いざ神の御前へ
泣沢村。
結城たちの案内で辿り着いたそこは、山間にひっそりと佇む寒村だった。
構造はいたって単純明快。遠くから流れてくる小川を軸に、複数の民家がその両脇へ並ぶようにして続いている。外側へ行くに連れて田畑が増え、やがて鬱蒼と茂る森に達する。村の奥には神社があるが、何を祀っているのかは結城たちも知らないらしい。
蛇神の祠は、神社から更に山へ入っていったその先にあるそうだ。
「向こうが外出してなければ会えると思うんですけどね。……あ、そこ右です、右」
木崎が後部座席から指示を飛ばしてくる。茶色のリブニットに女性用のキャペリンハット、そしてダークブルーのサングラスと、どことなく令嬢味のある装いだ。元から着ていた服がボロボロで、これでは周囲から変な目で見られそうだったため、ここまでの道中で仕方なく買い与えたのである。
他にも色々と寄り道をした結果、到着は朝の十時になっていた。
「もっとスピード出せねえのか? これじゃ走った方が速いぞ」
「事故りたかったら出してあげるよ? 慣れない道なんだからこれくらいは勘弁して」
嫌みを適当に受け流しながら、安全第一で車を進める。曲がりくねった川沿いの細道は、まるで巨大な蛇のようだ。十分な手入れがされていないのか、路面の凹凸が振動となって伝わってくる。
「……見えてきましたね。あれがそうです」
木崎の声と同時に、視界がパッと開けた。
緩やかな坂の終着点。斜面を削って作ったであろう、平坦な空間がそこに現れる。
大きさは、ざっとテニスコート四面分くらいだろうか。敷地の隅に黄色の軽自動車が停まっていた。近くには石造りの鳥居と、山の中へ伸びていく階段も見える。
「やっと着いたぜ。ま、思ってたよりは酷い運転じゃなかったな」
「素直にお礼も言えんのか。どうしてこれまで、誰もこいつに礼儀を教えてやらなかったんだ?」
「噛みつくねぇ。烏じゃなくて番犬だったらしいや」
「あ?」
「お?」
「喧嘩すんな。ほら行くよ」
黒羽と結城の仲裁をしつつ、手頃な場所に車を停めて。鳥居をくぐる前に一礼してから、僕たちは古ぼけた参道を登っていく。
傾斜は急だが、人外一行にとってはさしたる苦にもならない。
本殿に到着。目の届く範囲に人影はなかった。御手水場の水が土色に澱んでいるあたり、参拝客はおろか管理する人さえいないのだろう。見れば、社の中には落ち葉が入り込み、蜘蛛の巣がそこかしこに張られていた。
神秘的な力は……感じない。ここは空っぽなのか。
「この先です。もう少し歩きますが」
木崎の声は心なしか強張って聞こえた。きっと不安なのだろう。かくいう僕も、いつしか掌に汗が滲んでいる。
本殿の裏から、舗装されていない山道へ突入した。
しばらく進むと、やがて、行く先に強大な力が蠢いているのを感じ取る。
こめかみにチリチリと焼けるような感覚。人間をやめてから養われた僕の第六感が、猛烈に警告を発し始めた。
「……これが、そうだね」
「ああ。向こうも俺たちには気付いてる筈だ。隠れて近付こうたって無駄だぜ」
結城に言われて、思わず生唾を飲み込んだ。唇と口の中はカラッカラ。心臓がバクバクと騒いで静まらない。
大丈夫。きっと何かの間違いで、攻撃なんてしてこない。話せば分かってくれる筈。
そう己に言い聞かせてみたが、嫌な予感は拭いきれない。
相手は神だ。半端者の僕とは違う、正真正銘の神格だ。それが本気で敵対してきたら……僕たちはどうなる?
「私が先に行こう。楓、後ろへ。狐たちは殿を頼んだ」
「心得ました。お願いします」
黒羽の指示に木崎が頷くと、サングラスを外してポケットに仕舞う。これまでと違う真剣な表情は、紛れもなく、戦いを覚悟した者の目付きだった。
苔むした石の灯籠が、僕たちの前方に見えてくる。一つ、二つ……たくさん。最初はまばらだったそれも、段々と間隔が縮まって。その先に待つのは小さな祠と、そして――。
「……神もどきのヒトに、妖が三つ。随分と珍妙な侵入者であるな」
白銀の神体。
敷地の縁に沿ってとぐろを巻いた姿は、記憶にあるよりも遥かに大きく、木漏れ日を受けて神々しい輝きを放っていた。
押し返されそうな圧に抗って僕たちが近付いていくと、閉じた口からシューシューという音を漏らしながら、蛇神はゆっくりと鎌首をもたげた。
ルビーの瞳がちっぽけな四人を映し、一拍置いて怪しげに煌めく。視界が一瞬歪んだが、僕は両足に力を込めて持ちこたえた。
呑まれるな。
そう、自分に暗示をかける。
気を確かに持て。毅然としろ。今のところ攻撃はしてこない。ならば話し合いの余地がある筈だ。
「名を述べよ、汝ら。我が神域にいかなる用か」
「僕です。出雲楓。先日、高千穂でお世話になりました。隣にいるのは烏の黒羽と、あなたの眷属である狐の二人」
しっかと相手を見つめて答えながら、僕は心の中で違和感を覚えていた。
記憶にあるのとは正反対の、いかにも神様然とした重々しい佇まい。顔見知りであるにも関わらず、お互いに初対面であるかのような蛇神の振る舞い。これは……。
「……もしかして、覚えていないのですか」
「知らぬな」
「そんな……!」
素っ気ないその解答に、思わず悲痛な呻き声が漏れた。
蛇神は僕たちのことを忘れている。理由は分からないが、それだけは確かだった。
「な、ならば蛇神様! 私は――」
「知らぬと言っておるだろう?」
黒羽が食い下がるが、けんもほろろに突っぱねられてしまう。
哀しそうに肩を落とす横で、木崎が訝しげに眉をひそめた。
「おかしいですね。霊力はあの方と同質。別の神である筈がない。てことはやっぱり記憶喪失……?」
「記憶喪失だと!? 馬鹿言うな。力をなくして記憶を失ったんならまだ分かる。だけどあれは! どう見ても、前より強大になっているだろうが! きっと何かの間違いだ」
「何の間違いだと言うんですか? 壮大なドッキリ? それとも演技? むしろそうであって欲しいですね」
「…………汝ら、神を目の前にした振る舞いがそれか。口論よりも、他にすべきことがあるのではないか?」
蛇神が口を挟んでくる。呆れたようなその声色に、僕は気味の悪いものを覚えて身構えようとした。
だが遅かった。
「頭が高いぞ」
「――っ!? 黒羽さがって!」
蛇神の舌先で空気が震え、渦を巻いてこちらに殺到する。
咄嗟に黒羽の前に出た直後。僕は金槌のような暴風に全身を打ち上げられていた。
脳が揺れ、視界は一瞬真っ暗になる。気が付けば地面の感覚は消えて、気持ち悪い浮遊感がそれに取って代わった。
「あがっ……!?」
「楓っ!」
上空へ吹き飛ばされたと理解したとき、身体が重力に引かれて落下を始める。
慌てて手足をバタつかせたが、体勢を整えられる筈もない。頭は下、足は上。茶色い大地が刻一刻と近付いてきて、僕は思わず目を瞑った。
けれどいつまで経っても、予想した衝撃がやって来ない。
……あれ?
「ったく、危ねぇな」
おそるおそる瞼を上げてみれば、舌打ちをする結城の顔がすぐそこにあった。
もしかして、受け止めてくれたのか……?
「勘違いすんじゃねぇぞ。ここで死なれちゃ俺たちも困るからな」
お、おう……。
行動とは裏腹に、結城はめちゃくちゃ不服そうな様子だ。不可抗力とはいえ、因縁の相手をお姫様抱っこしているのだから、複雑な気持ちは察するにあまりある。
だが、それはそれとして。
「ありがとう、助かったよ」
すると結城はまたしても舌打ちをしてから、僕の身体を乱暴に投げ捨てた。
大した高さではなかったが、突然のことに受け身は取れず。地面からとび出していた石が運悪く肩甲骨に当たった。……痛い。くそ、狙っただろコノヤロウ。
「楓! 大丈夫か!」
「……っ、何とかね」
黒羽の手を借りて立ち上がる。どうやら彼女は無事だったみたいだ。
しかしその事実に安堵する暇はなく、間髪入れずに次の攻撃がやって来た。
「――伏せよ」
「っ!? ぐっ……あ……!?」
淡々とした命令のあとで、僕の身体に凄まじい重圧がかかる。
歯を食い縛って堪えようするも、抗いがたい圧倒的な力を前に、僕は情けなく膝を付かされた。
鳥肌がゾワリと沸き上がり、全身からドッと脂汗が噴き出す。視界が歪む。思考が侵される。それは、まるで空がのしかかってくるような感覚。あるいは大気が石になったような錯覚。腕を持ち上げることさえ叶わない。
「あ、ああ……!」
「屈服せよ、平伏せよ。ここは神の御前である。傅き、敬い、畏れこそ外敵に相応しい」
「く、この……!」
敵だって? ふざけるな……!
「控えよ、人間!」
「ぎっ、あああぁ!?」
無理にでも立ち上がろうとした刹那、力が一層強まって、全身の骨が悲鳴を上げた。
喩えるなら、そう、ピストンか何かで肉体を押し潰されているような感じ。そんな体験はこれまでに無いし、これからもあって欲しくないけど、ともあれそれは暴力的な責め苦だった。
妖術か、それとも神通力の類か。……考えたところで、抵抗出来なければ意味がない。
僕は……ここで死ぬのか……?
霞む視界で周りを見れば、そこにあるのは無様な光景。黒羽も、結城も、木崎も、皆一様に地面へと突っ伏している。
ああ、詰みだ。
何もかも迂闊だった。
絶望で胸が冷えていく。意識が暗闇へと沈んでいく。どうしようもない状況の中で、僕は己の慢心を後悔した。
そのときだ。
「ほら、こっちだよ!」
背後から聞こえた叫び声。蛇神の意識がそちらへと向く。それと同時に、僕たちを押さえ付けていた力が少しだけ弱くなって、僕はハッと我に帰った。
立ち上がるのはまだ無理だ。けれど腕だけなら……動かせる!
「お兄さんたち、今のうち!」
声の主が何者かは気になるが、それを確かめている暇はない。
隣に目線を送れば、僕の意図を察して黒羽が頷いた。声に出さずとも考えは同じ、今すぐここから逃げるべし。故に、ここで僕たちが打つべき手は……。
「黒羽、呪文だ!」
「ああ、同時にいくぞ!」
片手で素早く印を組む。神の前にはあまりにも低威力、けれど時間を稼ぐだけなら、これで十分だ。
「急々如意令!」
「斬!」
タイミングを合わせて放った術が蛇神の眉間を直撃し、巨大な頭を盛大に仰け反らせる。押し潰すような圧力が、その瞬間フッとかき消えた。
急いで体勢を整えながら、僕は次なる一手――後方の女狐に合図を送る。
「木崎、お願い!」
「……もう、特別ですよ?」
恩着せがましい返事の反面、自分の役割は予め理解していたらしい。迷いない動作で両腕を持ち上げると、僕には聞き取れない言葉で何かを唱える。数秒と経たずに、彼女の足下から白いモヤが立ち上って、蛇神の巨体をすっぽりと包み込んだ。
霧の術。目眩ましにもなるって、前に黒羽が言っていたやつだ。
「十秒保てばいい方です」
「長いくらいだよ。みんな、撤退!」
誰からも異論はない。来た道を反対方向に駆け出す。
一人の少女が少し離れた位置から、僕たちに向かって手を振っているのが見えた。
「こっち! アタシに着いてきて!」
……何が何なのか分からない。
だけど助けてくれたってことは、少なくとも敵じゃないのだろう。
なら、ここは従うのが得策だ。




