村人、襲来
絢音の瞳が恐怖に染まる。腰を抜かして動けない彼女に、男は過たず狙いを定めると、緩慢な動作で鉄パイプを持ち上げた。
させるか……!
弾かれたように立ち上がった僕は、二人の間へ反射的に割って入った。
腕を十字にクロスさせ、振り下ろされる鉄パイプを正面から受け止める。メシリという嫌な破砕音が、腕の骨を伝って駆け上がってきた。
一拍遅れて痛みを知覚する。全身から嫌な汗が噴き出した。
「ぐあっ……!」
絢音の盾になれた。そこまではいい。だがここからの反撃が出来そうにない。
よろめく僕を鬱陶しげに睨んでから、男は再び攻撃の動作に入る。慌てて身を守ろうとするが、傷付いた腕は反応が鈍くて、上手く言うことを聞いてくれなかった。
脳裏に浮かぶは脳天をかち割られる未来。背筋が氷のように寒くなる。
ああ、これはまずいかも――――。
「二人ともしゃがめ!」
鋭い声が鼓膜を揺らす。咄嗟に身体を低くした僕の頭上を、黒羽の回し蹴りが掠めていく。
優雅で力強い一撃は、男の横っ面を的確に捉え。応接間の壁へ顔面を叩きつけると同時に、その意識を速やかに刈り取った。
助かった。
崩れ落ちる男を横目に見つつ、僕は絢音へと向き直る。
「大丈夫?」
「う、うん。お兄さんは……!?」
青ざめた顔でおそるおそる肩に触れてきた。彼女を心配させないよう、強気な笑みで以てそれに応える。
「僕は、何とか……」
「大丈夫なわけないだろうが! 痩せ我慢するな!」
僕の言葉を遮るように、問答無用で持ち上げられる身体。黒羽が僕の下に手を回し、お姫様抱っこでソファまで運んでくれる。
恥ずかしさを覚える暇も無く、そのまま柔らかな生地の上へ寝かされた。
「動くなよ。余計に痛みが酷くなるぞ」
凜々しい口調で放たれた命令に、僕は何かしら返事をしようとして……結局まともな言葉が出てこず、大人しく彼女の指示に従う。力を抜いて全身をソファに預けた。
今更ながら、右腕の感覚がない。どうなっているのか気になって、片目でチラリと確かめる。そしてすぐに後悔した。
肘と手首の真ん中付近に、巨大な青あざが浮かんでいたのだ。その現実味の無さときたら、まるでシールか何かをペッタリと貼り付けたよう。医学知識が皆無の僕でも分かる。これは……重傷だ。
「ちょっと失礼しますよ」
木崎が傍らに膝を付き、あざの箇所をいきなり握りしめてくる。芯まで響く激痛に、僕の喉から情けない悲鳴が上がった。
「あっ、ごめんなさい。完全に折れてますね」
「楓に触るな! お前らはその男を見張ってろ!」
黒羽が木崎を押しのけて怒鳴った。「仕事ですって」「しゃあねーな」と呟きつつも、二人はそそくさと僕から離れていく。
それを確認した黒羽は、すぐさま僕に意識を戻した。
色々と言いたそうな感じだ。気丈に振る舞ってこそいるものの、隠しきれぬ不安が顔色に滲み出ている。……そんなに気を病まなくていいのに。もう、心配性なんだから。
「汝の身体には神の力が流れている。この程度の怪我なら、放っていても完治する筈だ。だが、それでも骨の再生には時間がかかる」
「オーケー。どうするよ」
「汝に私の霊力を回す。回復も多少早まるだろう」
「……え?」
驚きで思考が固まった。
いつぞやの記憶が脳内でフラッシュバックする。霧の川原で交わした柔らかな感触と、レモンのようなほろ苦い味。あのときから今日までに、同じような営みを何度も重ね、おかげで僕も慣れてはいる。
いやいや、だとしてもちょっと待って欲しい。今は流石に状況が状況っていうか。少々周りが騒がしいっていうか。
「こ、ここでするの……?」
「移動する必要があるのか?」
あるに決まってんだろ! 人前だぞ! 見物人いるぞ!
……と、柄にもなく大声を上げるのも、僕の心の中でだけの話。実際は、何も気にしていないような彼女の目付きに、声にならない声で異議を唱えるのが精一杯だった。
だって、ほら。女性の方が大丈夫なのに、男がまごまごしてるのって、なんかダサいし……。
「どうした?」
黒羽が眉をひそめる。通常通りの彼女を前に、僕も潔く覚悟を決めた。
ええい、ままよ!
「……お願い」
「分かった。では腕を貸せ。少し沁みるが、傷口に直接――」
「あ、そっちなんだね」
うわ恥ずかしい。完全に早とちりじゃん。
「今のはどういう意味だ」
「何でもない」
口にしたくない理由だったので目線を逸らした。直後に顎が掴まれて、強引に黒羽の方を向かされる。
「……ッ」
「言え」
有無を言わせぬ鋭い口調。誤魔化すのは無理そうだ。
……知らんぞ、どうなっても。
「だから、その……前みたいに、口でするのかな、って」
「は?」
数秒の沈黙を挟んで、黒羽の顔が真っ赤に染まった。
「へ、あっ、えっと、うぁ……」
すごい速度で斜め下を向いた瞳。
魚みたいにパクパクと動く口。
消え去った余裕。
面白いくらいに上擦る声。
「な、汝は、その。そっちの方が、いいのかっ……?」
反則だ。
それが唯一の感想だった。
「不埒ですよね」
「不埒なのかな?」
「不埒じゃね」
部屋の入り口から軽口が飛んでくる。黒羽がキッと顔を上げた。
「うるさいぞ貴様らッ! 邪魔だ! 散れッ!」
「キャー! みんな聞きました? 邪魔なんですってよ! きっと私たちを追い出してから、二人きりでモニョモニョするに違いありませんね!」
「違いないのかな?」
「違いねぇんじゃね」
「うるさいと言っているだろうが! 殺されたいのかッ!」
耳まで真っ赤になりながら怒鳴る黒羽に対し、三人の見学者が大人しくなる気配は無い。
自暴自棄じみた表情で、黒羽が僕を真っ直ぐに見据える。周囲の視線から隠すように、細長い身体で僕の上に覆い被さった。
こうなるともはや勝ち目など無く、僕はなすがまま乙女にさせられる。
「ジッとしてろよ」
「えっ、あ……」
「分かったら返事!」
「は、はいっ!」
他にも何かを言おうとした気がするが、彼女からの口付けによって封殺された。
黒羽特有のいい匂いが、僕の思考を一瞬で塗り潰していく。視界は水の幕を張ったようにぼやけ、全身が燃えるように熱くなった。
どこからか押し殺した歓声が聞こえる。だけどここまでくれば周りが何を言おうが最早どうでもいい。
腕の痛みはいつの間にか和らいでいた。
「ハッ」
荒っぽく息を吐きながら、黒羽が手の甲で口元を拭う。烏というより荒鷲のような凛々しさに、僕はいつかみたく見惚れてしまった。
なんかもう。
なんかもう……!
本当、男前すぎやしないか僕の彼女。
「……ちょっと過激じゃない?」
「悪い。野次馬どもに見せつけたかった」
「わお」
見せつけられた野次馬たちを見る。放心状態が一名、目を見開いているのが一名、恥ずかしそうにそっぽを向いているのが一名。効果は抜群のようだ。
……ただ、僕もあまり人の事を言える立場じゃない。
刺激的な医療行為のせいで、気まずい空気が室内に流れている。それを打ち払うべく、僕は何も無かった風を装って立ち上がった。
「……それでさ。その男、結局のところ何者なわけ?」
「アタシのお父さんだよ」
絢音が一歩、前に進み出る。戸惑いに満ちた声だった。
「君の?」
「間違いなくね。だから、さっき殴られそうになったときも、訳が分からなくって動けなかった。だけどどうしてあんなこと……」
「襲ってきた理由に心当たりは?」
無言で首を横に振る絢音。そりゃそうだろう。むしろあったら驚きだ。
「なら、本人に訊いてみようか」
放置しておくわけにもいかない。うろ覚えだが、絢音に攻撃を仕掛けたときのこいつはどこか様子がおかしかった。もしも蛇神と何らかの関係があれば、邪魔者どころか貴重な情報源にさえなり得る。
「……じゃあ、黒羽。一つ頼みたいことがあるんだけど」
「どうした」
「絢音ちゃんと一緒に外を見回ってきてくれる? 他にも仲間がいるかもしれないから」
「構わないが……二人でか?」
不可解そうに問い返す黒羽だったが、直後に僕の意図を悟ったらしい。合点のいったような表情で、パチリと華麗にウインクを決めてみせた。
「承知した。行こうか、絢音」
「う、うん」
黒羽に手を引かれ、二人は部屋をあとにする。
その足音が十分に遠ざかったところで、木崎が面白そうに口笛を吹いた。
「楓くんってば紳士的」
「……やっぱり分かった?」
「分かりますよ。父親が尋問される姿を、絢音ちゃんに見せたくなかったんでしょう?」
その通り。意味があるかは不明だが、僕なりに考えた末の気遣いだ。
絢音の父親が従順なら話は早い。だが彼の反応いかんによっては、多少荒っぽい手を使う必要が出て来るかもしれない。その場合、実の娘が見るにはいささか心苦しいものになりそうだったので、適当な理由をでっちあげて遠ざけたのだ。
一人で行かせなかったのは、彼女の安全を考慮してのこと。黒羽がいれば、何か起きてもきっと大丈夫だろう。
ちなみに、僕が絢音の護衛に付かなかったのは――。
「爪を剥ぐのはアリですか?」
「ナシに決まってるだろ」
……こっちにもブレーキが要るからだ。




