番外編:彼女がイケメンすぎて困ってる(前)
「……黒羽、そろそろ来るかな」
腕時計の針を眺めながら、僕こと出雲楓は一人言を呟いた。
季節は、夏。半神になって1ヶ月弱が過ぎ去った、8月の末。九鳥大学最寄り駅の入り口で浮き立つ心を抑えながら、僕は黒羽を待っていた。
何を隠そう、デートの待ち合わせである。
提案したのは、珍しいことに僕からだった。まず、烏であった彼女にデートとは何たるかを教えて聞かせ。その上でさりげなく、あまり強制をさせないような言い方でスマートに誘った。誘えた筈だ。誘えたと思う。誘えたことにしておく。
ちなみだが、僕たちは現在事実上の同棲関係にあるので、待ち合わせなんて本来する意味無い。今日みたいに、わざわざ出発する時間をずらすなんて労力の無駄だ。
僕だってそれは分かっている。
でも……恋人となったからには、ほら。やってみたいじゃないか、待ち合わせ。
『待った?』『いや、今来たとこだよ』とか。言ってみたいじゃないか、嘘でも……!
「ねぇねぇ、ちょいとそこのお兄さん」
妙にねっとりとした撫で声で、考え事をしていた意識が現実に引き戻された。
誰だ? そう思って視線を下げれば、何かのパンフレットを持った小太りな中年の女性がそこにいる。
知らない顔。一目見て分かる化粧の濃さ。髪は脂じみていて、香水でもつけているのか、強烈な薔薇の匂いがこちらにまで漂ってくる。
顔をしかめないよう我慢しながら応えた。
「……僕ですか?」
「ええ、あなたよ!遠くで見てたんだけど、お兄さん、ずうっとムツカシそうな顔をしてるようだったからね。悩みがあるのかなー、悩みがあるんだろうなー、って思ったの。どうかしら。そうよね。悩み、一つや二つくらいあるわよね」
「は、はぁ……?」
いきなり何なんだこのオバサン。初対面にしてはなれなれし過ぎる。たしかに僕は考え事をしてたし、悩みだっていつも何かしら持っているけど、この人にはまったく関係ない事の筈だろうに。
「でね。こっからが本題なんだけど、実はわたし、『光のスプーン』っていうカウンセラー団体に所属しているのね。今もあそこの建物で、皆さんのお話を聞いて力になってあげるってことをやってるわけ。どうかしら。時間があるなら、お兄さんもいらしてみない?」
……ああ、なるほど。そういう類の勧誘か。
「興味ないのでいいです」
「相談料なんて取らないわよ? もちろん守秘義務も守る。抱え込んでいることの一つや二つ、話してくれればきっと楽になる筈」
「大丈夫です」
「自分に嘘をつかないで? ほら。さ、さ、さ」
「い、いや、だから僕は」
結構です。そう続けようとしたとき、女の手が僕の腕を掴んだ。
「ちょっ、何を――」
「こちらよ。おいでませお兄さん」
むわっと漂ってくる薔薇の匂い。拒否感で身体がビクリと震えた。
気持ち悪い。
「あ、あの!離してくださ――」
後ずさろうとする僕に構わず、女は強引に僕を引っ張っていく。
振り払おうと思えば振り払えただろう。相手は女性だ、力では負けない。だけどそのときの僕は面食らっていて、力尽くで女を引き剥がすという思考が生まれなかった。
……要するに、ビビっていた。
どうしよう、と考える間もなく、僕はなし崩し的に連れられて行きかける。
不意に身体が後方へと引き寄せられたのは、まさにそのときだった。
「――失礼、ご婦人」
耳元から聞こえる掠れ気味のアルト。よろめいた僕を、しっかりと抱き留める力強い腕。心地良い香りが全身を包んで、濃厚なバラの残り香を僕の脳内からかき消していく。無造作に伸ばされた黒髪が目の前で流れた。
振り向けば、見慣れた顔がすぐそこにある。
「私の連れに何か用か?」
丁寧、されど苛立ちを微妙に滲ませた声で黒羽が問い質す。女が「まあ!」と目を見開いた。
「なんて素敵な彼女さんなのかしら! ちょうどいいわ。今、彼氏さんにカウンセリングのお誘いをしていたの。せっかくだからお二人で一緒にどう? きっと幸せになれると思うのだけど」
そう言ってニコニコと笑いながら、手に持ったパンフレットを押し付けてくる。
黒羽が一歩、僕を抱き締めたまま後ずさった。
「結構だ」
「あらそう? 幸せになろうとは思わない?」
「私は今でも幸せだし、こいつも私が幸せにする。私のものだからな」
「なぁるほどね。でもよ、そうは言っても人間同士、完全に相容れるのは難しいものじゃないかしら。そこで私たちが手助けをしてさしあげようと――」
「黙れ」
刃のように鋭い声。女が口をつぐんだ。今、僕の後ろで黒羽がどんな顔をしているか、その反応だけで想像がついてしまう。
「はっきり言わねば分からんのか? 私の楓にこれ以上近付くな。とっとと失せろ」
黒羽がここまで敵意を露わにするのは珍しい。知る限りだと、僕に危害が加えられそうになったときだけだ。
「あ、あらそうですか。失礼、お邪魔をしてしまって」
気まずそうに頭を下げて、女はそそくさと立ち去って行く。丸っこい背中が人混みに紛れ、すぐに見えなくなった。
「楓、大丈夫か?」
「えっ? あ、うん。ありがとう」
ドキドキしていたせいで生返事になってしまった。その内訳は、女への嫌悪が2割、助けてくれた誰かさんへのときめきが8割といったところだろうか。
黒羽が僕の正面に回って、指先で顎を持ち上げてきた。そのまま至近距離で僕を見つめる。身体がカアッと熱を帯びた。本人は入念に確認しているつもりなのだろうが、される側にとっては心臓に悪いことこの上ない。もっと自分の顔面偏差値を認識して欲しい。恋人同士とはいえ、こんなに顔を近付けるのはまだ慣れてないんだから――。
「よし、本当に大丈夫そうだな」
大丈夫じゃありません。
主に君のせいで!
「……何をそんなに呆けてる? ほら、行くぞ」
黒羽が片腕を持ち上げる。
「エスコート。してくれるんだろう?」
首を傾げて微笑む仕草は、余裕たっぷりで卑怯なほどに尊い。
彼女がイケメン過ぎて困ってる。
そんな惚気を聞かせたら、さっきの女はどんな顔をするだろうか。
考えただけで、ふと笑みがこぼれた。




