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比翼の烏  作者: どくだみ
6.たとえ魔物に身をやつしても
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死を賭して

 私のように野山で暮らしていると、直感は嫌でも研ぎ澄まされるものだ。

 特に烏だった頃なんか、目と耳からの情報だけだとまず生きていけない。どこかから狙われてる気がする、とか。何となくここは危険な雰囲気、とか。そういうのが鈍いやつは早々に何かの餌になってしまう。

 理屈らしい理屈があるわけでもないが、それでも私の経験上、本能的に感じたものっていうのはアテになることが多かった。

 そして今。その直感が脳内で最大級の警告を発し続けている。

 背後から迫り来る妖怪の気配。もはや敵意を隠そうともしないそれは、逃げる私たちとの距離を徐々に詰めてきていた。

 街や平地ならまた違っただろうが、生憎とここは山の中だった。斜面、凹凸、鬱蒼とした草木。人間の身体で駆けるにはあまりにも相性が悪く、どうやっても全力の速度は出せない。加えて私の目の前を走る楓は、あの女狐によって酷く痛め付けられていた。

 本人は大丈夫と言ったが、実際は無理しているのだろう。その走り方に消耗が見てとれる。

 私がもっと早く助けていれば、こんなことにはならなかったのに。

 後悔の念が胸を焦がすが、それに浸っている余裕は無い。こうしている間にも、狐はますます近付いてきているのだ。

 守りたい相手と迫り来る敵の両方に注意を払いつつ、私は頭の中で必死に解決策を見つけ出そうとする。

 どうすればいい。どうすればやつから逃げられる? 師匠の山なら守ってもらえるが、あそこまではまだ距離がある。狐を振り切ろうにも速度では負け。私だけなら空を飛べばいいけど、楓を残していくなんて選択肢として論外だ。いっそどこかへ身を隠すか? ……いや、無駄だ。狐はそれなりに鼻が利く。匂いを辿って私たちを探し出すだろう。

 ……どうやっても逃げ切れない。

 それを悟った私は、静かに足を止めた。

 先を行く楓が私の方を振り向く。戸惑った表情に心苦しいものを覚えながら、私は覚悟を決めて一歩だけ後ろに下がった。


「何してんのさ、早く!」

「……先に行け」


 その言葉だけで私の意図は理解出来たのだろう。楓が驚いた様子で目を見開いた。


「私はあいつを迎え撃つ」


 突き放すような口調をわざと作った。こうでもしないと楓は頷かない……いや、多分こうしても、素直に私を置いていきはしないと思う。

 案の定、楓はすんなりと従ってくれなかった。


「……嫌だ」


 首を横に振る。彼の希望は叶えてあげたい。だが今回は例外だった。


「わがまま言うんじゃない」

「嫌だよ。一人で戦うなんて駄目だ。一緒に逃げよう。まだ追い付かれてないじゃないか」

「今はな。だがこのままだとじきに追い付かれる。言ってること分かるだろ」


 我ながら酷なことを強いている自覚はある。けれど仕方ないのだ。楓を守るためにはこうするしかない。そして迫り来る敵と戦えるのも、この状況では私しかいなかった。


「……だったら、僕も」

「ここに残るってか? 馬鹿言うな! 今はあの時と違うんだぞ」


 楓が手を伸ばしてくる。唇を噛み締めながら、私はそれを乱暴に打ち払った。


「汝は怪我をしてる。残っても足手まといになるだけだ」


 半分は本当だが、もう半分は楓を逃がすための言い訳だった。彼を危険に晒したくはない。

 何か言いたげな楓を遮って、私は続けた。


「それより汝は、このことを師匠に伝えろ」


 楓を安心させるため、無理して唇の端を持ち上げる。


「師匠の力は汝も見ただろ? 全知全能の神様だ。きっと何とかしてくれる」


 ちなみに嘘だ。確かに師匠は強いけど、それはあくまであの山の中においての話。昔ならともかく、老いと病で弱り果てた今はもう、その力はここまで届かない。

 ……きっと、楓にはバレているだろうな。

 まあ、だとしても別に構わない。私の中に楓を逃がす以外の選択肢が無いことを、彼が理解してくれればそれで十分だ。


「ほら、早く行け。私は大丈夫だから」


 緊迫した雰囲気の中、私たちは真っ向から見つめ合う。

 先に折れたのは楓の方だった。一瞬、その顔が哀しげに歪んで、それから彼はフウッと息を吐く。次の瞬間には表情は落ち着いていた。

 長い睫毛の向こう側、滲む憂いを覆い隠すように光が宿る。私を信じてくれているときの目だった。


「負けないよね」

「勝つさ」


 こちらの不安を悟られぬよう、努めて平静を装って返した。


「後から追い付く。生きて汝のもとに行く。約束だ」

「……信じていい?」

「ああ。信じろ」


 自分にとっては呪いでもある。これで私は、何が何でもあいつに勝たなくちゃならなくなったわけだ。

 楓が口を開きかけ、思い直したように再び閉じる。それでいい。下手な別れの言葉なんて、不吉以外の何でもないのだから。

 私が首を縦に振ると、楓は躊躇いながらも頷き返し、走り去っていく。その姿はすぐに見えなくなり、足音もやがて聞こえなくなった。


 森に、静寂が戻ってくる。緊張のせいか、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。

 白状しよう、私は怖い。

 今に始まったことじゃなく、大学で初めて妖狐と相対したあのときからずっと怖かった。

 おそらくそれは、性格とか鍛錬とか後天的な努力でどうにかなるものではなく、生命なら誰しも抱く本能的な捕食者への恐怖なのだと思う。

 ……だけど。

 たとえどれだけ怖くても、私は逃げずに立ち向かってみせる。

 自分が無惨に殺されるより、楓を失う方が私は嫌なのだ。


「……落ち着け、私」


 深呼吸をしつつ、己に言い聞かせる。

 これは特別なことじゃない。これまでだって。私は楓のために戦ってきた。それと同じようにやればいいんだ。ただ、そう、今回は、挑む相手が私より格上ってだけの話で。

 野生で培った直感が、すぐ近くに狐の気配を捉える。余計な不安を思考から閉め出し、私は振り返った。

 見える範囲にやつの姿はない。だが私には分かる。およそ十メートル先、生い茂る木立の向こう側。今まさに、こちらへ向けて歩いてきている。相手も私の存在には気付いているだろう。

 風が吹く。それに合わせて木漏れ日がチラチラと揺れる。私がいつでも動けるように身構えていると、草を踏みしめる音に重なって、何やら声が聞こえてきた。


「――“その代わり(からす)がどこからか、たくさん集まってきた”」


 柔らかく、繊細な響き。仰々しい抑揚。背筋がぞくっとする。


「“昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛び回っている。ことに門の上の空が、夕焼けで赤くなる頃には、それが胡麻(ごま)をまいたようにはっきり見えた”」


 隠れるつもりはないらしい。正面からこちらに近付いてくる。やがて茂みをガサガサとかき分けて、不気味な声の主――一人の少女がその姿を現した。


「“鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、ついばみに来るのである”。……烏って、死体漁りがお好きなんですか?」

「何だ今のは」

「『羅生門』。芥川龍之介という人間が書いた小説です。聞いたことありません?」

「いいや。生憎、興味も機会も無かったんでな」


 私が答えると、その少女は可笑しそうに笑ってから「面白いのに」と呟く。これまた随分と余裕そうだ。渾身の一撃をくらわせたつもりだったが、この様子だとあまり効いてないらしい。

 すぐに攻撃を仕掛けてもいいが、その前に一つだけ訊きたいことがある。


「楓に何をした?」

「色々と。しましたし、する予定でした」


 少女はからかうように言った。


「知ってますか烏さん。楓くんって意外と心が強くてですね。命乞いするかと思ってたのに、実際はその逆。必死で痛みに耐えながら睨み付けてくるんですよ! あーれは嗜虐心がそそられましたね」

「……っ、貴様ぁ!」


 身体がカッと熱を帯びた。詳細こそ不明だが、どうやら楓へ相当に酷いことをしたらしい。

 怒りに震えつつ歯軋りをする。今すぐぶっ飛ばしてやりたいが、冷静さを失えば敵の思うつぼだ。ここは抑えろ。隙を窺いながら、慎重に――。


「ああ、ちょうど今のあなたみたいな感じです! 睨み付けるときの目つき、楓くんにそっくり!」


 くそ、調子に乗りやがって……!


「さてさて、それはともかくとして。逃げ出した筈の烏さんが、どうしてこんなとこにいるんでしょうねぇ」


 少女はパチンと手を叩く。黄金色の尻尾が不気味に揺れていた。


「まさかわたしの邪魔をするつもりでしょうか?」

「……言わなきゃ分からないのか?」

「今なら見逃してあげてもいいんですよ? わたしはあなたよりも強い。けれど目的はあなたじゃない。だから……黒羽さん、でしたか。あなたの未来は二択なんです。ここで私に大人しく道を譲るか、それとも」


 そこで彼女は一泊の間を挟んだ。


「惨めに死ぬか」


 思わず苦笑が漏れてしまった。

 殺されたくなければそこをどけ、と。狐なりに情けをかけたつもりなのだろう。馬鹿らしい。その程度の脅しで私が退くなら、初めからここには立ってない。

 何を対価に出されようとも、私の答えはただ一つだけだ。


「どちらでもない」


 言い切ったその瞬間。飄々としていた少女の瞳に、これまでは無かった光が宿る。

 押し寄せる圧力に抗いながら、私は自らの決意を示すように拳を固めた。


「貴様を倒し、生きて楓のもとに戻る。そう約束した」

「……へえ。なら、後で謝っておくんですね。約束、守れなくてゴメンって」


 後があればの話ですけど。そう怪しげに囁いてから、少女はわざとらしく胸に手を乗せ、優雅に一礼を披露する。


「それではこちらも慎んで自己紹介を。わたしは木崎加奈。人の世へ紛れるための偽名にして、わたしが持ってる唯一の名前です」


 丁寧な言葉と裏腹に、その微笑みは氷のごとく冷たかった。

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