第四十九幕 月下の底。闇が口を開けているから……。 1
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彼女は孤児だった。
スラム街の中で育った。
彼女は苦しむ為に、この世界に生まれたのだと、漠然と自覚していた。それを悟ったのは、四歳児の頃だった。親に捨てられた。そう理解した。
誰も彼女を人間扱いしなかった。
盗んだり、虫を食べたりして生きていく術は無かった。
同年代の者達は、次々と疫病に襲われて死んでいった。
そんな彼女に手を差し伸べたのが、美しい顔の青年だった。
「傷だらけだね。手当をしてあげよう。温かいスープも必要かな。ウチにおいで」
まるで、日の光のように彼は優しかった。
何の為に、自分が生まれてきたのか。
彼女はようやく、見付ける事が出来たのだった。
それから。
ジャレスに拾われて、ルズリムは学校の勉強と、暗殺者の訓練を強いられた。彼女は幸福だった。彼の為にならどんな事をしても構わないと思った。きっと、彼に仕える為に生まれてきたのだろう。そう彼女は確信した。
自分達の命を救ってくれたジャレスの為なら死ねる。
ブラウニー・キッズの他のメンバー達。
そう、他の者達も、みな、そんなものだ。
ジャレスの為に生き、ジャレスの為に死ぬのだ……。
2
大闘技場へと向かう道中だった。
雑多な人々が、新たに出来たスラムの中で暮らしていた。廃墟から拾ってきた様々なゴミを漁り売りさばく、露店商達が集まっている。
建物と建物の間には、紐が通され、洗濯物が吊るされている。
住民達の中には、吟遊詩人や大道芸をして、何とか糊口を凌ごうとしている者達もいた。
ミントは片っ端から、火球の魔法と稲妻の魔法を組み合わせた攻撃を、襲ってくる小さな暗殺者達に向けて投げ飛ばしていた。
小さな毒の槍を投擲していく子供の一人の黒焦げ死体が、地面に転がる。
「ジャレスに味方する者も赦さない」
彼女は右の掌から、炎と稲妻を融合させた魔法を生み出していた。
メアリーは不愉快そうな顔を見せなかった。
「止めなさい、ミント。汚れ役は私がやるって言っているでしょ?」
彼女は生成した鉈で既に、何名かの小さな暗殺者達を迎撃していた。
メアリーは返り血に塗れていた……。
「駄目よ。メアリー。臣下に汚い役をやらせて、自分は綺麗な振りをする王様? そんなものには私はなりたくない。貴方は下がっていて、力を温存して。こいつら、全員、私が一人残らず焼き殺すから」
彼女の瞳は炎に照らされて、燃え上がっているように見えた。
あるいは、鮮血に彩られているような。
メアリーは炭化した子供の死体を見ながら、ミントの感情の変化を危惧していた。
「しかし、やはり少年兵は怖いわね。幼い頃から訓練されていると、大人よりも人殺しに躊躇が無いわ」
戦場において、一番、怖ろしいのは少年少女の兵隊達。
それはよく聞く話だった。
彼らは殺戮マシーンとして育てられて、ただ大人達に利用される捨て駒として死んでいくのだ。
「ねえ、知っている? ミント。少年兵って、かなりのトラウマを背負っているのよ。幼い頃から死と隣合わせで、沢山、死体見せられて、自分も殺す側になって、戦場を離れた後も生涯、PTSDに苦しめられる。医者は元少年兵達の心の治療にも悩むそうよ」
「何が言いたいのかしら? 分からないわね、メアリー」
ミントは鼻を鳴らして、メアリーの言わんとしている事を嘲る。
彼女は雷撃を放って、遠くから此方を狙ってくるブラウニー・キッズの一人を焼き殺す。稲妻によって焼け焦げた死体が、高い建物から転がり落ちていく。
「ミントさん、俺も出来れば、ミントさんには人を殺して欲しくない……。俺がやりますから」
ジェドが小声で告げる。
「ジェドこそ駄目よ。貴方みたいな“普通の人間”は血塗られては駄目。国を治める者は、何処にでもいる普通の人々の為に、自ら手を汚さなければならない。私はそう考えているわ」
彼女の雷撃は更に激しくなっていく。
露店商をしている者達は、彼女の姿を見て、少し慄いていた。
だが、彼女は、そんな彼らには気も留めなかった。標的だけ殺せれば何も問題無い。彼らに危害を及ぼすような間抜けな事はしない。
彼女はただ、敵だけを、敵を殺す事だけを考えていた。
「貴方は大切な弟子に対して、どう思っているのかしら? ミノタウロス」
メアリーは、戦斧と防御魔法で他の三名を強襲から守っているハルシャに訊ねた。
「どう思っているも何も、ミント自身の問題だろう。今更、この俺は口出しをしない。いつまでも子供じゃないって事だな」
「ふん。貴方もそういう考えなのね」
メアリーは、ミントの見えている、行く先の道に血塗られたものを幻視する。
果たして、彼女は戦いの先に、何を見るのだろう?
彼女自身の中に芽生えた怒りや憎悪は、復讐相手を倒して全て消し去る事が出来るのだろうか。……否、彼女はこの世界全体の人間の在り方を憎み、憤怒を抱えてしまった筈だ。
メアリーは考えを横に置く。
とにかく、今は、ジャレスを倒す事のみに集中しなければならない。
ルブル、ザルクファンド。
彼らとは、二手に分かれている。
それぞれ、別々に行動しながら、各々、ジャレスと戦うつもりでいた。指名されたミント、メアリー、ハルシャは正面切って、そして、ルブルのザルクの二人にはジャレスを奇襲させるという算段だった。
†
「おそらく、あの女神という存在はあるものを媒体にしている」
デス・ウィングは大闘技場に向かう際に、そのような事を考察していた。
「それはおそらくは“人々の信仰心”。それが具現化、実体化したものが、あのジャレスの背後で、ジャレスを転生させる力を与え続けているのだとすれば……」
彼女は建造物と建造物を跳躍していた。
ミント達よりも早く、ジャレスに会うつもりでいた。
「このルクレツィア全体に根付いている。“死後に異世界に転生出来るという信仰心”が、あの女神という存在を実体化させているのだとするならば、合点が行く。興味あるな。直接、本人から聞き出してみようか」
彼女は暗黒に満ちたアイデアと戦略を考える。
ルクレツィアに住まう、転生の宗教を信じている者達を一人残らず皆殺しにすれば、あるいは信仰心を持つ大部分の人間や亜人を殺害すれば、あの女神は実体化出来ず、ジャレスの転生の能力は封じられるのではないのか?
……だが、それに気付いたとしても、ミント達はそれを実行しない。
大闘技場の跡地はすぐに見えた。
彼女は半壊した大闘技場を覆っているドームへと着地する。
ドームの所々は崩壊しており、大闘技場の中を覗き見る事が可能だった。