第五十九幕 倦怠の続く濁った空の下。 2
「少し、外の空気が吸いたいわ」
仕事は溜まっている。
ただ、書類の山に眼を通す事しか出来ない。
彼女は途方に暮れていた。
がちゃり、と、部屋に誰かが入ってきた。
ハルシャだった。
「少しは、俺を頼ってもいいんだぞ? どうせ、その書類の山、さばき切れないのだろう?」
「ハルシャッ!」
ミントは顔を上げ、椅子から立ち上がった。
ハルシャは何名かの人間のクレリックの男女を連れてきた。
「黎明棚のサレシアが司書のクレリック達を何名か派遣してくれた。事務作業はある程度、出来る筈だ。ミント、その言っては悪いが、現状、お前の出来る事などたかが知れている……」
「そうね。結局、書類に眼を通して、ハンコを押すだけ。そして、大衆の不満をひたすらに聞くだけ。自分の無力にホント、嫌気が差しているわ」
彼女は深く溜め息を吐いた。
「バザーリアン国王は、まがりなりにも、政治を行ってたのね」
「気にするな。もっとも、あれは周辺の官僚共や金融屋の言いなりだった。お前は国民の意見をそうやって、直接、目を通しているではないか。今はまだ、形だけかもしれないが、お前は、いや、俺達は、民主政治を掲げようとしている」
サウルグロスの襲撃以来、法律も、財務管理も、それらを行う行政機関は壊滅状態にある。大戦後に、クレリック達のギルドである黎明棚から何名か大臣を募り、国らしき体裁を行ってきているが、
生き残ったパラダイス・フォール(軍産複合体)の下部組織を再編成して、金融や司法などを行わせているが、彼らは元々、堕落した帝都の重役達の下で甘い汁を啜っていた役人達だ。現状、政治や金融、軍事は彼ら官僚に任せる形ではいるが、仕事が出来るとは言え、国民から甘い汁を啜っていたクズの集まりだ。
現状、行政を回していくのは、元々はバザーリアン国王の下で働いていた官僚達の仕事だが、いつ私服を肥やす為に裏切るか分かったものではない。その為に、つねに、サウルグロスとの戦いで生き残ったドラゴン達が見張っている。
「そもそも、国のトップの人間が出来る事なんてたかが知れている。行政、官僚、彼らが社会を大きく動かしているんだもの……」
ミントは頭を押さえた。
彼女は本当に肉体的にも精神的にも疲れ切っているみたいだった。
「本当に、少しは、外の空気を吸ってきてはどうだ?」
「でも、ハルシャ…………」
「書類は俺も眼を通しておきたい。正直、やる事が無い。近衛隊長はガザディスが行っているし、俺はかつての役職、王国護衛軍と言っても、実質的にはお前のボディーガードだ。……それではいけないと思ってな。俺もデスクワークの仕事を少しは覚えておきたい」
ハルシャは溜め息交じりで言う。
「休憩を取れ、ミント。お前は少し働き詰めだ。夜も眠れていないんじゃないのか?」
ミントは何か言おうとして、言葉が出ない。
彼女は結局、師の言葉に甘える事にした。
†
ミントはジェドを連れて、外に出る事になった。
「こうやって、街の中を歩くのは何日ぶりくらいかな」
「ミントさん……」
「その……、ありがとう、ジェド」
二人はぎこちなく歩いていく。
ミントは王女と悟られないように、頭からすっぽり被れるフードを纏っていた。彼女を尊敬する人間もいれば、憎しみを抱いている人間も多いだろう。
ただ、ミントは街路を見ながら、今、自分が作り上げようとしているルクレツィアを見なければならないと考えていた。
住民達をみると、逞しく店などを営んでいる。
あの荒廃した世界から、未だに傷痕は消えていない。
夜盗なども後を絶たないらしい。
それでも、それでも、この世界は少しずつ復興しているのだ。
ミントは笑う。
ジェドは彼女の顔を見て、嬉しそうに笑った。
†
毎日、帝都ルクレツィアの王宮に送られてくる書類は、帝都近辺の役人の要望から、農村部の不満、各ギルドの要望など様々だ。
ミントとの政治理念は一致している。
実質的に、ハルシャが書類にハンコを押しても何も問題は無い。だが、一応、国を治めているのは王女だ。ハルシャの仕事は仕分け作業、という事になる。送られてくる書類の大多数は、現状の政策では極めて厳しい要求も多い。また、嫌がらせや当て付けで無理難題を送り付けてくる輩も多い。ハルシャはそれらの書類の仕分け作業を行っていた。
ハルシャは本音では、十代で経験不足のミントにこの仕事が務まる事は極めて困難である事は分かっていた。結局、有能な人材を集めて、ミントをバックアップするしかない。だが、それをやると、自堕落に政治を行っていたバザーリアン国王と同じではないかとミントが怒り出しそうなので、ハルシャの口からは言い出しづらかった。彼はミントの性格をよく分かっている。
メアリーとザルクファンド。
この二人が政治を収める事に、大きく貢献してくれた。
だが、メアリーは何らかの理由で不在だ。
結局の処、メアリーとルブルの二人は多次元世界においての流れ者でしかない。彼女達はルクレツィアにいつまでも固執する理由なんて無いのだから。
書類の中から、ハルシャは奇妙なものを見つける。
それは、真っ赤なリンゴのマークが描かれた紙だった。
紙は『予告状』と書かれている。
開けてみると、意味不明な怪文書の羅列が並んでいる。
「なんだ? これは?」
ハルシャは首をひねる。
怪文書の最後に“後日、大好きな帝都に愛を込める”と書かれていた。
意味が、分からない…………。
†
ジェドと二人で屋台料理を食べている時だった。
突然、近くのコーヒー・ショップが何者かによって襲撃されたみたいだった。
ミントは立ち上がる。
辺り一帯の建造物を次々と破壊している巨大な怪物がいた。
サンド・ワームだ。
本来ならば、凍土の砂漠か、洞窟の中にいる巨大な大イモムシだ。
サンド・ワームが、次々と帝都の者達を襲っていた。
ミントは魔法を詠唱して、炎と稲妻が融合した攻撃魔法を唱える。
サンド・ワームの頭部に魔法が命中して、爆裂する。
どうやら、その大イモムシは複数体いるみたいだった。
「ミントさんっ!」
「ジェド、下がっていてっ!」
彼女は次々と攻撃魔法を撃ち込んでいく。
砂漠のイモムシに混ざって、次々と小さな何者か達が街の人々を襲っていた。手に手に山刀や弓矢などを持っている。
ゴブリンだ。
本来ならば、洞窟に潜んで、敵を襲撃する小鬼達だ。
ジェドは転がりながら、剣を見つけて、それを手にする。
何とかして、ミントのバックアップに回ろうと、ゴブリンへと向かおうとする。
「ジェドッ! こいつら、明らかに私を狙っているっ!」
ミントは叫んだ。
ゴブリン達は次々と山刀を手にして、ミントとジェドを襲っていく。
辺り一帯に、雷撃の嵐が巻き起こる。ゴブリン達は次々と雷に撃たれて肉体が弾け飛んでいく。
ミントは更に新手が来る前に、攻撃魔法を練っていた。
しばらくして、新手のゴブリン達が次々と襲い掛かってくる。
ミントは攻撃魔法を撃とうとするが。
「ちょっと待って、ミントさんっ! 何か嫌な予感がしますっ!」
ジェドが叫んだ。
「どういう事?」
ミントは一度、攻撃を止めた。
「なんだろ……。後ろの奴ら、武器を持っていないっ!」
新たに現れたゴブリンの何体かは、同じように山刀や弓矢を手にしている。……だが、彼らは何か様子が違っていた。こちらを本気で攻撃してきているというよりは……。
ミントは気付いた。
新手のゴブリン達は背中に奇妙な箱を背負っていた。
ミントもジェドも、これまで、様々な化け物達と相対してきた。故に、直感のようなものが働く。
……これは、何かおかしい。
ミントは背中から、ドラゴンの翼を出して、ジェドをつかむ。
「分からないけど、距離を取るわよっ!」
ゴブリン達は雄叫びを上げると。
ミント達を襲撃する振りをして、次々と、近くの建物に突撃していく。
激しい爆発音が次々と鳴り響いていく。
ミントを中心に、辺り一帯の店や民家などが爆弾によって破壊されていく。
自爆テロ。
ゴブリン達が背負っているのは、爆薬らしかった。
彼らの血肉と、彼らが運んできた爆弾によって四散した者達の血肉が硝煙と共に、辺りに飛び散っていた。
ミントはジェドを背負って、空中高く飛んでいた。
「こいつら……っ!」
自分達の命を何とも思っていない。
そして、確実にミントの命を狙ってきている。背後に何者かが存在するとしか思えない。
ふと。
ジェドは遠くから見張っている、赤い衣に包まれた男が、この惨状を見届けて去っていくのを見た。
「ジェド。王宮に戻るわよ。……休憩も出来ないなんてっ!」
ミントは少し不貞腐れ、そして不安に包まれた顔になっていた。
ジェドは…………、とてつもない自己嫌悪に襲われていた。
自分が守る筈が、守られた……。
ミントの腕や脚、身体の所々には、爆発によって飛び散ってきた木々の破片や鉄屑などが突き刺さっていた。
ジェドはかすり傷だった……。
「ご、ごめんなさい。ミントさ、ん…………」
ジェドは今すぐ彼女にひれ伏して、謝りたい気持ちに駆られるが……。
「ジェド。貴方の方は大きな傷は無いわね。貴方が指摘してくれたから、私も“かすり傷”で済んだ。私のダメージは見た目よりも少ないわ。さあ、王宮に帰るわよ」
そう言って、ミントはドラゴンの翼を広げて舞い上がっていくのだった。