番外編:彼女がイケメンすぎて困ってる(後)
恋人の馴れ初めというのは、文字通り十人十色だと思う。
大学のサークルで一緒だった。
合コンで知り合った。
仕事の同僚。
幼馴染み。
エトセトラエトセトラ。
ふとしたきっかけでトントン拍子に事が進むときもあれば、長年続いてきた関係が一歩上の段階に昇華して、永遠を誓い合う仲になることもある。その人にはその人なりの出逢いがあり、誰もが皆、自分だけの物語を持っているものだ。
僕の場合、その物語は少しばかりドラマチックで、少しばかり特殊だった。
霧に覆われたある夏の日。突然現れた狐の化け物と、そいつから僕を守ってくれた女性。命を賭けた戦いのあとで、僕は彼女の秘密に触れた。昔助けた烏の妖怪であること。これまでもずっと僕の傍にいたこと。一度は別れを告げたけれど、そのあとでまた何やかんやあって、最終的に恋人という関係で落ち着いた。
ここで強調したいのは、僕たちの関係は僕が守られる側で、彼女が守ってくれる側だったということだ。
別にそれが嫌なわけではないが、実を言うとちょっぴり不満もある。
立場が逆だと思う。
分かっている。色んな関係があっていい。男女のステレオタイプに固執するつもりもない。黒羽の掠れた低音ボイスで「守ってやる」「私の後ろに」なんて囁かれたい欲求もまあ無いわけではない。
だけどそれでも、好きな相手は守ってあげたいし、守れるようになりたい気持ちがあるのだ。
一応、男だし。
賛否両論あるかもしれないけど、戸籍上はそうなっているのだし。
だから……。
「自分を鍛えて欲しい、だと?」
「うん。お願い」
怪訝そうな顔をする黒羽に正面から向かい合って、僕は真剣な口調で頼み込む。
半神になっても変わらないネガティブ思考で、何日もの間、散々に考えた末の言葉だった。
暦の上では、8月がもう終わろうとしている頃。しかし暑さは弱まる気配さえ見せない。部屋に備え付けの冷房は、新品のくせして微妙に効きが悪く、おかげで僕たちはじんわりと汗をかいていた。設定温度を下げてもいいのだが、そうすると今度は黒羽が身体を冷やすのである。
お洒落に興味など無さそうな黒羽は、今日も今日とて機動性重視のタンクトップを着ていた。肌の露出する面積は非常に広く、引き締まった肉体もよく見える。だから何だというのか? その解答は僕からは言えない。
「……汝の頼みなら断る理由はない。だが、どうしていきなりそんなことを言い出したのか、聞かせてもらえるか?」
応えて、黒羽は手元の麦茶を勢いよく飲み干す。液体が食道を下っていく音と共に、曝け出された綺麗な喉が、トクントクンと脈打って見えた。
「ぷはっ……! うん、やはりこの時期の冷たい飲み物は美味しいな! 沢の水を思い出すよ」
「好きだね、それ。でも氷は入れないんだ?」
「私たち烏は体温が高いからな。汝にとっては物足りない温度でも、私には丁度よかったりするのさ」
「そっか」
頷いて、そこからしばらく奇妙な沈黙が流れた。
僕の言葉を待っているのだろう、黒羽は髪の先を弄りながらこちらを見つめている。無理矢理に聞き出そうとしないのがありがたかった。
「……どこから、話そうかな」
ポツリポツリと、口火を切る。
難しいのは最初だけで、始めてしまえばそこからは楽だった。
「黒羽は、さ。どうして僕が君を好きになったのか分かる?」
「汝が私を? ……ぬ、そうだな。結果に満足してあまり考えたことはなかった。汝を守ろうとしたからか?」
「それもある。だけどね、僕にとって一番大きかったのは別の理由なんだ」
「というと?」
「……見せてくれただろ、何もかも」
黒羽は微かに目を見開いたが、そのまま無言で続きを促してくる。
「君の記憶。僕と出逢ってからの全て。明るいことも、苦しい思いも、包み隠さず打ち明けてくれた。黒羽だって覚えてるよね?」
「……」
「これまで、そして多分これからも、あんなことしてくれるのは君だけだと思った。だから好きになった。好きでいたいと思えたんだ」
友人に裏切られた直後だったから、余計に心を揺さぶられたのかもしれない。
他人との交際なんて、簡単そうでいて難しい最たる例だ。どれだけ親しい間柄でも、他人の心は読み解けない。笑顔の裏には怒りが潜んでいたりするし、好かれているようで実は嫌われていたということもある。
そこまで理解した上で自分らしい付き合いを続けられるのなら、それは強い人だ。僕はそうじゃない。あれこれと深読みして気を使って、結果的に息苦しさを感じてしまう、そんな損なタイプなのだ。
だけど黒羽は、見せたいところも見せたくないところも全て曝け出してくれた。あの瞬間に僕は、彼女を信じてもいいって確信出来たのだ。
絶対に裏のない好意を向けられて、自分でも驚くほどに嬉しかったのだ。
「……私は、嫌われるだろうと覚悟していたぞ」
「ひどいすれ違いだね」
そう言って力なく笑うと、黒羽は小さく肩を竦めてみせた。まったくだな、って感じだろうか。
「続けてくれ。それがどうして“強くなりたい”に繋がったんだ?」
「簡単だよ。君と同じ事が僕には出来ないからさ」
「……」
「ずっと近くにいたからって、僕の全部を知ってるわけじゃないだろ? 君に見せてない部分だってある。見て欲しくないとこも同じくらい多い。別に黒羽が嫌いとかじゃなくって、僕は元からそういう性格なんだ。自分だけのゾーンを残しておきたいタイプ? だけど……何て言えばいいかな、それだと対等になれない。だからその穴埋めじゃないけど、好きな相手を守れるくらい強くなりたい。無理ならせめて、君の手を煩わせないくらいには。……ごめん、グチャグチャな説明で」
支離滅裂になりながら、何とか言葉を絞り出す。
要するに、僕は自分が情けないのだ。黒羽が僕に向けてくれた想いの半分も返せていない。だったら別の方法で……となるのだが、それも無理。彼女を守れるだけの力量が無い。人間をやめて力は強くなったけど、未だに彼女には追い付けない。
これまで自分は弱かったし、別にいいやと吹っ切れてもいた。強くなりたいと思えただけ、多少は成長したと言えるのだろうか。
「……汝は既に強いだろう」
「強くない」
「木崎を倒して、私を助けてくれたじゃないか」
「上手く意表をつけたからさ。今もう一度戦ったら、分からないよ」
首を横に振りながら、あの日の記憶を脳内に呼び起こす。
余裕の勝利を収めたように見えても、実際は危ない綱渡りだった。挑発的な台詞とタイミング、人間は弱いという木崎の先入観。それら諸々を組み合わせた一世一代の大博打。もしも彼女が慢心せず、冷静に僕と相対していたなら、ああも容易くねじ伏せることは出来なかっただろう。
「だからといって、私に相談してくるのは本末転倒じゃないか?」
「仕方ないだろ! 君が一番適任なんだよ。君より強い人とか知らないし、一人でやろうにもやり方が分かんないんだから」
思わず荒げてしまった声に、黒羽がビクリと肩を震わせた。
「……っ、ごめん」
気が昂ぶった。そう、目を伏せて謝罪する。黒羽は何も言わなかった。一瞬、視線を持ち上げて確認すれば、彼女は瞑目して何かを考え込んでいる。
どうしたんだろう。僕が不思議に思ったそのとき、彼女は唐突に瞼を開き、それから僕に向けて腕を開いた。
「楓」
「……黒羽」
「おいで」
微笑む黒羽。似たような台詞を、黒羽に化けた木崎も言っていた気がするけど、今回の彼女は間違いなく本物だ。
戸惑った僕が動けないでいると、黒羽は業を煮やしたのか、自分からこちらへとにじり寄ってくる。
僕の背中に腕を回し、包み込むようにして優しく抱き締めた。彼女の体温を肌で感じる。甘い香りが世界を満たして、胸の鼓動は勢いよく駆け上がる。
「あ、あの……」
「私に守られるのは不満か?」
心地良いアルトが耳元で囁かれる。僕は慌てて否定した。
「違っ……そうじゃない。そうじゃないけど……」
「無理に言わなくていい。汝の気持ちは分かっているから」
すぐ傍から。甘い吐息が僕の頬を撫でていく。
蕩けそうだ。
「想ってくれるだけで十分。……私がこう言うと、汝は気に入らないんだろうな」
「僕ってわがままだからさ。君が毎晩、こっそりとトレーニングしてたりするのを見ると、僕も何かしたいなって」
応えれば、黒羽が息を飲む気配があった。
「気付いていたのか」
「あ、図星? トレーニングの部分は予想だったんだけど」
「なっ……――謀ったな」
照れ隠し混じりの素っ気ない呟き。ちょっと顔が赤い。分かりやすいなぁ、と思いながら、僕は彼女を抱き締め返す。
「真夜中にさ、隣で寝てる人がごそごそ動いてどっかに出掛けるんだもん。さすがの僕だって目が覚めるよ」
「しょうがないだろ。身体が鈍るのは良くないが、汝との時間も削りたくないんだから」
待って、ずるい。
そんなこと言われたら、もう何も言い返せない。肯定も、否定も、ちょっとした嫌味も無し。ただ無言で頷いて、両腕に力を込めるくらいしか出来なくなってしまう。
黒羽が僕の頭を撫でると、故意か偶然か、胸元に柔らかいものが押し付けられる事態となった。目を白黒させる僕だったが、わざわざ彼女を押しのけようなどとは想わない。
沈黙を破ったのは黒羽からだった。
「……よし」
一つ、大きな息を吐いて、黒羽が僕を解放する。それから僕の手を握り、引っ張るようにして立ち上がらせた。
「着いてこい。望み通り汝を鍛えてやろう」
「……っ、今から?」
「ああ。善は思い立った日にしろ、というだろ?」
ちょっと違う。
「初めから私と同じメニューをこなすのは難しいから、段階を踏んで過酷にしていこう。言っとくが遠慮はしないぞ。覚悟しておけ?」
ニヤリと口元を緩める黒羽。大丈夫かな、という不安が早くも生まれてきたが、何とかなるだろうと僕は思い直す。いや、何とかしてみせようじゃないか。僕だって男なんだ。引っ込むくらいなら当たって砕けろ……!
「……オーケー。徹底的にやっちゃってよ」
不敵な笑みを作ってみせれば、「任せろ」と自信ありげな返事が返ってくる。
かくして、ちょっぴりハードな僕の肉体改造計画は幕を開けた。
この努力に意味があるのかは、今の段階ではまだ分からない。
あるということにしておこう。
命の形を変えたのだから。自分の生き方くらいなら、きっと簡単に変えられる。
そう信じようと思う。




