第五十八幕 胎動
イルムが自らの存在を、ミント達の前に誇示してから、十日程度が経過した頃だった。
宣戦布告をした後の、闇の天使イルムは大人しいものだった。
何か緻密に計画し、陰謀を巡らせているというよりは、本当にその場の衝動で、ミントや竜王イブリアを挑発した、といった風情だった。計画性の無い破壊衝動は確かにメアリーに似ているし、会話している感じの皮肉や嫌味はまさにデス・ウィングといった処だ。……だが、どちらも、あの二人の底なしの禍々しい性格には遠く及ばない。何処か空虚で虚構的なハリボテというか……。
複製品……。
どうにも、そんなイメージが拭い去れない。
ミントから見て、イルムは“とにかく自分がどうしたいのか分からない”といった風情にも見えた。目的はルクレツィアを統治する事なのだが、自分自身の性格というか、自分の売り込み方をよく分かっていないといった感じだった。
ただ、仕事はそれなりに出来る為に、度々、ルクレツィアからいなくなった不在のメアリーの代わりに、秘書的な役割として、業務をこなすのは優秀に働いてくれた。
だが……。
ミントは、正直、この女がどうにも苦手だった。
自分自身の嫌な部分も、鏡で見ているような気分になるというか……。
ある日、ミントの書斎でイルムと二人で報告書に眼を通している時の事だった。
この天使の底が見えてしまったのは。
「イルム」
「何かしら? ミント王女さま?」
「昨日、私の寝室に大量の生理用品が届けられていたんだけど、あれ何?」
「いや、その。王女さま、ちょっとカリカリしやすいじゃない? だから、その、その日かなあってっ! 私の精一杯の誠意よっ!」
イルムは意地悪そうな顔で、笑みを返す。
「そう。じゃあ、私は貴方に自己啓発本、沢山、送っておくわね。呪性王の本拠地にっ! 自己形成頑張ってねっ!」
そう言って、ミントは笑顔で皮肉を返す。
二人はしばらく睨み合った後、仕事に戻る。
「ああ、そうだわ」
イルムは何かを思い出したように言う。
「デス・ウィングにも挨拶してこないと」
「止めた方がいいわ。今の貴方じゃ、アレのドス黒い性格には及ばない。私の首を取って、ルクレツィアの権力を略奪するつもりなんでしょ? なら、今はまだ手を出さない方がいいわよ。アレが本気になれば、貴方ごとき簡単に消滅させられる」
ミントの直球な物言いに、イルムはしばし困惑する。
「私は底が浅い、と?」
「そういう事。少なくとも、デス・ウィングなら、絵図を描いて、もっと悪質な嫌がらせをしてくるわ。貴方は彼女達の影を追っているみたい。“自分はこうでなければ”みたいにね」
イルムは書類を置くと、腕を組んで、しばし何かを考えているようだった。
「そう言えば、王女さま。ゴブリンの数がルクレツィアの周辺に増えているそうよ。追い剥ぎみたいに動いているだとか」
それを言われて、ミントは何となく気味の悪さを感じた。
ゴブリンは極寒の砂漠の洞窟などに、主に生息している筈だ。
人間は勿論の事、ミノタウロスやオークなどから特に蔑まれ、忌み嫌われている。言葉を交わせない小鬼達。
女騎士アリゼ。
あの不気味な笑顔を思い出す。
ハルシャは彼女の事を“悪意無き悪”と付け足していたか。
「イルム。お願いがあるんだけど」
「何かしら? 王女さま」
「貴方の勅令で、呪性王の信者達を募って、ゴブリン達や、あるいは他のモンスター達の不穏な動きを調査してくれないかしら?」
イルムは少し考えた顔をした後、すぐに承諾してくれた。
†
イルムは、王宮を離れた後、少しイライラしながら空を飛翔していた。
ミントは彼女の確信を付くような言葉ばかりを言ってくる。
やりにくい…………。
「やっぱり、デス・ウィングにも、挨拶しないとね」
彼女は再建中の呪性王の本拠地へと戻る。
呪性王の聖殿の前には、宗教に縋ろうとする者達の参列が見えた。彼らは現世が苦しいのだ。自らの自我を捨て去り、大いなる存在にその心に身を委ねたい。
そう言えば、来世への信仰も無くなっていないと聞く。
転生への希望を描く宗教は、この地で無くなっていない。
この世界が生き辛く、希望を見出せないという事の証左なのだろう。
やはり、知的生命体は本能的に、現世に対する絶望から死後の世界への救済を求めるのだろうか。政治は乱れ、経済は崩壊している。元々、この世界は少数の権力者によって暴政が敷かれていたが、先程の大戦によって、みな疲弊し切っている。
イルムは何か娯楽場を作れないか考えていた。
それが、動画作成。
つまり、スクリーンによる娯楽の提供だった。
大量に芸のある人間を王宮に集めて、あるいは呪性王に集めて、何か一芸を披露させてみようか。それがこの世界に住む住民達の、囁かな心の安らぎになれば、活気は増えていく筈だ。衣食住足りても、人間は娯楽が無ければ、死ぬ。
そして、最後の娯楽こそが、信仰、なのだろう。
大いなる別世界に、その心を委ねる事。
それはどうしようもない、快楽と救済、希望を心に宿すに違いない。現世に対するとてつもなく強い絶望。真実から眼を閉ざすという事。何も変わらない自分に諦めを抱くという事。
そう言えば、デス・ウィングは、とてつもなく軽蔑していた……そんな人間の宗教に縋り付く心の弱さをだ。
イルムは対案を考えている。
新たなる娯楽は必要になるだろう。
大道芸人、吟遊詩人。劇作家、何でもいい。
パラダイス・フォールが作っていた技術の中には、スクリーンを使って、大衆に娯楽を与える技術が研究されていた。それを有効活用させない理由は無い。
街を見渡せば、虚ろな顔をしている人々の眼が見える。彼らは正気が保つには、偽りでも良いから希望が必要なのだろうから。…………。
†
「ヴィラガ。そこにいるかしら?」
洞窟の闇の中、女騎士の歌うような声に囁かれて、一人の大柄のオークの男が現れる。ヴィラガと呼ばれたオークは、オークでありながら、褐色の黒い肌ではなく、白い肌をしていた。
「赤い帽子のゴブリンの軍団に調査を行わせていたのだけど、ヴィラガ、貴方が直々にやってくれるわよね?」
赤い魔女は優しげな笑みを浮かべる。
「はい。アリゼ様。私は貴方の片腕として、この剣を振るいましょうぞ。貴方の目的の為なら、どれ程の血が流れても、私は構わない。既に、貴方を支持する者達は、戦乱後のルクレツィアにて、近接する異世界にても、集っております」
「あらあら。でも、私は血を見るのは、そんなに好きではないわ。みんな、仲良くやれたらよいのにね」
そう言って、女騎士は洞窟の奥へと向かっていった。
暗い洞窟の闇の中で、白い肌のオークであるヴィラガは、憎悪と復讐を決意した眼で物想いに耽っていた。彼は自身を迫害した“黒い肌のオーク達”を呪う為に、今もなお生きている……。そして、彼にとってのアリゼとの出会いは、あの晴れ渡った美しい青空のように、とてつもない質量の希望だった……。
自身を肌の色で、忌み子とした同族達を決して赦せない……。