第六十三幕 赤き歌姫の宣戦布告。 2
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その女は、深く息を吸う。
とてつもなく、心地の良い夜だ。空を見れば、美しい星座が煌めいている。
「何て綺麗なのかしら」
アリゼは歌う。
「女騎士様。王宮地下の場所は把握しました。他にも竜王の住む塔も。全て事前調査と一致しております」
傍らには、彼女の片腕であるオークのヴィラガが佇んでいた。
「ミントちゃんにイルムちゃんは、出払っているみたいね。今頃、エボンと交戦中かな?」
「…………、正直、エボンは分が悪いでしょうな。イルム・エルデは、闇の天使シルスグリアの後続人。そして、何よりも、調査によると、あらゆるこの世界の邪悪なる者達の力を吸収して、肉体を得たのだとか」
「うん。多分、イルムちゃんは、まだ上手く力を使いこなせないと思うの。でも、私は彼女と会うのも楽しみだな」
彼女は両手で、自らの両頬を撫でる。
「お楽しみの処、悪いんだが」
アリゼが振り向いた先には、一人のミノタウロスと、一人の少年がいた。
それぞれ、武器を構えている。
「ミントさんの敵を、俺達のルクレツィアに仇名す者よっ!」
ジェドが得物を構えていた。
「ジェド、下がっていろ」
ハルシャは、得物である戦斧を投げ捨てる。代わりに、腰から大剣を引き抜く。
「ヴィラガ、下がっていて」
アリゼは片腕であるオークに告げる。オークは頷き、二人の戦いを見守る事にする。
「エボンには黙っていたけど、彼の事は誰よりもこの私が知っているのよね」
アリゼは、エボンに嘘を付いてハルシャの事を調べさせた事をヴィラガに述べる。
「ミントには黙っていたが、この方の事は、誰よりも俺が知っているつもりだ」
ハルシャはミントに、アリゼの事を数多く黙っていた事をジェドに告げる。
「女騎士アリゼ。今になって、何故、王宮が……いや、ルクレツィアが欲しくなったか?」
ハルシャは睨む。
「私達の祈りの成就が実を結ぶ事になったから。まあ、確かに暗黒のドラゴンが暴れてくれたからってのはあるわね。ずっと、異世界に隠れていたわ」
アリゼは自身の髪を撫でる。
「そう言えば、此処は訓練場みたいね?」
「……以前は、闘技場としても使っていた。兵士達の修練の為にな」
「此処からは星がよく見えるわ。とても綺麗」
「星に月、太陽。それらは貴様のような邪悪なる者にも、清らかなる者にも平等に注ぐからな。確かに、美しいものだ」
アリゼとハルシャは、まるで、世間話のような口調で会話を交わしていた。
刹那。
二人の刃が交差していた。
ミノタウロスの左肩から、血が勢いよく噴き出す。胸も切り裂かれたみたいだった。
女騎士は困ったように、自身の右腕の出血を眺めていた。利き腕を裂かれた。
アリゼはまるで子供のようにはしゃぎ、喜んでいた。
「んーんー。ハルシャ、強い、強い。私が騎士団長をしていた頃は、まだ子供だったかしら?」
「貴殿から剣を学んだ事もある。その節は感謝している」
ハルシャは複雑そうに言う。
「ミントちゃん、子供だったものね。私の事、覚えてないよね?」
「貴殿の年は、二十に満たないように見える。何をした?」
「悪魔との取り引きかな。私はノスフェラトゥ(不死者)になった。老いる事なく、永遠の若さを保つ魔人に」
彼女は飄々と答える。
「元々、貧民街出身だったじゃない、ハルシャ。貴方は以前、糊口を凌ぐ為に、呪性王に入り、大悪魔ゾア・リヒターを崇めていたわよね」
「私の武術の才を見込んで、亡き弟共に、王宮に入れてくれた事は今でも感謝しております。もっとも、弟のラッハには、王宮の悪意と権謀術数に満ちた生活を遠ざける為に、庶民達の暮らしをさせたのですが…………」
ハルシャは少しだけアリゼから眼を反らし、奥歯を噛み締めているみたいだった。
「そう言えば、ジャレス様が、貴方の弟を殺したのよね。それは、とても遺憾に思うわ。本当に、心からよ」
「お悔やみの言葉、ありがとう御座います」
ジェドと…………、そして、ヴィラガの二人は、そんな二人の奇妙なやり取りに、しばし顔を合わせながら沈黙していた。……そんな逸話など、話を聞いていない。
「恩師の首を、今後、刎ねるつもりなのかしら? 貴方は幼いながらに、ミランダ達による極右側の政治権力を持っている連中が、私を王宮から追放した時に、悲しんでくれたわよね?」
「…………、アリゼ様。貴殿が、この王宮に、帝都に、そして何よりもミントに手を出さないのならば、俺は貴方に手を出さない……」
二人は背中を合わせて、互いに無表情になる。
月が雲によって隠れていく。
「私は帝都に革命を起こすわよ。これまで帝都に虐げられてきた者達の為に、これから帝都に虐げられるであろう者達の為に。愛が世界を救済する為に」
アリゼの口調は穏やかだったが、間違いのない宣戦布告だった。
「……………やはり、対話は出来ませぬか。アリゼ様、貴方はやはり、テロリストだ」
「……対話、したじゃない。ハルシャ、私は貴方と話せて嬉しかった。今日は星が綺麗よね。あれは何座なのかしら?」
「あれは弓と竪琴を持っている。歌姫でしょう」
「ふふっ、私は今日の処は帰るわ。成長した貴方が見られて良かった。さて、ヴィラガ、帰るわよ。今日は用が済んだから」
そう言うと、女騎士はマントを翻して、片腕であるオークを引き連れて、王宮の外へと向かう。
しばらくの間、ハルシャとジェドの間で、沈黙が続いていた。
「ハルシャさん…………」
ジェドは、どう言葉を掛ければいいか分からなくなる。
「ジェド、警備に戻るぞ……、と言いたい処だが、夜食にしよう。今日は飲もうか。きっと、今日はもう何も起きないだろうからな」
ハルシャは少しだけはにかんだ笑みを浮かべた。
†
「その、俺、ハルシャさん、尊敬しているんです」
「それはありがたいな。だが、俺は人から敬われるものじゃあない」
大柄のミノタウロスはビールを口にして嘆息する。
深夜の食堂の中で、二人は語り合っていた。
「俺はこの国を愛してなんていない。祈るべき神……信念とでも言えるのかな、そんなものは無い。結局の処、俺はミントの為に生きてきた、というわけだな……。国なんてものは関係が無かった…………」
既に、彼はかなりの量のアルコールを口にしていた。空のビール瓶やワインの瓶が次々と並んでいく。
「アリゼ……、底が知れない。完全に遊びだ。間違いなく、この帝都を襲撃してくるだろうが、その計画の全貌が分からない…………」
ハルシャは極めて複雑そうな顔をしていた。
「俺は正義や信念の為に戦っていない。ミントの為に戦ってきたってわけだな……」
「そんなんでいいんじゃないでしょうか……」
ジェドは少しだけ、口ごもりながら言う。
ジェドはミントへの下心ばかりで戦ってきた。そして、ミントと時間を共にする度に、彼女の笑顔に隠された怒りや憎しみも垣間見てきた。ミントにとって支えてくれる者は間違いなくハルシャだろう。ジェドは、男として完全に敗北してしまっている……。
恋敵なんて言えない。
ジェドは自分は脚元にも及ばないと思っている。
情けない…………。
「ジェド。しっかりミントを守ってやれ」
ハルシャが焼いたチキンを頬ぼりながら、そう言った。
「お前は成長している。自信を持て。ミントも認めている筈だ」
「あ、ありがとう御座います」
酔っているとは言え、ハルシャにそんな事を言われ、ジェドははにかむ。
「それにしても……だ。やはり、あの眼は変わっていない……。あの女は、従者であるオークと交わった事が追放の理由だと思い込んでいるに違いない……。俺はミランダが嫌いだったが……、ミランダは当時、獣と交わるパラダイス・フォールの連中に嫌気が差していた。アリゼの中では、ただの悲恋のみが頭に刻まれているのだろうな……。相変わらず、当時と同じようにイカれている。あの眼だ。あの表情だ。あの眼と表情は、本当に狂人以外の何者でもない」
そう言うと、ハルシャはビールの瓶を一気に飲み干す。
「昔と変わっていないって……、そんな事、分かるんですか?」
ジェドは訊ねる。
「分かるさ。俺の武術の師だからなっ!」
そう言うと、ハルシャは大瓶のハチミツ酒を一気に飲み干すのだった。
†
夜の街道だった。
酒に飲んだくれたオークの青年三名と、人間の行商人が酒場から出てきた。彼らは同じ仕事仲間なのだろう。
ぶぉん、ぶぉん、ぶぉん、と、大きく風が薙ぎ払われる音が聞こえた。
オークの青年達は首を傾げる……間もなく、首なし死体になっていた。
人間の行商人はそれを見て、唖然としていた。
処刑人のマスクを被ったヴィラガが、自身の得物である大剣を振るったのだった。
彼は倒れて、半狂乱になっている人間の商人もついでに殺害する事に決めて、大剣を振るった。
ぴたり、と。
振るわれた大剣が空中で止められる。
アリゼだった。
彼女は、左手の人差し指と中指だけで、ヴィラガが人間の首を落とすつもりで振るった大剣を止めたのだった。
「殺すのはオークだけじゃなかったの?」
「申し訳ありません……」
騎士の片腕は素直に謝り、得物を仕舞う。
「パーティーはまだ先。その時に好きにしていいから、ね?」
女騎士は笑顔を崩さなかった。
「あのミノタウロスとは、どういうご関係で?」
ヴィラガは興味深そうに訊ねる。
「大切な教え子。私の愛に関しては、他人への愛の在り方に関してはまるで理解してくれなかったみたいだけど。逞しく成長していたわね。ふふっ、それに、ミノタウロスの中では、かなりの美形なんじゃないかしら?」
彼女の手首から流れ出る血は、彼女の指先まで滴り落ちている。
彼女は自らの血で、唇に紅を引く。
「ヴィラガ。露出の多い服はいいわね。夜風が身体にあたって気持ちいいし。それにほら、教え子の太刀が身体にしみ込んでいるわ。素晴らしい事よ!」
アリゼは自らに付けられた傷を、とても愛しそうに撫でていた。手当てをするわけでも、包帯を巻くわけでもなく、右腕の傷は動脈に達しており、絶えず血が流れ続けていた。
ヴィラガは…………、少しだけ、自らが仕える主君の思考を理解する事に苦しむ。