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比翼の烏  作者: どくだみ
5.願わくは、比翼の烏となりて
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月下の語らい

 星の綺麗な夜だった。

 長い長い葛藤の末。ようやく決意を固めた僕は、木の葉の隙間から差し込む月光を頼りに、黒羽がいるであろう洞穴へと足を進めていく。

 森は、静けさに満ちていた。遠くでフクロウが鳴いている以外には、これといった物音も聞こえない。仮にこの場が騒がしい人混みだったら、僕の緊張も少しは和らいだだろうか。

 足下に気を付けながら、緩やかな斜面を下っていく。濡れたままの衣服が肌に張り付いてきて鬱陶しかったが、動きを阻害してくるほどのものでもないので放っておいた。

 黒羽と話がしたい。その一心に従い、ひたすらに枝をかき分ける。

 やがて、唐突に視界が開けた。

 そそりたつような岩壁の表面にぽっかりと空いた洞穴の入り口は、夜空の色よりも一回り暗く見える。

 深呼吸して中を覗き込むが、予想に反して黒羽はいなかった。

 どこにいったんだろう。不思議に思ったその時、小さな鼻歌が僕の鼓膜を揺らす。

 熊本のホテルでも聞いた、幼子をあやすような優しいメロディー。出所を探して辺りを見回せば、洞穴の上の大岩に腰掛ける、細身の人影の存在に気付く。

 回り込むようにして横から登った。そこは下から見た印象よりも存外に広く、なおかつ平坦な場所だった。


「――黒羽」


 呼び掛けると、彼女はゆっくりと振り向いた。

 憂いを帯びた顔が月光に照らされ、星空を背景に仄白く彩られる。

 腰まで無造作に伸ばされた黒髪が、夜風に煽られ清流のように流れた。

 艶やかな指で前髪を掻き上げる。岩棚の縁から足を投げ出したまま、黒羽はどこか嬉しげに、それでいて悲しげに微笑んだ。


「来たのか」

「来ちゃった」

「……まあ、来るかなとは思ってた」


 肩を竦める黒羽。掠れ気味の声を綺麗だと感じてしまうのは、惚れた弱みも入っているのだろう。

 ゆっくりと近付いていく。彼女の座っている場所からは、どこまでも連なる高千穂の山々が一望出来た。絶景だ。


「隣、いい?」

「……ああ」

「ありがと」


 お礼を言いつつ、僕は黒羽が空けてくれたスペースに腰を降ろす。肩と肩とは触れないが、手を出せば届くような絶妙な距離感。近いようで遠かった。


「良い眺めだね」

「ここまでは木の枝も張り出してこないからな。お気に入りの場所だよ」

「別世界にいるみたい」

「私にとっては日常だが」

「何度も来れば、僕だってそう思うようになるかな」


 などと、わざとらしい雑談を交わしながら、僕は横目で黒羽の様子を窺う。彼女の視線は前方を向いていた。あえてそうしているようにも見える。微妙な表情の変化から、黒羽が何を考えているのか読み取ろうかとも思ったが、暗すぎてよく分からなかった。

 その時、不意に強い風が吹く。

 遮るものが無いせいで直撃をくらった。一瞬で体温が奪い去られて、僕は反射的に身を縮める。くしゃみが出た。


「……寒いのか」

「見ての通りびしょ濡れだから」

「……下に私の服がある。大きすぎるかもしれないが、それでも良ければ」

「いいの?」

「山の夜は冷えるぞ。このままじゃ汝が風邪をひくだろ?」


 おっしゃるとおりだ。季節の変わり目には高確率で体調を崩すような人間、それが僕。冷たい夜風に濡れたままで晒されれば、翌朝には間違いなく熱を出している。

 そんな訳で、僕は大人しく厚意に甘えることにした。

「待ってろ」とだけ呟いて、黒羽が軽やかな動きで岩棚を降りていく。再び一人になってしまった僕は、恋した相手に目を閉じて思いを馳せる。

 彼女は、何を考えているんだろう。

 妖怪の立場で人間を守るなど、どんな理由があれば出来るというのだろうか。姿形も生き方も、自分とは何もかも異なっている相手なのに。


「取ってきた」


 服を一式、片手に抱えて黒羽が戻ってくる。放り投げて寄越されたそれを、僕は危なげなくキャッチした。

 簡素な無地のシャツとジーンズ。広げて大きさを確かめてみる。言うほどブカブカでもなさそうだ。


「ありがとう」

「いいから早く着替えろ。私はあっちを向いてるから」


 黒羽の紳士的な気遣いのおかげで、わざわざ下まで降りる手間が省けた。

 一歩、岩壁の方に後退してから、湿った衣服を剥がすように脱ぐ。後でどこかに干しておこう。簡単に畳んでから足下にそれを置き、僕は黒羽のシャツへと頭を通す。

 瞬間、脳髄に電流が走った気がした。


「……ッ!」


 意識して嗅ぎ取るまでもなく、荒々しく鼻孔をくすぐる黒羽の香り。蜂蜜のように甘くて、竜巻のように激しい。きっと長く着続けているのだろう。気のせいでもなく幻覚でもなく、裾から襟まで全体に彼女が染み付いていた。

 ……これは、色々と危ない。

 臭いのであればまだ我慢出来ようが、幸か不幸かもの凄くいい匂いだった。右肩上がりに感情が昂ぶって、落ち着けと必死に言い聞かせるも、ドキドキはいつまでも止まらない。そこに黒羽のズボンまで履いたところ、もう何もかもが臨界点に達しそうになった。

 俗っぽく言えば、いわゆるカノシャツ。初めて纏った想い人の衣服は、初心(うぶ)な僕にはあまりにも刺激的な代物だった。


「もういいか?」


 黒羽の声に跳びはねる。恋情を募らせていたとは流石に言えず、僕は何事も無い風を装って「うん」と応えた。

 振り向く黒羽に、問い掛ける。


「この服、どうやって買ったの? お金は持ってなさそうだけど」

「最初の一着はゴミ捨て場にあったやつを盗んだ。裸じゃ街には出れなかったからな。それから、日雇いのバイトに混じったりして小銭を稼ぎ、あちこちの店で少しずつ買い揃えていった」


 つまり犯罪は犯してない、と。それを聞いて安心した。万引きしたとか堂々と告げられたら、黒羽への印象も少しは変わっていただろうから。


「どんなバイトで働いた?」

「肉体労働」

「大変そう」

「そこらのやつより力はある。だから楽だった」

「……そっか」

「お金が無ければ何にも手に入らないなんて、人間の生活は難儀なものだな」


 黒羽が岩の縁に腰掛ける。僕も真似して隣に座った。さっきよりは気持ち近めの位置に。彼女は気付いているだろうか。

 互いに口を閉ざしたまま、僕たちはしばらく夜風に当たった。気まずいけれど、一方で安らぎを覚える不思議な時間。呼吸がゆっくりになっていく。

 ……そろそろ、ぬるま湯から上がらねばならない。


「……あのさ」

「なんだ」


 拳を固める。ここまで来れば迷いは無い。一拍、間を置いて言った。


「正直、君も妖怪だとは思ってなかった」

「やっぱり、分かるか」


 黒羽は短く、されどはっきりと応える。

 願わくは何かの勘違いであって欲しい。そんなささやかな僕の望みが、完全に打ち砕かれた瞬間だった。

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