそれに応える。
一瞬だけ、彼女の瞳に不思議な色の光が宿った気がした。
しかしその正体を探るよりも早く、絢音は僕から視線を逸らすと、ナデシコの根元へおもむろにしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「ここ見て。小っさいけど頑張ってるやつがいる」
言われてそちらに意識を向ける。群生するナデシコの中、周囲の葉っぱに埋もれるようにして、ひときわ背の低い株がそこにあった。十分な光が当たらないのだろう、茎や葉はどこか弱々しく、咲かせている花もたった一輪きりだ。
「悲しいよね。種族も生まれも同じなのにさ、ちょーっと運が悪かっただけでこんなにも周りと差がついちゃう。小っさい方からしちゃ堪ったもんじゃないよ」
ぼやく絢音は何故だか不服そうだった。この花に感情移入でもしたのだろうか。
「それでも花は咲かせるあたり、負けないぞっていう意志を感じるけど」
「でしょ? アタシもそう思う。なんて言うか、弱いけど強いものを持ってる気がするんだよね。だからアタシはこういう子たちの方が好きかな」
「……優しいね、絢音ちゃんは」
「そう?」
「弱者に目を向けられるのは、優しさの証だと思うよ」
「だったら楓さんだって同じじゃない?」
「どうかな。僕の場合は……単なる自己満足だから」
絢音の顔に疑問符が浮かぶ。ちょっと言葉足らずだったか。
「あー……えっとね。僕って、困ってる人を見掛けたら、それが見ず知らずの他人でも助けたくなる性質なんだ。放っておいても自分には関係無いけど、そうすると後々、あの人は大丈夫かなって気になっちゃう。こうしておけば良かったなって、ベッドに入ったときに思い出したりするの。それが嫌でさ」
「……つまり、寝覚めが悪くなるってことだね」
「うん。だから、すっごく、利己的だろ?」
若干の自虐を込めて僕が言えば、絢音はニヤリと口元を綻ばせた。本当に表情が豊かな娘だ。
「じゃ、そういうことにしよっか!」
そういうことにしよう。
我ながら損をしがちな人間だとは思う。だけどまあ、しばらくはこのままでもいいかなって感じだ。大好きな黒羽と出逢えたのだって、裏を返せばお人好しな気質のおかげなのだから。
加えて僕の経験談だが、博愛的な生き方をしていると、困ったときに意外と助けてもらえたりする。情けは人のためならずってやつだ。
それからしばらく、僕たちの間に不思議な沈黙が流れた。
「……楓さん」
「何?」
「怖くないの?」
さっきまでとは違う、絞り出すような声で絢音が言った。
「いくら作戦があってもさ、相手は神様なんだよ? こんなこと想像もしたくないけど、もしかしたら楓さん、本当の本当に死んじゃうかもしれない。なのに……なのにどうして、そんなに落ち着いていられるの?」
決戦の刻、神を打ち倒す運命の日は――明日だ。
夜明けと同時に僕たちはここを発つ。次に戻るのは蛇神に勝利して、絢音を迎えに来るときになるだろう。
「……僕だって怖いよ」
短く返した、その瞬間。絢音が息を飲んだのが分かった。
「じゃあ、なんで」
「前にも似たようなことがあったからかな」
僕がまだ人間だった頃。恐怖を殺して、黒羽と一緒に妖狐へと挑んだときのことは、今でもよく覚えている。
当時の絶望感に比べれば、今回はまだ太刀打ちが出来そうな分、楽なものだった。
「それに、僕は一人じゃない。頼もしい仲間が傍にいる。だから怖いとは思っても、尻尾巻いて逃げ出す気にはならない」
にしても、どうして絢音はこんなことを訊いてきたんだろう。
気丈そうに見えて、実は怯えてたりするのかな。彼女にはカラテがあるとはいえ、自分一人だけが人間で、しかも見知った相手がいないとなれば、不安を抱くのは至極当然だ。
「大丈夫」
絢音を安心させるため、僕は彼女にそっと手を伸ばし、優しくこちらを向くように促す。
絢音の瞳は心なしか潤んでいた。透き通る黒が正面から僕を見つめ返してくる。繊細な吐息のリズムに合わせて、絢音はその肩をゆっくりと上下させていた。
瞬き、一つ。長いまつげの向こう側、瞳に映った夜空の月が、振動で揺らいで幻想的にぼやけた。
「何があっても、君に手出しはさせないよ」
「ふぇっ!? その、それって、つまり――」
「事が終わるまで君を守るって意味」
僕たちみんなで。一人や二人じゃ心許ないが、そこそこの強さを持った人外が四人もいるのだ。明日の作戦だって、一度に全滅しないようなものを組んであるし。万一の場合でも、生き残った方が絢音を連れて、この村から無事に脱出できるだろう。
問題無いよな、よし。
「かっ、楓さん!」
そこでようやく、僕は絢音の様子がおかしいことに気が付いた。右手を背にやり、左手で頬を掻き、僕ではないどこか遠くを見つめ、しきりに口の開け閉めを繰り返している。
「どしたの?」
「えっと。あ、ありがとうござい、ます」
「……どういたしまして?」
何故に敬語?? 挙動不審な振る舞いが気になって、僕が絢音に尋ねようとしたときだった。
「――八十五点」
近くの茂みから拍手が聞こえ。それと同時に一人の女性が、暗闇をかき分けて姿を現す。
「楓くんにしては、上出来ですよ」
レジ袋を片手にぶら下げて、木崎加奈がそこに立っていた。




