第二十六幕 災厄の黄昏と夜の帳。2
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夜の闇が完全に訪れる。
廃屋の中で、ランタンの明かりで過ごしていた。
消耗が激し過ぎる。
もはや、疲れ切って、怪我と疲労でマトモに動く事が出来ない。
ルブルも予想以上に消耗していたみたいで、彼女が真っ先に寝てしまった。
「眠れないのね、ミント」
メアリーはぼろ布に包まった、ミントに訊ねる。
「ええっ。余りにも、色々な事が起こり過ぎて…………」
ミントはパンク・ファッションから、いつも通りの清楚な普段着のワンピースに着替えていた。ただ、荊のようなトゲだらけのブレスレットやチョーカーは、そのまま身に付けているみたいだった。
「ルブルの城がオーロラによって、壊されちゃったけど。残ったものも見つかって」
そう言うと、彼女は一冊の本を渡す。
「なにそれ? 城の中にあったって事は、それも素材は死体?」
「いいえ。普通の本よ。まあ、本棚は死体を素材にしたものだったかしら?」
「何の本? 変態倒錯な内容じゃないわよね?」
そう、ミントは口をへの字に曲げる。
それを聞いて、メアリーは爆笑する。
「それも良かったけど、そうね。これは、私達の次元にある、聖書、という本。正確には、新約聖書ね。宗教書よ」
「宗教の本は、いいわ。私は私の信じるものを信じたい」
「あら、じゃあ。これなんか、どうかしら? 私は好みでは無いけれども、……」
そう言うと、メアリーは、ミントにロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を渡す。
「なに? これ?」
「小説。作者は平和主義、博愛主義をその御本で題材にした。私は好みじゃないけれど、貴方は好きかも。……このルクレツィア世界でも読める文字に作り替えているわ」
「…………、じゃあ、それ貸して。流し読みでいいわね?」
ミントは、メアリーから、ロマン・ロランの本を受け取る。
随分と分厚い。
ぱらぱらと、ページをめくる。
「芸術論について書いてある小説なのね」
「主人公は理想主義者で、博愛主義者よ。正義感が強い。貴方みたいね」
メアリーは優しく微笑む。
そして、メアリーは自分の床に戻り、ズックの中から、本を取り出す。
「それは?」
「ブロンテの『嵐が丘』。読み返すの何年ぶりかしら……、内容忘れちゃったわ。だから、せっかくだから、読み返してみようかなって」
メアリーは、韜晦を込めるように言う。
ミントは、メアリーから渡された本のページをめくる。
‐弱者、あるいは弱くなっている人達の貧血している生活は、神の信仰を必要とする。……だが、太陽と生命を自己の内部に有する人は、自己以外の何処に信仰を探しにいくことがあろうか。‐
‐人生は幾度かの死と、幾度かの復活との一続きである。‐
「この作者の言葉は……、美しいわ。メアリー、今の私には、とても綺麗過ぎて、見えない。私はこの世界を愛していない」
ミントは、少しだけ複雑そうに告げる。
「此処は、今、何処なのだろう……? 私がいる場所は……。私は何者で、この世界は何なのだろう? ねえ、メアリー、貴方は答えられるの?」
「私も分からない。私は化け物を選んだから……、けれども、貴方なら、あるいは…………」
彼女は廃屋の割れた窓から見える、星空を眺める。
何故、星は綺麗なのだろう?
分からない。
何故、人は美を感じるのだろう。
醜いものがあるからこそ、美しさや神々しさに安らぎを覚えるのだろうか?
「もし、神が存在していて殺戮を許しているのなら、神に対して復讐を叫ぶ。もし善き神が存在するなら、最も貧しく生きている魂は、救われなければならない。もし、神が最も強き者の為にのみ善いならば、もし、惨めな者、人類の犠牲に生贄にされる者達の為の正義が無いならば…………、善も無く、正義もありはしない……、人間がやっている殺し合いなど、この宇宙の間の殺戮の中では、それ自体無きに等しいのだ…………」
ミントは、パラパラと読んだ、ロマン・ロランの小説の内容を、口走る…………。
そして、本を閉じて、しばし呆然自失になりながら、再び、星空を眺める。
このルクレツィアにおいては“果樹園”で苦しむ者達が、星座を作った。
歌も、作ったとも言われている。
それらは、神への祈りなのだろうか。
救済を求める人々の叫びなのだろうか。
「私は、このクリストフという主人公、好きだな。誠実で、理想主義者で。なんだか、ハルシャみたいで」
「ふふっ、私はブロンテの創作した人物であるヒースクリフが好き」
メアリーは、嵐が丘を閉じる。
夜明けには、再び、戦いが始まるだろう。
邪悪なドラゴン、サウルグロスを倒さなければならない。
生きとし生ける者、全ての為に。
「メアリー……、貴方が言っていた事が分かった気がする…………」
クレリックの少女は、自らの唇を噛み締める。
「どんな立場や思想の人間でも。どんな人種でも、立場や思想を超えて、強大な不条理に立ち向かわなければならないの。……たとえ、表面的に、仲良くする事だけでいいから。それだけ、私達が今、置かれている現実は、残酷な運命に晒されている……」
そう言って、少女は拳を地面に叩き付けた。
「ジャレスへの復讐、彼を倒すのは、その後でいい。今は、憎み合う者同士、この世界全体を滅ぼそうとする、絶望的な不条理を…………」
ミントは、拳を強く握り締める。
†
「何故、人々は救世主の復活を願ったのだろう? 我々の世界の宗教なんだがな」
デス・ウィングは、ガザディスに訊ねる。
ハルシャは疲労困憊して、眠りに付いている。
西に住まう者達は悲惨だった。
幸い、サウルグロスの唱えた魔法は、西の地域付近のみで止まったのが、幸いだったが。
ガザディスは、デス・ウィングから渡された『新約・聖書』という書籍を読みながら、唸っていた。
「人々は生まれた時から罪を背負ったのだろうか? 何故、人は神に祈るんだ? 実体無き存在だぞ? 何もしてくれない。私には理解出来ない」
彼女は言う。
「……それは、弱さからだ。デス・ウィング……、俺達は、ギルドに所属して、精霊への信仰を強めた。けれども、それ以上に、俺は大自然との繋がりが欲しかった。自分自身もこの世界の一部であるという事を知りたかった。……もっとも、精霊への信仰は、俺の部下達にはいまいち、伝わっていなかったみたいだがな……」
ガザディスは、口惜しそうに言う。
「デス・ウィング……、花や木は何故、美しいのだろう?」
「さあな。私は死体や残骸が好きだ」
それを聞いて、ガザディスは苦笑する。
「人はパンだけで、生きるのではない。人は言葉によって生きる。そして、後の作家によって、こうも言われた。言葉なんぞよりも、その食糧の奪い合いの為に、実際、人々は争い合った、と。こちらは、ドストエフスキーという作家だったかな? まあ、結局、パンと言葉、どっちも必要なんだよ、人類には。衣食住足りて、礼節を知るってな」
唇は、シニカルな言葉を紡いでいく。
「キリストとか言う奴は、自らを苦しめる者を赦し、祈れ、と言ったのだろう?」
ガザディスは訊ねる。
「ああ。愚か者だな」
彼女は嘲笑で答える。
「なら、俺も…………、いつの日か、そのような人間で在りたい」
盗賊の長は、自らが立っている大地を見つめる。
彼は少し、呻くと。苦々しい顔をしながらも、拳を握り締める。
「いつか、シトリーやミランダの為に……、祈ろう。仲間、同胞を大切にするのは当たり前だ。……、けれども、俺の敵を……、俺が憎むべき相手を赦し、彼らの幸福を願おう…………」
ガザディスは、大地に大剣を突き立てる。
「…………けれども、ミランダだけは……。奴が生きる上で、多くの者達が死んでいく…………」
「宗教は、そんなものだよ。権力者に利用される。嘲け笑われるだけだ。まあ、私は権力者そのものが宗教を作った、くらいに考えているけどな」
デス・ウィングは、鼻を鳴らす。
美しい夜だ。
大洪水によって、あるいは、大隕石や、ドラゴンや怪物達の猛攻によって帝都は破壊され尽くされている。それでもなお、美しい夜の中に、二人はいた。




