第五十八幕 胎動 2
2
福祉がどうにも充実していない。
武器商人であったミランダが暗黒のドラゴンとの戦いによって使用した核兵器が使われた場所は、放射能汚染地帯になっており、周辺の者達が多数、白血病や癌の症状に見舞われている。
また、果樹園によって家族を殺された者達の怒りの声は、連日、届いていた。
果ては、当て付けのように、自らの手や足の指、耳などを自ら切り落として、経済的援助を求めようとする国民も一部いるみたいだった。
ミントは王女の座に付いたは良いものの、余りにも、政治は手に余るものだと思い知らされていた。なので、心の中では、宰相をしていたメアリーの存在は有難かったし、メアリー不在の現在、結構な手腕で国民達をコントロールしているイルムの存在は替えられないものになっていた。
今、ルクレツィアはいつ破裂してもおかしくない風船なのだ。
あるいは、地雷原と言い換えても良いかもしれない。
そして……。
頭に電流が走るようなフラッシュバック……。
義兄であるジャレスから受けた、幼い頃の虐待による記憶。彼が死してもなお、消えそうにない。いずれ、自分自身も治療を行わなければならないだろう……。
家族って何だろう?
真っ先に思い付くのは、今はイブリアだったりする。上手い具合の距離感が分からない。自分の心は鎖のように、忌まわしい記憶がこびり付いている。帝都の無残な惨状の記憶も焼き付いて離れない。
そう言えば、サウルグロスとの戦いによって、PTSDを負った者達も多いと聞く。エルフ達は死亡し、自然崇拝のギルド『天空樹』はボロボロだ。運命を迫られた黒い肌のオーク達の側も“生きている事の罪深さ”といった観念に囚われて、自殺する者達がいるのだと言う。あの戦い以来、オーク達は、必死で自分達の代わりに“絶滅した”、エルフ達の幻の恨みや幽霊に苦しむ者達が多いのだと聞く。そして、一部のオーク達は、エルフに代わり、自然崇拝のギルド、天空樹のヒドラにその自我を委ねた……。
業……。
サウルグロスの行った徹底した残酷なストーリーは、今もなお、ルクレツィアの国民達の心に深く刃を突き刺している。
誰もが何かに救いを求めている。
何によって、救われるのか?
来世か? 神様の言葉か? あるいは、国家権力に縋りたいのか? 象徴的な国王であるイブリアに縋りたいのか? あるいは各ギルド達の教えか?
……あれ程に煙たがった。メアリーが、今、どうしようもない程に傍にいて欲しい。
ハルシャは王族護衛軍として、つねに前線で王宮の警備に当たっている。ミントの個人的な悩みなどに構っている余裕など無い。
イルムは嫌味ったらしくミントに近付いてくるが、あれはあれで支えになっている。今の処、危害を加えてくる様子も無い。ただ、彼女の方も呪性王の仕事が忙しそうだった。腐っても、ギルド・マスターとしての矜持があるのだろう。ミントにちょっかいや嫌がらせをしてくる時間が日に日に減っている。勿論、王女の仕事も手伝い切れないみたいだった。彼女も忙しいのだろう。
孤独、だ……。
ミントは、書斎で、一人、コーヒーを飲みながら思った。
駄目ギルドとされて、仲間内で作ったギルド。
アダンもラッハも死んだ。ジャレスに殺された。
兄貴分の一人みたいに思っていたオークのゾアーグも死んだ。ジャレスによって拷問死させられた。
今の自分に、何が残っているのだろう……?
†
「俺に重要な役目ですか?」
ジェドはミントに呼ばれて、少し困惑していた。
「ええ。とっても、重要な任務よ。貴方にしか成し遂げられないし、今、貴方は必要とされているのよ」
ミントはわざとご大層に言う。
「なんですか?」
ジェドは、呆けたような顔をしていた。
「その……、私の話相手になって、休憩時間の間でいいから……」
ミントはぎこちなさそうにジェドに言った。
ジェドは、ぱあっと明るく笑顔になった。
そして、何やらどもりながら、恥ずかしい台詞を話していたが、ミントは無視する事にした。……彼の能天気さが、どうにも羨ましい……。
「ジェド。今日は空が青いわね……」
「……ミントさん、えと、俺はどう答えれば……」
「うん……。青空の向こう。王宮の外に見える地平線の向こうがやけに綺麗に見えて……」
ミントはしばし言葉に詰まる。
そして、残りのコーヒーを口にする。
「今もルクレツィアは闇の中にいるわ。青空から刺し込む光なんて見えない。みな、飛べない小鳥なのよ。こんなにも、大地も空も澄んでいるというのね」
「俺には分かりかねます。……でも、なんていうか、俺、頑張って、ミントさんを守りたいです……」
ジェドは空威張りする。
「そう、ありがとう。期待、している……」
ミントは笑う。
そう、このまま、希望に向かって、国民みなが躍進していけばいいのに……。
†
デス・ウィングは完全に自由人として、誰にも拘束も束縛もされず、ルクレツィア内を自由気ままに歩いていた。
もうすぐ夕暮れだ。
今日は、余り面白そうなものは無い。
この世界において、面白いものは大体、見た。
ルブルとメアリーと同じように、別の異世界へと向かおうかと考えている処だった。異世界へ行ける存在は、現在、竜王イブリアやザルクファンド。更にはハルシャと言った者達が確認されている。彼らに聞いてみれば、別世界の入り口を教えて貰えるかもしれない。
この世界は多次元宇宙になっている。
この凍土の砂漠ルクレツィアもそんな宇宙の一つに過ぎない。
そして、世界が無数にある事は、サウルグロスとの戦いにおいて、ドラゴン達などから秘密が多くの国民に知らされた。一部では、別世界への移民を希望している者達も多いのだと聞く。逆に、この世界を狙っているサウルグロスのような存在も他にもいるのかもしれない。
現実的な問題として、別世界で資源を手に入れなければ、ルクレツィアの復興は極めて難しいだろう。竜王とザルクファンドは真っ先にそれに気付いて、別世界へと何度も、向かっているらしい。異世界の調査は難航しているみたいだが。
この多次元世界において、ジャレスの能力を開花させる者達が別に現れたとするならば、死後に転生して希望を得る教義は現実的に可能なものとなるだろう。それに救いを求める者達は増えていくかもしれない。……それにしても、どの世界の、どの教義にも、転生の概念が高確率で存在するのはやはり理由があるのだろうか。
人間が陥る思考は普遍性があるのだろうか?
誰もが、救いと祈りを求める。
デス・ウィングはそんな事を考えながら、街を彷徨っていた。
……自分の死は、いつ訪れるのだろうか?
何故、サウルグロス相手に、命を差し出さなかったのか今でも分からない。
デス・ウィングは、ふと、空虚に満ちた自分を自嘲する。
やがて、完全に夕暮れが闇に閉ざされる。
何者かが、デス・ウィングの下へと近付いてきた。
そいつは、禍々しい異形の翼を生やしている深緑色の髪の女だった。
「やあ。くくっ、そろそろ、この私の下に挨拶に来る頃だと思ったよ。迫害の天使、イルム・エルデ。それとも、闇の天使、イルムか?」
「どっちでも。皮肉屋の死にたがり。私は、お前の事はよく分かるわ。私を構成する上で、お前の思念体は多く混ざっているのだから」
「コピーがオリジナルに勝てるとでも?」
「そうね。戦い方のご教授を願いたいわね。そして、生き方のご教授もね」
「なら、空き地に行こう。くくっ、お前は果たして面白い私の人生の暇潰しなのかな?」
「さてね」
イルムは指先を凍土の砂漠へと向ける。
†
無数の暗黒球体がデス・ウィングを襲う。
「これはこれは、サウルグロスの生命エネルギー吸収の魔法じゃないか。お前は面白いな?」
「お陰様で。私が構成される際に、手に入れた攻撃魔法はこれだったみたい」
「他に何が出来る? ネクロマンシーとかはどうだ?」
「残念。死体を弄ぶ事は出来ないわ」
「何故だ?」
「ミントの精神体も吸収しているから、彼女の影響でしょうね。無意識の内に、死体を弄び、ゾンビ化させる事を強く嫌悪していたんでしょう。王女さまは」
「なるほど、なるほど。他の者の精神との兼ね合いもあって、お前は生まれたのか」
「そういう事ね」
デス・ウィングは圧縮した大気の弾丸を指先から放ち続ける。
イルムも合わせて、彼女にその攻撃を撃ち返す。
「後。魔法を打ち消せるわ。炎だろうが、氷だろうが。雷だろうが、強化魔法だろうがね。これは嬉しい誤算だった。私、オリジナルの力なんじゃないかしら?」
イルムは誇らしげに語った。
「更に何かあるのか?」
「さて?」
イルムは含むように言った。
デス・ウィングは、大量の空間の断裂を作り出す。
イルムは何かの魔法を素早く詠唱する。
次元の断裂が空間ごと避けて、消滅していく。
「ふふっ、何をやったんだ? 興味深いな? お前は」
「空間を消滅させたわ。お前が次元を切る、という攻撃自体を消滅させたの」
イルムはほくそ笑むが……。
次の瞬間、上半身と下半身を見事に分断されている事に気付いた。
イルムは上半身を吹っ飛ばされて、大地に転がり落ちる。
闇の天使は、特に苦痛を感じていないみたいだった。
だが、明らかに行動不能だった。
「畜生。翼も切りやがって、再生に時間が掛かる……」
「やはり、不死身か」
デス・ウィングは、イルムが見切れない速度で、不可視の斬撃を放って、彼女を戦闘不能に追い込んだのだった。
「今度は本気で遊んでやるよ。今回はスパーリングって奴だよ。イルム・エルデ、もっと強くなって、この私に挑んでこい。その眺めが十全な絶景にならないうちにな」
「ふん。デス・ウィング。強さも、皮肉も、お前の上を行ってやるよ」
イルムの傷口の切断面が霧状になっていく。
下半身と接合させるのには、数時間を有する事になるだろう。
再生速度も上げなければならない。
デス・ウィングは踵を返し、凍土の砂漠を跡にした。
そうして、二人の戦いは終わった。僅か、数分の間だった。