狐たちとの再会
「楓! 下がれ!」
黒羽が前へと飛び出した。カッコいい。好き。だけどよく見れば、その肩はいつになく強張っている。
無理もないだろう。僕にとって結城は宿敵。だが彼女にとっては……天敵なのだから。
「……何のつもりだ」
「ほぉん? そいつぁこっちの台詞だな。出会って早々に敵対心剥き出しか。随分と礼儀正しい烏さんだ」
「ふざけてないで答えろ。ここへ何をしに来た!」
もの凄く低い声。一触即発の雰囲気の中、僕は静かに彼女の横に並ぶ。
「なっ……おい、汝は後ろにいろ」
「隣がいい。出来れば前にいたいけど、君はそんなの認めないだろ。それに……」
前方に視線を向ける。黙ってこちらを見つめ返してくる結城から、敵意や殺意のようなものは感じられない。その服には泥がこびりつき、肌はところどころ赤く爛れていた。
「殺し合いをする気は、なさそうだからね」
「そんな余裕がねぇからな」
吐き捨てるように結城は呟く。もの凄く不本意そうな口調だったが、その忌々しげな表情が、ある意味では確かな肯定の証だった。
余程の事情があるのだろう。そうでなければ、彼らとて好き好んでこんな場所に来たりはしない。
不穏な予感を覚えながら、僕は結城が抱き抱える一人の女性……木崎加奈の横顔を眺める。耳元で指を鳴らしてみたが、彼女は瞼を閉じたままピクリとも動かなかった。
「死んでる?」
「気絶しているだけだ。ちったぁ心配しやがれ」
「嫌だね。君が僕ならしないだろ?」
「……ったく。いちいち癪に触る野郎だな、お前は」
死ねば良かったのに、といういつぞやの意趣返しは、余計な争いを招きそうだったので心中にとどめておく。それよりも今は、彼らの事情を理解する方が先だ。
「……改めて訊くけど、何の用?」
結城が唇を噛み締める。それから彼は、あろうことか僕たちに対して頭を垂れ。消え入りそうなほど小さな声で「助けてくれ」と絞り出した。
僕も黒羽も驚いて言葉を失う。こいつが。憎くて堪らないであろう僕たちに、プライドを投げ捨て縋りついてきたのだ。
もしかすると、事は想像以上に深刻なのかもしれない。
「何があったんだ。お前らには蛇神がいるだろう。トラブルならそっちに頼ればいいんじゃないのか」
「そりゃそうだな。出来たらとっくにそうしてらぁ」
「……どういう意味だ?」
黒羽が尋ねると、結城はおもむろに肩を竦めた。
「蛇神のやつ、狂いやがった。それが俺たちの抱えてるトラブルだ」
※
追い返すにはあまりにも危うい内容だったので、僕たちは渋々、二人を室内へと招き入れた。
慣れない部屋に、結城は最初、居心地が悪そうにしていたが、僕が楽にするよう促すと、木崎を床に寝かせてから自分も腰を降ろした。
「今から二日前のことだ。俺たちはそれまで、蛇神から『見聞を広めてこい』ってお達しを受けて、四ヶ月ばかし日本中を旅して回ってた」
話していく横で、黒羽が台所から人数分のコップを持って戻ってくる。多少は互いの緊張が和らげば。そう思い、飲み物を準備してもらっていたのだ。
「茶だ。飲みたいなら飲め」
「おう、あんがとよ」
ピリピリした様子でコップを手渡したあと、黒羽は無言で僕の横に座る。結城が話を再開した。
「……それで、だ。ワクワクドキドキ全国一周ぶらり旅を終えた俺たちは、土産を持って蛇神の祠に帰って来た。だがあいつは、俺たちの顔を見るやいなや――攻撃してきやがったんだ」
「攻撃? それって……」
「文字通りの意味だぜ? なんかの間違いだと思ってこっちも話し合おうとしたんだが、まあ問答無用だったな。二言目には衝撃波がやって来て、油断してた俺たちは無様にドカンさ」
「それでここまで逃げてきた、と」
「いや、少しは応戦した。あの蛇とは眷属契約を交わしちゃいたが、敵対されたらそんなのは無効になるだろ? 二人で同時に立ち向かって、そんで――」
面白いほどに歯が立たなかったらしい。二人の実力を以てしても、離脱が精一杯だったのだそうだ。
「……んな馬鹿な」
「お前ら疑ってんのか? 言っとくがな、俺だって本当は信じたくねえよ。だけど今話したことは嘘じゃない。俺の誇りにかけて誓ってもいい」
そう、淀みなく結城は言い切った。
彼には前科がある以上、その発言を易々と信じるわけにはいかない。しかし一方で、わざわざ嘘をつく理由が無いのも確かだった。
もしや僕たちを罠にかけようとしているのか。……いや、だとしたら、それこそ蛇神様が止めてくれる筈。そもそも怪我の説明がつかないから論外だ。
「俺は主のことにあまり詳しくねぇ。眷属になったばかりだかんな。けどあの時の蛇神は、絶対におかしかったと断言出来るぜ」
「……分かった、ひとまず信じる。他に気付いたことは?」
「デカくなってた。蛇っていうよりありゃ竜だな。おおかた……お前らが知ってる姿の十倍ってところか」
「十倍!?」
そんなの、まるで怪獣じゃないか。
「……黒羽、どう思う?」
彼女の緊張を少しでもほぐそうと、その肩に手をかけながら問い掛ける。
この中で最も蛇神を知っているのは君だ。何か思い当たることはないだろうか?
「ふむ、ここまでの話を聞いた限りでは、まだ一切の想像がつかんな。お前のデマカセである説が最も妥当だが……楓と同じく、私もお前が嘘を吐いているようには思えない」
僕の手に顎を乗せながら黒羽は応えた。
君でもさっぱり分からないのか、などと僕が思っていると、不意に左の脇腹が撫でられてドキリとなる。僕からのスキンシップが嬉しかったのか、黒羽が無言で腰に手を回し、さりげなく身体を密着させてきていた。……うわ、ちょっと待って。その、柔らかいものが、腕に、あの。目の前に人がいるんですけど。
「イチャイチャしてんじゃねえよオトコ女。あの時といい今といい、見せつけてんのかオラ」
「うん? おおっと悪い、これはデリカシーが無かったな」
「あ?」
「お?」
八畳の部屋に火花が散る。昼の買い物で胃薬を買わなかったことを、僕は今になってひどく後悔した。
「あー……取り敢えず二人とも、その振り上げた拳を降ろしてくれる? 喧嘩とか時間の無駄でしかないだろ」
「……む。分かった、遺憾だが認めよう。今のは私に非があった。……謝罪する」
「おう。全部なかったことにしてやらぁ」
僕の仲裁に従って、二人とも浮き上がりかけていた腰を渋々降ろす。
そうだ、それでいい。ここで殺し合いを始めてくれては困る。部屋がめちゃくちゃになるのも困る。
ホッと胸を撫で降ろしてから、僕は脱線しかけた話を本題に引き戻すことにした。
「要するに、自分たちではどうしようもないから、僕らに解決を手伝って欲しいと」
「話が早くて助かるぜ。そっちの烏は蛇神と旧知の仲。でもってお前は主クラスの霊力を持ってる。しかも性格まで交渉向きときたら、多少の因縁は見過ごすしかねえだろ。頼んだぜ」
は? ちょっと待て、何を勝手に頷いてくれてんだ。まだ手伝うとは一言も言ってないぞ。
結城たちが僕らを当てにする理由は分かった。だが了承するかどうかはまた別問題の筈。ましてや相手がこいつらなら、尚更だ。
面倒ごとを持ち込まないで欲しい。そう言って断ろうとしたとき、結城の腕の中で木崎が身動きをした。
どうやら目が覚めたらしい。艶やかな睫がゆっくりと持ち上がって、宝石のような瞳が僕を、それから黒羽を映し出す。何回か瞬きをしたあと、その唇が三日月に歪んだ。
「……あら、美味しそうな鳥肉が目の前に」
僕は無言で拳を振り上げた。
「ひいっ! ちょっ、タンマ! 待ってください冗談です! 冗談ですってばぁ!」
「少しでも心配しかけた僕が馬鹿だったよ。普通に元気そうじゃないか」
自然と声が強張る。こいつに関しては、何をするかまったく予測出来ないから怖い。あのとき僕が勝てたのは意表をつけたからだ。もう一度戦っても、果たして同じような結果になるかどうか。
「ちょっと、そんな怖い顔しないでくださいよぉ。対話をしましょう、対話! 私たちは賢いんですから、話し合いによって妥協点を探ることが出来る筈です。暴力反対! ジュネーブ条約! 独ソ不可侵協定!」
「それ最後には破られるやつだろ……。相変わらずよく回る舌だね。話し合い? 僕らを酷い目に遭わせたくせによく言う」
「あれは訳あって仕方なくやったんです。今の私は、しがらみ無し。二人に手を出すつもりはありません」
飄々とした喋りがいまいち信用ならなかったが、両手を掲げて降参のポーズを取っているのを見て、僕も静かに腕を降ろした。
過去の色々は脇に置いておく。争っても意味なんて無いしな……。
「オーケーオーケー、平和条約締結ですね。……それで、今どこまで話したんですか?」
「全部だ」黒羽が応える。「で、力を貸せとそこの狐に頼まれた」
「なるほどですね。じゃあ私からも――」
「断る」
短く、ハッキリと黒羽はそう告げる。狐たちの間に緊張が走った。
「当たり前だろ? 百歩譲って、私たちに助けを求めてきたのは他に選択肢がなかったから仕方ないとしよう。だがそれで過去がチャラになったわけじゃない。お前たちは楓を殺そうとした。そんなやつらの頼み事など引き受けてやる義理があるか」
「……楓くん」
黒羽の説得が無理だと悟ったのか、今度は僕に縋るような目を向けてきた。変な期待をさせると面倒なので、頭を振って拒絶の意思を示す。
「悪いけど僕も同じだ。これはそっちの問題だろ? 僕と黒羽には関係ない。君ら結構強いんだから、自分たちの力で頑張れば」
「ひどい! じゃあ何ですか、このまま私たちが野垂れ死んでもいいって言うんですか!」
「そうだけど? だいたい、優しさが身を滅ぼすって僕に教えたのは君じゃないか。助言に従って非情でいさせてもらうよ」
トラブルに首を突っ込む気はない。僕たちは平和に暮らしたいのだ。正直、狐たちがどうなろうが知ったこっちゃないって感じである。
「……ま、そうだよな。断るのは当然だ。俺だって多分そうする」
「だったら早く帰れよ」
「まあ待て、楓。ここでちょっと考えてみようぜ。お前たちは、あの蛇神に借りがある筈だよなぁ?」
「……っ!」
痛いところを突かれて反論に詰まる。確かに僕たちは蛇神の世話になった。そして未だにその恩を返せていないのも、また覆しがたい事実なのだ。
「俺たちっていう邪魔者を預かってもらったくせによぉ、何かあったら我関せずで知らんぷりか? そりゃあ流石に不誠実ってもんじゃねえの?」
くそ、嫌らしい。こう言えば僕は断れないとでも考えたんだろう。そして実際、その推測はあたっている。
「……分かったよ」
「楓!?」
僕が仕方なく頷くと、黒羽からは驚きの声が上がった。
「正気か? こいつの理屈は暴論だぞ。狐どもが盗人猛々しい!」
「だね。だけどそれでも一理あるだろ。蛇神様には色々と助けられたし、それを差し置いても何が起こったのか気になる」
「た、確かにそうだが。でも……」
不満げに唸る黒羽だったが、それらしい反対意見も思い付かなかったのだろう。最終的に呆れた様子でため息をつくと、僕の手を強く握りしめて囁いた。
「私も一緒に行くからな」
「……留守番しててもいいんだよ?」
「汝の命をこいつらに預けられるか。巧妙な罠かもしれないだろう。ただでさえ汝は他人に甘くて、騙されたり利用されたりしやすいんだから、もうちょっと危機感を持て」
うーむ情けない。割と事実だから言い返せないのが悔しい。
「決まりですね」
木崎が手を叩いて立ち上がった。
「納得いただけて嬉しいです」
「その代わりリーダーは僕だからね。言うこと聞けよ。……というか、まさか今から行くつもり? 蛇神様の居る場所って結構遠いんじゃないの」
「だからこそ、ですよ」と木崎は当然のように返す。「目的地へは車で向かうのが一番いい。ここまで徒歩で来たんですから、復路は楽をさせてもらいます。けれどわたしも楓くんたちも、残念なことに車を持ってない。つまりどこかから調達する必要があるわけですが――」
そこで彼女は、己の手首を人差し指でわざとらしく指し示した。
「博多のレンタカー屋は、夜の八時に営業を終了するんです」
今はもう五時半ですよ? そう、可愛げもなく首を傾げてみせる。
明日の朝に出発する、という選択肢は、初めから存在しないらしかった。




