予言・警告・エンカウント
汗をシャワーで流してから、僕たち四人は蛇神の祠に向けて出発した。
ノンストップで車を走らせること数時間。運転には慣れていないせいで、身体だけでなく心にも疲労が蓄積する。制限速度はきっちり遵守。安全第一だ。
ちなみに当の狐たちは、後部座席で各々の方法でくつろいでいた。早々と眠りこける結城。僕の部屋からくすねてきたであろう、スティーヴン・キングの『ミスト』を読みふける木崎。図々しさの針が振り切れている。
もうすぐ日付が変わろうかというところで、眠気があまりにも凄まじかったので、コンビニの駐車場で仮眠を摂ることにした。
「腹が減った」
「喉が渇きました」
乗客がうるさい。「僕たちの分も買ってこい!」と万札を投げつけて送り出す。レンタカー代も僕持ちだったので、財布は文字通りペラッペラになった。お金があるのは僕だけだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが……くそ、何が「葉っぱのお金なら作れますよ?」だ。ふざけんな。
「……結構、遠いな」
外に出て軽くストレッチ。固まった筋肉をほぐしながら、僕はふと、満点の星空を仰ぎ見る。
僕たちが向かうのは高千穂よりさらに南。宮崎と鹿児島の県境に近い場所だ。大分方面から回り込むルートと、国道三号線を南下してから山越えするルートの二つがある。今回は走りやすい後者を選んだが、夜だからあまりスピードも出せない。
「疲れているのか?」
隣で車体に寄りかかっている黒羽が、小さく首を傾げる。
気遣ってくれているのだろうが、心配したいのはこっちも同じだ。半袖のシャツといつものジーンズ、寒くないのかな。
「すまない。私が車を運転できれば良かったのだが……」
「え? ううん、全然そんなことないよ。大丈夫」
笑って否定し、そのまま彼女に寄り添った。
周囲に人気はない。静謐な闇と、その中にポツンと浮かぶコンビニの灯りがあるばかり。
……こうしていると、あの夜の出来事を思い出す。タクシーに乗って狐から逃げる途中、休憩がてらに立ち寄ったコンビニのことを。黒羽はたしか寝てたから、覚えてないんだっけ。
「何を考えているんだ?」
「え? ……君と出逢った、一日目について」
「そうか。丁度、私も同じことを思い浮かべていた。奇遇だな」
応えて、黒羽は口角を持ち上げる。それはもう嬉しそうに。イケメン女子のはにかみが持つ破壊力を、この人はまったく理解してないに違いない。
「もう四ヶ月くらい前になるのか。こうして楓の傍にいれるなんて、あの頃の私は思ってもなかった」
「じゃあどんなことを思ってたの?」
「何も。未来がどうなるかなんて二の次で、汝を守れれば十分だった。……今は違うぞ? 今はもう、そんな特攻じみた思想は持ってないからな。私が死んだら汝は悲しむだろ」
「よく分かってらっしゃる」
苦笑交じりに返した応えが、僕なりの照れ隠しであることは見透かされているだろう。数秒後、おもむろに肩へ手が回されて、僕は優しく抱き締められる。
……ここが外で良かった。二人きりの室内だったら、もう少し過激な方向に事が及んでいたかもしれないから。
「……そこにいるのは誰だ?」
そのときだ。流れかけた甘い雰囲気を消し去るように、黒羽が低い声でそう呟く。同時に僕を抱き締める力が強くなった。
「どうしたの」
「見られてる。楓の後ろ。藪の中からだ」
言われて僕も背後へと意識を向け……時を置かずして、少し離れた位置にその気配を感じ取る。動物とも人間とも違う、あるいは二つの合の子のような。これは……。
「何者だ! 姿を見せろ!」
応答はない。代わりに背の高い草がガサガサと揺れた。僕と黒羽は目配せをしたあと、一歩ずつ慎重にそちらへと近付いていく。今のところ殺気は無いようだが、仮にいきなり襲いかかってきても、即座に対応出来るよう半身だ。
草をかきわけ、スマートフォンのライトで根元を照らす。
人間大の大きさをした四つ足の何かが、気色悪くモゾモゾと蠢いていた。
僕たちが更に距離を詰めると、待ち構えていたかのように、そいつはゆっくりと頭を持ち上げる。
そこでようやく僕たちは、闇に紛れていたそいつの全景を把握することが出来た。
「……っ!?」
それは異形だった。
歪だった。
烏や狐の妖怪を見てきた僕でも、思わず身体を仰け反らせてしまいそうな程に。
黒光りする水牛の胴体。妙に長さのある首の、その先に、人間の顔がお面のごとく張り付いている。灰色の瞳が僕たちを捉え、次いで見定めるように細められた。
件。
子どもの頃に本で読んだ、とある妖怪の名が脳裏に浮かぶ。其は人面の牛。災害の予言者。近い未来の出来事を示し、またすぐに消え失せる怪異。
こいつがそうだ、と直感的に理解した。
「――これより警告の刻である。傾聴せよ、傾聴せよ」
生き物におよそ似つかわしくない、ゾッとするほど機械的な声が鼓膜を揺らす。
何か返事をしようにも、乾いた口は何一つ言葉を紡げない。いやそもそも、こいつは話が通じるような相手なのか?
「谷間の里に開花の気配あり。谷間の里に開花の気配あり」
何だって? 開花、ってことは花が咲く? 一体何の? どうしてそれを、わざわざ僕たちに警告する必要がある?
「犬神の跡継ぎ、若き現人神よ。驕らず、油断せず、どうか身中の虫を憂え」
正面からひときわ強い風が吹き、僕は反射的に目を瞑った。
風が収まったときには、件の姿はもうそこにない。
煙のように忽然と。幻のごとく出し抜けに。唯一残された痕跡は、牛の形に押し潰された草の跡だけ。
周囲に漂う家畜の匂いに顔をしかめたまま、僕たちはしばらくの間そこから動けなかった。
「……おい、お前ら何してんだ?」
唐突に、後ろから声が振ってくる。
振り向けば、買い物を済ませた結城と木崎が、両手にレジ袋を下げて立っていた。
※
「……まったく。本当にお人好しだな、汝は」
膝の上。月明かりに照らされた楓の寝顔を眺めて、私こと黒羽はため息交じりの微笑みをこぼす。
気紛れにその頭を撫でてみると、彼は「んん……」という呻き声を上げて寝返りを打った。そのまま転げ落ちそうになったので慌てて支える。目が覚めたか? と思ったが、楓は手足をモゾモゾと動かしたあとで、再び穏やかな寝息を立て始めた。
三十分で起こしてと言われたけど、もう少しだけこのままにしておこう。
「まあ、おかげで私は汝と出逢えたんだが」
ポツリと呟く。私にだって、恥ずかしくてなかなか口に出来ないことはある。しかし相手が眠っていれば、こうして簡単に伝えてしまえるから不思議だ。
未知との遭遇から、一時間と少し。
件に会ったことは、木崎たちにもちゃんと共有した。当初は二人とも半信半疑だったが、妖気が微かに残っていたおかげで、すぐに信じてくれた。現場の調査は彼らに任せ、楓には仮眠を摂ってもらっている。
「……警告、か」
不吉な単語を口の中で転がしてみた。開花の気配。身中の虫。あの人面牛め、嫌な予感を煽るのだけは上手いくせに、具体的なことは何一つ言わないまま消えやがった。一体どんな意味があるやら。
……まあ、この先に何が待っていようと、私の為すべき使命が変わるわけでもない。
視線を下げる。私の膝を枕にして、警戒のけの字も無いような顔で楓が眠っている。それだけ私を信頼している証拠であり、安らかな寝顔がますます愛しい。
「愛してるよ、楓」
甘い声で囁いて、無防備なその頬に唇を落とした……その直後。
「あはっ、黒羽さんのキスシーン見ちゃった」
鈴の鳴るような声が聞こえてハッと顔を上げる。いつの間に忍び寄ったのか、ドアの向こうに木崎加奈が立っていた。
苦手なやつが来た、と私は内心で舌打ちをする。男の方ならまだともかく、こいつに関しては口でもその他でも勝てる気がしない。上手くは言えないが、一緒にいると調子が狂うのだ。前に弄ばれたときのトラウマだと思う。
「ふふふ、ニヤけちゃいますね。“愛してるよ、楓”なんて。魅惑の低音ボイス! イケメンっ! わたしにも囁いてっ!」
「……お前だけか。相方はどうした?」
痴れ言に付き合ってやる暇は無いので、ドアだけ半開きにして、木崎の方を向きもせずに訊く。まだ騒ぎ続けるかとも思ったが、予想に反して木崎はすぐ静かになった。
「少しくらい名前で呼ぼうって気はないんですか? まあいいですけど。結城くんなら、向こうで件の追跡を試みてます」
「進捗は?」
「まったく。匂いも途切れてましたし、向かった方角さえ突き止められるかどうか」
「仕方ないな。私の記憶だと、あれは移動したというより文字通り消えた感じだった。瞬間移動の類なら、お前らの鼻でもさすがに追い付けまいさ」
「ですねぇ……。ま、よく分からない逃走手段についてはさておき。わたしとしては、件が現れたことよりも、予言の中身に注目すべきだと思っているんです」
指を鳴らして、木崎が続ける。
「身中の虫。それがもし、わたしたちの中に裏切り者がいるって意味だとしたら、どうしましょうね?」
馬鹿な。私は首を横に振った。
「ありえない。私と楓は事情さえ知らんし、お前たちは被害者だ。裏切るも何もないだろう。それとも何か。私が楓をどうこうしようと画策している、とでもお前は言いたいのか?」
「それこそありえないでしょうよ。楓くんを裏切る? あれだけ虐められても、最後まで屈服しなかった黒羽さんが? 明日は世界が滅びますね」
「よく分かってるじゃないか」
「どうも。では、そこはひとまず無視しちゃいましょうか。私が気になっているのはその前の部分。”犬神の跡継ぎ、若き現人神よ”」
「覚えている。それがどうかしたのか?」
「分かりませんか? 最後の警告だけ、わざわざ名指しで伝えているんです。黒羽さんじゃなく、二人にでもなく、楓くんただ一人に」
その言葉を聞いた私は、言いようのない不安感に襲われて身震いをした。
「何か意味があると思いません?」
クスクスという忍び笑いで木崎が話を締めくくる。結論は出さぬまま。いや、出そうにも出せないのだろう。性悪で、残酷で、情け容赦ないド畜生だが頭は回るこいつでも、答えへ辿り着くには情報がまだ足りないのだ。
……それなら、今ここで無理に頭を悩ます必要もないんじゃないか?
「考えすぎるとドツボに嵌まるぞ。予言ってのは得てして回りくどく、分かりにくいものだろう」
「でも真っ赤な嘘じゃない。一言一言に意味が、真実が込められている。今回の予言も例には漏れず。……智将の勘がそう言っているんです」
「痴将? 不安を煽るのは上手そうだな」
気紛れに私が茶化してみれば、木崎は笑って肩を竦める。それから何故か唐突に、半開きのドアから車内へと入り込もうとしてきた。
「と・こ・ろ・で。黒羽さんの身体ってやっぱり美味しそうですよね。こうして話してると食べたくなってきちゃう。まあそんなことしたら楓くんに殺されるので我慢しますけど、舐めるくらいならオッケーだと思うんですよ。どうですかね? ね?」
無言で木崎を蹴り飛ばしたあと、一瞥もせずに私はドアを閉めた。




