番外編:とある真夏のとある客
八月中旬、お盆。
タクシードライバーの鷲津浩一にとって、この季節はかき入れ時だった。
一般人なら仕事を休み、実家に帰ってゆっくり過ごす。ナスやキュウリで精霊馬を作り、親戚一同で墓参りに出掛ける。そんな感じなのだろう。
しかしインフラ関係の職に着いているからにはそうもいかない。社会を支えているのは自分たちであり、雨の日も雪の日も風の日も働き続けることが使命だ。――というのが彼の信念である。もちろん、過度な疲労は事故に繋がりうるので、休む日は全力で休息を取る。
今は、熊本駅の東口付近で客待ちをしているところだ。
横を向けば……帰省してきた家族連れだろうか。小学生かそこらの子供が、祖母らしき女性に駆け寄って、何やら楽しげな会話を弾ませている。
平和なものだな、と鷲津は思った。微笑ましい、とはならない。数週間前のとある体験がきっかけで、そんなことを感じる余裕は無くなってしまった。
巨大な狐の怪物と、それから逃げる若い男女のカップル。
これまで何人もの客を乗せてきたが、彼ら以上に印象的な者はいなかった。
あの日の出来事を、鷲津は適当に誤魔化して報告した。
が、嘘だということはすぐにバレたらしい。同僚の話だと、車体の傷からドライブレコーダーの記録まで、上層部は徹底的に調べつくしたそうである。その結果どうなったかというと、あの夜の一件は文字通りなかったことになり、自分は一週間の休暇を命じられた。
十中八九、もみ消されたのだろう。化け物に襲われた、なんて文章を報告書に残す訳がない。
だが、と鷲津は思う。社会が彼らを受け入れなくとも、せめて自分だけは、あの日見たものを忘れずにいよう。既知の世界が全てではないと、身を以て教えてくれたあの青年たちを。
とは言うものの……実のところ、気になる部分もある。
あの後、彼らはどうなったのだろうか。途中で命を落としたか、それとも無事に生き延びているだろうか。可能なら後者であって欲しい。そして欲を言うならば、事の顛末をもう少し詳しく聞きたいところだ。
「……おっと」
後ろの窓がノックされた。どうやらお客らしい。慌てて扉を開く。
「失礼しました。どちらまで行かれますか?」
乗り込んできた二人組に、鷲津はいつも通りの質問を投げかけ……次の瞬間。バックミラーに映った彼らの顔を見て、ハッと息を飲んだ。
「……お久しぶりです、ドライバーさん」
噂をすればなんとやら。考えるだけでも効果があるらしい。
あの日出会った青年と少女が、元気そうな様子でそこにいたのである。
生きていましたか。思わずそう言いそうになったが、直前で鷲津は考え直した。そんなのは見れば分かることだ。姿を見せに来てくれただけで十分だろう。
「おやどうも。お客さんは二回目のご利用ですね。ご贔屓に」
微笑みを添えて返事をする。青年は小さく眉を持ち上げてから「お礼を言いに来ました」と呟いた。
「博多駅までお願い出来ます?」
「かしこまりました。今回もなかなかに長距離のようで」
ギアをローに入れ、アクセルを踏み込む。車がゆっくりと加速して県道に出た。
前回と違って追っ手はいない。安全なドライブになるだろう。
※
目的地までの道のりで、鷲津は色々なことを問い掛けた。あれから何があったのか。どうなったのか。解答の内いくつかは明確で、いくつかはお茶を濁され、またいくつかはよく分からない内容だった。
その詳細について多くを語るのは止めておこう。彼らの辿った波瀾万丈の冒険譚は、おいそれと他人に打ち明けていいものではないのだから。
しかしそれでも一つだけ。青年と少女の関係についてだが……後ろの様子を見る限り、どうやら一定の進展を果たしたようである。微笑ましいという感情が久々に湧いてきた。
料金は最終的に万を越えた。
博多駅博多口、噴水がよく見える位置に車を停める。
メーターを確認した青年は、若干の苦笑いを浮かべてから、躊躇いがちに万札を二枚差し出した。
「お釣りは取っておいてください。……あのときのお礼ってことで」
鷲津は首を横に振った。
「嬉しいですが、受け取ることは出来んのです」
「駄目ですか?」
「仕事ですからな」
ニヤリと笑う。青年にお釣りを手渡すと、彼はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました、改めて」
「こちらこそ今後ともご贔屓に。そして末永くお幸せに」
最後の一言は老婆心を働かせた結果である。青年は顔を赤くして「はい」と頷いた。少女の方は無言だったが、さりげなく青年に肩を擦り寄せたのを鷲津は見逃さなかった。
去っていく二人を見送ってから、鷲津は再び車を走らせる。
赤信号の間、なんとなしに茜色の空を仰げば、二羽の烏が仲良く連れ立って飛んでいるのが見えた。青年たちとどちらが仲睦まじいだろうか、と答えの無い問題に考えを巡らせた。
「――“天にありては願わくは比翼の鳥となりて、地にありては願わくは連理の枝とならん”」
漢文『長恨歌』の一節を呟く。あの夜に青年が教えてくれたものだ。
今になって思ったことだが、このフレーズは彼らにピッタリである。
何だか気分の良くなった鷲津は、心の中でこう唱えた。
名前も知らないお二人へ。
どうか比翼の鳥とならんことを。




