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比翼の烏  作者: どくだみ
第2部
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プロローグ(上):別れの記憶

「存外に早い別れとなったな、我が盟友よ」


 戦いによって傷だらけとなった一柱の猪神は、隣に付き添う純白の山犬に向けてそう言った。


「思えばお主には世話になった。これまで余に仕えてくれたこと、心より礼を言うぞ」

「何を情けないことを。鎮西の大神ともあろうお方が、こんなところで果ててよいものですか」


 山犬は激励し、横たわる猪の脇腹に鼻を近付ける。傷口は深く、出血が止まる気配もない。流れ出す血潮は草木を染め、純白の毛並みを染め。土石の上へ到達してから、小さな川となって斜面を流れていた。

 自身が汚れぬのも構わずに、山犬は猪の下に顔をねじ込ませ、巨大な体躯を何とかして立ち上がらせようとする。

 しかし上手くいかない。類い稀なる知恵を有し、同族の仲間たちと比べて圧倒的に長く生きてきたとはいえ、その山犬はあくまで山犬だった。たかだか一匹の力では、自分の数倍もある巨体を動かすなど到底不可能であった。


「無駄に消耗するでない。お主とて疲れておるだろうに」

「……むう。ですが、このままでは」


 諦めようとしない山犬へ、猪神は穏やかに語りかける。


「よく聞くのだ。見ての通り余はもう長くない。どうにも落ち着きのない、波瀾万丈の命であったがな、最期くらいは静謐に看取って欲しいのだよ」

「……いえ、いえ! どうか泣き言はおやめください。ただちに御身の地へと帰還すれば、この程度の傷などたちどころに治してしまえるでしょう!」

「その通りだの。だが今の余にとって、高千穂の山はあまりにも遠すぎる」


 諦めか、それとも年の功故か。這い寄る死にも動じることなく、猪神は喉を震わせて笑う。その拍子に口から血が噴き出して、目の前のツツジをびしゃりと濡らした。呼吸は回を重ねるごとに浅く、そして弱々しくなっていく。


「……終わりの前に、余はすべきことを為しておかねば」


 瞳孔の開きつつある瞳で山犬を見つめて、猪神は呟くように口にした。


「近う寄れ、マヤ(・・)。比類なき我が友。余はこの時より、己が神の座をお主に委ねるものとする」

「……何を。私にそのような大役など」

「務まらぬと申すか? ならば、他に何者がおろう」

「私はあなた様と比べて無力です。この国はおろか、眼前の御身を救うことさえ(あた)わない」

「最初から無欠な神などおらんよ。余や、朽ち果てた神獣たちが皆そうであったように」


 猪神が愉快そうに鼻を鳴らす。どうしてそこまで余裕を持っていられるのか、隣の山犬にはまだ分からなかった。

 今の猪神をかろうじて生かしているのは、紛れもなくその身に宿す神としての力だった。それを他者へと移譲すれば、猪神は間違いなく命を落とす。しかしこのまま放置したところで、事態が好転しないのもまた明白であった。

 それを理解している以上、山犬としては、渋々その場に跪く他ない。


「陽気なお主と過ごした日々は、実に楽しいものであった」

「光栄にございます」

「いまわの際くらいは、その堅苦しい敬語を取っ払っても構わぬぞ?」

「……ならば言うがな、猪神よ。ああするのが最善であったとはいえ、少しくらいはこの私に相談があっても良かったのではないか? 猪突猛進に過ぎる」

「ふはは。それは仕方ない。いかなる壁にも、正面から突撃してなぎ倒す。これこそ余の生き方であるが故に」

「存じているとも。おかげで私が迷惑した」


 屈託のない口調で山犬は応える。別れを惜しむのも悪くない。しかしおそらくこの猪神は、涙より笑いで看取られる方を好むだろう。

 顔を重ねる。猪神の霊力が、少しずつ山犬へと流れ込み始めた。


「――極楽にて待っている」


 それが最期の言葉だった。

 対する最期の返事はこれだ。


「ならば私は、しばし遅れて参上しよう」


 猪神に届いていたかは、今となっては知る術さえない。

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