第五十九幕 倦怠の続く濁った空の下。
「間違いなく、モンスターの数が増え続けているわね」
イルムは書類を手にしながら、最近の情報に眼をやっていたが、ふと、別の物想いに耽る。
デス・ウィングに身体半分を切断されたイルムは、下半身と両翼を失いながらも魔力によって浮遊しながら、業務をこなし続けていた。数時間で再生出来ると思ったが、結局、数日間くらいは時間が掛かるだろう。自分のパワーはまだまだ貧弱極まりない、と認めざるを得ない。
彼女に付き従う下級の悪魔達や、呪性王の信奉者達が、毎日、聖堂を行き来している。
ちなみに呪性王という宗教の教義に実体は無い。
天使や悪魔といった超自然的な存在が現世において、救済を与えてくれるといった漠然的なものとなっている。信者達は各々、宗教観を持っているらしいが、前任者であるシルスグリア同様に、イルムもまた、信者達が妄信している何かには興味を示さない。単に縋り付くもののシンボルとして自分が存在していると考えている。
そう、転生の宗教のように、あるいは『ラジャル・クォーザ』の自然崇拝と違い、呪性王の教義には明確な教義の形が無いのだ。それでも、呪性王を頼って、天使やデーモン達を心の拠り所にしている者達は多い。……かつて、闇の天使シルスグリアの腹心であった暗黒魔導士シトリーのように、このギルドに所属してトップを崇拝する事そのものに生きる意味を見出している者は少なくない。
だが、バザーリアン・ルクレツィアの時代は終わった。
ミントと、そしてイブリアが今や、この国家を支配している。
ちなみに、盗賊団を率いていた国家と敵対していたアナーキストの集団である『ムスヘルドルム』の『邪精霊の牙』は自然消滅を迎えようとしているらしい。いずれは、天空樹と併合する形になるかもしれない。
イルムはミントとイブリアから権力をどう奪ってやろうか、そんな事を日頃から考えていた。だが、思慮不足の為に、完全に手のうちを明かしてしまった。自分の自我が未だ固まっていないのも問題だ。所詮は知的生命体達の精神エネルギーから生まれた形而上の存在を形而下の存在として実体化したものでしかない。
メアリー、ルブル、ミント、ジャレス、サウルグロス、そして……デス・ウィング……。そういった者達の人格や目的がゴチャゴチャに織り混ざって、自分が存在しているという事実も気に食わない。
「まあ。何にせよ。自分探しをやっている暇も無いのよね」
そう呟きながら、イルムは口元に手を当てて思索を巡らせていた。
それにしても、思考を放棄したがる者達は、何故、こうも脆いのだろう?
呪性王に参拝する者達は、みな、大いなる力を望んでやってくる。そして、聖堂に祈りを捧げる。彼らは自分自身が無い、のだろうか。みな、自身の満たされない心を埋める為に、此処に望んできているのだろうか。そして、イルムは最高責任者として、少しばかりの恩寵を彼らに与える。先代と同じように。
加えて、更に、イルムはパラダイス・フォールが行っていた殺戮の闘技場などに代わる娯楽施設を考えていた。スクリーンによるものを検討しており、それが、どのような形に発展するか分からないが、合法的で人道的なものを考えている。どういう形になるかは分からないが。人員集めには、まだまだ時間が掛かるだろう。
そんな風にイルムは物想いに耽っている時に、彼女の書斎に入ってくる者がいた。
カラスのようなマスクを付けた黒衣の男だ。
彼はイルムの配下である悪魔の一体だった。
「あら? ホロウ。どうしたの?」
「西のプランドラン跡地。北のギデリア。他、ミズガルマの宮殿周辺で、ゴブリンやモンスターの集団が見つかったと。行商人の何名かが殺害されたと言われております」
「早速、調査を」
「他にも、獣人の類も見たとか」
「興味深いわね」
イルムは考える。
三つ共、今や警備が手薄の場所だ。
西を支配しているザルクファンドは、別世界への探索を頻繁に行っている。ギデリアを管理しているルブルとメアリーはこの世界には不在。そして、ミズガルマの宮殿は、今や荒れ地と化している筈だ。
何かが、おかしい。
何かが、暗躍しているとしか思えない。
地下水が沁み渡るように、何かが地面の下で這い回っている奇妙さだ。
「肉体が完全復活したら、私が直々に向かうわ。ホロウ」
そう言いながら、イルムはコーヒーを口にするのだった。
†
ザルクファンドは配下の数体のドラゴンを引き連れて、ルクレツィアに隣接している世界に訪れていた。
果てのない森林が見える。
空は真っ赤に輝いている。
「ザルクファンド将軍。異世界の住民は、我々を歓迎してくださるのでしょうか? この世界の住民達とどう折り合いを付けていくのか……」
<歓迎するも何も、だな。イブリアはよく分かっていると思うが、我々の行っている事は侵略行為なのだ。異世界の資源を手に入れる、という事は、その現地住民達の資源を略奪する、という事でもあるからな。場合によっては、奴隷労働者を調達する事になるかもしれんぞ>
「やはり、そのようなお考えで」
<もっとも、ミント王女はそのような事には猛反対するだろうがな。合理的な行為ではなく、道徳的なものを指標にする。実に彼女らしい>
ドラゴンの魔法使いはそう告げる。
<いずれにせよ、ミント王女は、人間とのハーフだ。我々、ドラゴンとは性質。思考パターンが違う。もっとも、ドラゴンは他種族と比べ、強大さ故に、傲慢な気質という愚かさを抱えている。人間に学ぶべきものもあるだろう>
ザルクファンドはそう説明していく。
ドラゴンの一体が、ふと、何かを思い、ザルクに質問する。
「そう言えば、魔女達。彼女達は、少し他の人間達と毛色が違うみたいですが……」
<あれは人間の中でも特殊なんだろう。異常快楽殺人者ってタイプらしいな。人でありながら、狂気に身を委ね、同族の殺戮を楽しむ。人間種族の中では外道と呼ばれる存在らしい。もっとも、国家を運営していく上で、あのような人間達の中で邪悪と呼ばれる思考を持つ者達も必要だと思うが>
「ふうむ、人間にも、色々いるのですな」
<そういう事だな。さながら、俺もドラゴンの中では、変わり者なんだろうがな>
そう言うと、ザルクファンドは重力魔法を操作して、周辺を探知していく。
そして、ふと気付いた。
<さて。此処も撤退だ。どうやら、何者かの敷地だったらしい>
数キロ先の遥か向こうに、大量の石の巨像が動いていた。
自分達の領土に踏み込んだ者達を自動的に排除しようとする者達なのだろう。
おそらくは、身の丈は数百メートルはある。
倒せたとしても、近隣住民達との関係性は良好になるとは思えない。
ザルクファンドは、素直に、部下のドラゴン達に命じて、この場を撤退する事にした。
†
元盗賊団の長、現近衛隊長であるガザディスは天空樹の周辺に来ていた。
エルフの殆どがこの世界から絶命して、人間やオーク、トロール達が続々と天空樹の自然崇拝の信仰を支持し始めている。自然との調和。農業や牧畜を積極的に営んでいる者達も多い。このギルドは、ルクレツィアの生活改善に多いに役に立つだろう。
先程、天空樹の巨大な樹を登り、ヒドラのラジャル・クォーザに謁見してきたが、やはり、何処か疲弊しているような印象を受けた。
強大な破壊と殺戮の行われた地だ。
みな、戦争の惨禍のトラウマを忘れたくて、崩壊した国家を嫌悪して、長閑な自然で生きる事を望んでいる者達も多いのだと聞く。オーク達の多くは信心深くなったのだと。彼らは我を忘れるように、農耕に熱中して、かつてのルクレツィアを、あるいはかつて以上のルクレツィアを作り上げようと執心を燃やしているみたいだった。
ガザディスは天空樹の樹を降りて、ふと、空を見上げる。
この荒廃した大地に、希望という種を撒く事は出来るのか、と……。