予期せぬ訪問者
「――遅い! 遅いぞ楓っ! そんなんで私に勝つつもりか?」
高らかな笑い声を上げながら、黒羽が身体を反転させて回し蹴りを放ってくる。
ガードのために構えた腕へ、ハンマーで殴られたかのような衝撃が走った。そのまま吹き飛ばされそうになるのを、歯を食い縛って堪えながら、僕は両足に力を込め、全身をバネにして彼女を押し返す。
反撃とばかりにパンチを繰り出すが、すんでのところで烏の脚に受け止められた。ならばと今度はキックを放つも、足を振りかぶったところで脛を蹴られる。
悶絶する僕を尻目に、悠々と上昇していく黒羽。僕が飛べないことを踏まえての振る舞いだろう。
ここは、九鳥大学に程近い山の中。
およそ一般人が立ち入らないような、鬱蒼と木々の生い茂るその奥深くで、僕たちはしのぎを削っていた。
もちろん本気の殺し合いではなく、あくまで戦闘の練習だ。遡ること三ヶ月前、僕が「強くなりたい」という思いをぶちまけたあの日から、基礎的なトレーニングと並行し、二日に一回の頻度でこうして稽古をつけてくれている。
ルールは簡単。黒羽を捕まえたら僕の勝ち。僕をねじ伏せたら黒羽の勝ち。良く言えば実践的、悪く言えばスパルタなやり方だった。
「ほーらどうした、今日こそ私を押し倒すんじゃなかったのか」
「……っ、ほんっと素早いよね、君はさぁ!」
上空の黒羽へ向けて僕は悪態をつく。
翻弄されているように見えるが、実はこれでもマシになった方だ。最初の頃は彼女に着いていくことさえままならなかった。
本気の黒羽は矢のように速い。しかも僕より戦い慣れしてるせいで、一撃一撃が何気に洗練されているときた。
目視で距離を測る。あそこまで……ジャンプで届くだろうか。人間のときより身体能力は強化されているけど、烏を相手に空中戦は避けたいところだ。
「……油売ってないでさっさと降りてきたら? それともそっから僕に手が届くわけ?」
試しに挑発してみると、黒羽はニヤリと口元を歪めた。
「いいぞ。下手に相手の土俵で戦おうとせず、自分の得意な間合いに持ち込むんだ。私はそれを強いられて負けたことがあるからな。同じ轍を踏んで欲しくない」
「そう。ご教授ありがと」
「どういたしまして。――そら、行くぞ!」
漆黒の翼を折り畳む。黒羽が一気に距離を詰めてきた。
正面から迎え撃ったのでは弾き飛ばされそうだ。タイミングを合わせて身体を捻り、攻撃を脇に逸らす。勢いを利用して回し蹴り。黒羽は上半身を反らしてそれを回避すると、滑るように宙を移動して、再び僕から一定の距離を取った。
「うん、今のは惜しかったな」
「……っ、待て!」
「はは、こっちだこっち!」
遠ざかっていく黒羽と、必死に追いかける僕。接近しなければ彼女を捕まえることは出来ない。しかしこのまま鬼ごっこを続けても、いたずらに体力を磨り減らすだけだ。
……ちょっと冒険してみるか。
「急々如律令、斬!」
印を組む。手頃な木の枝を目掛けて呪文を唱える。
少しズレたが命中した。付け根から折れた枝は、予想通り黒羽の背後へ。彼女の進行を遮るような位置へと落下する。
黒羽が思わず速度を落としたのに合わせて、僕は全力で地を蹴り、その首元へと手を伸ばした。
そう、単純なスピードでは敵わない。逆に言うとそこさえ殺してしまえば……僕だって彼女に追い付けるのだ。
「――捕まえた!」
「ほう、なかなかやるじゃないか。だが……」
パチッと、黒羽がウインクをしてみせる。いつしか翼は人間の腕に変わっていた。
「少々、私だけを見過ぎだな」
黒羽の指が僕の顎に這わされ、そのまま上方向へ押し上げられる。突然のことに面食らった僕は、抵抗できぬまま無防備に上空を見てしまった。
視線の先には晩秋の太陽。真夏のそれにも劣らぬ強さで、燦々と輝いていて……。
「っっ!?」
熱と光が眼球を貫く。焼かれるような痛みを受けて、僕は思わず蹲ってしまった。
慌てて黒羽から離れようとするが、彼女がこの隙を見逃す筈もない。瞬きの間にその姿が消え……直後。背後から降ってきた烏の脚に、胴体をガッチリと鷲掴みにされる。
振り払おうとするも時既に遅し。僕はそのまま地面に押し倒された。
「私の勝ち。チェックメイトだ」
「……ああ、くそ。また負けたよ。この前は勝てたから今回もって思ったんだけど」
「そう簡単に連勝などさせんさ。最初と比べれば段違いに手強くなってる。だが私に届くのはまだ先だな」
おつかれ、と優しい囁き声。耳元を撫でていく甘い吐息。あまり女性慣れしていない僕は、それだけでドキッとなってしまう。黒羽が笑う気配があった。
「……それ、毎回同じことするよね。僕の反応でも気に入ったの?」
「何か問題があるか? 私のために強くなろうと、必死に頑張っている汝の姿。これが愛しくないわけないだろう」
愛しい、なんて言葉を臆せず口に出すあたり、僕より一枚も二枚も上手だ。
最近こういうことが増えた気がする。本性を現した、と言うか。自分の感情に対して正直になった、と言うべきか。つまるところ、スキンシップに遠慮がなくなった。脈絡もなくめちゃくちゃ触ってくるし、めちゃくちゃ抱き締めてくるし、めちゃくちゃ甘えてくる。
動物か? と最初は思ったけど、考えてみれば動物だった。
好意を示してくれるのは、正直に言ってもの凄く嬉しい。僕だって出来るだけそれに応えようとしている。だけど唐突に頬を擦り寄せてきたり、座ってたら無言で肩を抱き寄せたりするのは止めて欲しい。……いや、別に止めなくていい。本音ではもっとして欲しいまであるけど、要するにその……心臓に悪いのだ。可愛いときと凜々しいときのギャップとか特に。
「怪我はしてないな? …………んっ、と。やっぱり身体を動かすと気分がいい」
上機嫌で思い切りのびをする黒羽。艶やかな汗が引き締まった肉体に流れ、陽光を反射して美しく煌めく。健康的なその姿に、何とも言えないときめきを覚えるのはきっと僕だけじゃないだろう。
それから彼女は僕を解放すると、腹の下に腕を回して、抱き起こした。
「そろそろ帰ろうか、楓」
※
「ところで今日の夕飯は何にするんだ?」
「何がいい? お昼に買い物行ったから、食材は色々とあるよ」
「むう、そうだな……前に食べたあれが美味しかった。葉っぱの上に豚肉を乗っけたやつ」
「冷しゃぶ? 作るの楽だしそれにするね」
「あとあれだ。びいる? わいん? よく分からんが、酒とかいうやつも飲んでみたい」
「どうしたのいきなり」
「飲むと楽しくなる飲み物なんだろう? 汝と飲めば、もっと楽しい筈だ。相乗効果だ」
「じゃあ……今お金持ってないし、ご飯食べる前にコンビニで買おうか」
手を取り合って歩きつつ、そんな雑談を楽しむ霜月の夕べ。山と自宅を何度も行き来する内に、いつのまにかお決まりになっていたやり取りだ。
黒羽と一緒に暮らし始めたあの日、僕たちは簡単な約束を交わした。家事は二人で分割し、決して片方に押し付けないこと。
僕と黒羽は対等な間柄、要するに人生のパートナーなのだから、日々の負担を分かち合うのは至極当然である。
ちなみに僕が調理と洗濯、黒羽が掃除と皿洗いの担当だ。最初は黒羽も台所に立っていたのだが、力が強すぎて卵を握りつぶす、包丁の扱いが雑すぎて恐ろしい、塩と砂糖を間違えるといったトラブルの果てに一線を退いてもらった。
闘志は消えてないようなので、また今度練習に付き合おうと思う。
「いつも私の意見を通してばかりで悪いな……――ん?」
アパートに着き、階段を使って三階まで上った直後。黒羽が不意に足を止める。
どうしたの? と訊きかけて、まもなく僕もその理由に気付いた。
扉の前に、誰かが立っている。
誰だ? 何となく見覚えがあるような姿だ。あれは――。
「……え?」
そこで訪問者の正体を悟った僕は、思わず自分の目を疑った。
「ったく、やっと帰って来やがったか」
一人の女性をその腕に抱え。こちらの存在に気付いた彼は、ふてぶてしげな表情で舌打ちをかます。
「トロいんだよ。俺らがどんだけ待ってたと思うんだ?」
人混みでも目立つ鮮やかな金髪。ガッシリとした体格。荒っぽさの伝わる声。どれもこれも見覚えしかない。
かつて僕の命を狙った妖怪、宗像結城がそこに立っていた。




