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トリ・ミル・メイロイより遠くから

作者: 靄霧霞

 20171109改稿

 

 

 

 

 空にあるものは太陽だろうか。あるいは月、雲、星か。――それとも飛行機か。

 茜の空が、吉峯ロコという女学生の視界で滲んでいた。

 彼女が昼寝をしていたのは大川の河原だ。枕代わりの鞄をひきつけ、ロコはきしむ体を宥めながら寝返りをうつ。まだ部活が続いている時間だ、家族へごまかすならばもう少しぐらいは遅くなければならない。

 淡い草の香りを含んだ川風が、ロコの短い髪をかき乱していく。

「……涼しいなぁ」

 初夏に差し掛かる直前の、色さえ感じられそうな颯爽とした風。それに煽られてだろう、ふわりと彼女の心が浮いた。

 なんでもできる。なにをしたっていい。ちょっとグレてみるのもいい。

 だけど、どうしたって、結局は最初の場所に辿り着くような気もしていた。

「うん……」

 空の茜はいつしか深い青色に冴えていく。

 それが昏黒へと落ち着くまで、ロコは動かないでいようと思っている。

 思っていた。

「…………?」

 ふと、彼女の見上げている空に、光が点る。

 大きなものではない。だが、ときおり見かける航空機のものでもない。

「……流星……あれが?」

 ネオンライトめいて色を移らせる、幻想的というよりは安っぽい輝き。そんな光点が、それなりの強さと速さで、夕暮れ後の暗い宇宙を踊り狂っている。

 吉峯ロコは、それを見ながらただ苦笑した。驚嘆すべき妙事ではあるが、そういう類の変なものを愉しめるような人柄でもなかったからだ。

 それでも、少しの間は目を離せなくて、ロコはただ天を眺める。

「くるくる回るあの花火みたい……」

 そう呟いてから、ロコはかぶりを振って視線を切り、立ち上がった。

 荷物を持ち上げ、ようとして、ロコはしばらく迷った。その末に通学鞄と武具袋だけ背負った。肩掛けの部活鞄はそのまま放置する。

 彼女は家へ帰ることにしたのだ。UFOらしきものがくるくるしていたからだろうか、なんとなく気が変わってしまったのである。

「……あ、落ちた」

 天の光点が急に速度を弱め、先程までの勢いが嘘のように、しゅん、と地に吸い込まれていく。

 さよなら。

 吉峯ロコはそう思った、口にこそしなかったが。


「今日はすき焼きよー」

 という母親の言葉に、ロコは生返事を返して、まず制服を着替えに自分の部屋へ上がった。階下からは四人の団欒の声が聞こえてくる。

「ロコ、なんだか元気がないなぁ」

「なにかあったんだよ。ナツキちゃん、なにか知ってる?」

「……なんであたしに訊くのさ」

「はいはい、ごはんつけたから並べて……」

 茫洋とそれらの声を聞いていたロコだが、とあることに気付く。

 彼女は四人家族だ。父と母と、ロコと妹のナツキ。なのに、階下からは四つの声が響いている。

 嫌な感じの胸騒ぎを覚えながら、伸び切ったシャツとジャージに着替え、ロコは急ぎ足でダイニングルームに向かった。

 見慣れた父の顔。母の顔。八重歯を鳴らすナツキの顔。そして、どこか懐かしく思えてしまった、見知らぬ顔がある。

 ヘアバンドに眼鏡、急いで染め直しましたという感じの黒髪、首にかけっぱなしのイヤホンに、全体的に傾いた姿勢。妙に似合っているその服は色合いが左右非対称で、どこかふてぶてしい大猫を思わせる。それが、そいつだった。

 そいつはロコと目を合わせると、わざとらしいほどのにこやかさで笑顔になる。

「……誰、その、眼鏡女」

 恐怖さえ感じながらロコは問いかけた。

「喧嘩でもしたのか? お前の従姉妹のミヤコちゃんじゃないか」

 父はそう言ったが、ロコには理解不能だった。そもそも、そんな従姉妹などいないと彼女はしっかり覚えている。

「春先にミヤコさんが来てから、ロコ、妙な調子だしね」

 ロコは剣呑な目つきでナツキを黙らせた後、首を横に振った。

「だから、誰なの……?!」

 そんな、ひどく深刻な表情のロコを、母親が心配そうに覗き込んでくる。

「……大丈夫?」

 大丈夫じゃないのはあんたらだ。

 その言葉を飲み込んで、苛立ちながらロコは拳を握った。

「まぁまぁ。すき焼き好きが高じて、気が動転してるんですよ。ねぇ――ロコ?」

 見知らぬ者から、ひどいき気安さで呼びかけられたその言葉は、どうしようもなく怖気と恐怖を掻き立てるものだったが。それでもロコは怒りと不愉快さを混ぜ込みながら、ウィンクしてきたミヤコに舌打ちを返した。

 肩をすくめて、ミヤコはパイプ椅子を広げる。この家では、来客がある時にはそれを出すことになっている。ので、このダイニングルームで五人というのは、やはり普通ではない。

「まぁ座りなよ。河原風で体が冷えてるでしょ?」

「あなたが、どいて」

 パイプ椅子に手招きするミヤコへ、怒りを滲ませながらロコは言う。

「その、あなたが座ってるのは、私の椅子。だからどいて」

 しかし、うまく意味を捉えられない様子でミヤコは固まってしまう。その仕草になお苛立ちを募らせたロコへ、父親が諭すように問うた。

「ロコ。今日になって、急にどうしたんだ」

「急にって……!」

「まぁまぁ、まぁまぁ」

 そう言いながら、ミヤコはパイプ椅子に移動して、今度はロコが所有権を主張していた椅子の方へ手招いた。ともあれ場所を譲ったらしい。

 なにもかもが気に入らなかったが、とりあえずロコは取り戻した椅子に腰をおろした。憤然として。

 悶着はそれまでで、夕食はすぐ始まった。それなりに和やかな晩餐にはなったものの、ミヤコが話しかけてくる言葉をロコはすべて無視した。

 そのさまをナツキは横目で見ている。


 次の日、部活の朝練があるということで、ロコとナツキは日が明けるころに出かけていった。

 だが、ロコが向かったのは学校ではなく、昨日も時間を潰したあの河原。その理由はもちろん時刻を経過させるためだったが、それだけではなく、意味不明な存在であるミヤコのことを考えなければならないと思ったからだ。

 明らかにおかしかった。ロコの記憶では、これまでミヤコなどいなかった。だというのに、昨日から急に現れて、ロコ以外の誰も彼女の存在に違和感を覚えていないらしい。なにかが起こっている。それだけは間違いない。

 手帳を取り出して、ロコは思いついたことを書き連ねていく。

 『狂ったのは、世界か、自分か』――どちらもありうる。だが、誰かの作為だとしても、そうでないとしても、自分が狂った可能性の方が高い気がする。だからなんだという話でもあるが。

 『どう対応するか』――拒絶するか、放置するか、適応するか。心情としては拒絶したい。こんなわけのわからない状況、気が狂いそうになる。とはいえ闇雲に動くのは、それはそれで恐怖がある。そして、適応はごめんだった。なら、しばらくは放置するしかない。

 『危険かどうか』――わからなかった。ただ、ひどく不気味だった。

 『間接的な被害がありうるか』――警戒はすべきだ。あの椅子のように、いつのまにかなにかを奪われてしまうかもしれない。

「いや……言えば返すのかな、もしかして」

 事を荒立てたくなかったのか、そもそもそういうつもりじゃなかったのか。昨日の悶着でも、ミヤコは、ロコの使ってる椅子をさっさと返して、自分はパイプ椅子に移っていた。

 ともあれ要注意。

 口にせず、しかし深く心に刻んで、ロコは空を仰いだ。

 初夏めいて日差しが強く、雲がもうもうと立ち昇っている。


 背中に投げつけられた紙くずを振り向きざまにつまみ取ってから、溜息ひとつを漏れさせて後、ロコは言い放つ。

「やめて」

 そこには何人かで連れ立った女子生徒がいた。先頭にいる髪を後ろでまとめた吊り目の女性が、率いている者を窘める言葉を口にした後、言葉を発した。

「ごめん」

「迷惑よ。……本当に迷惑」

 面倒そうな表情のまま、ロコはただ言葉を吐く。

「サワタリ。あなたに昨日、退部届は届けたわよね……?」

 ロコの言葉に首を振って、サワタリは怒ったような顔で言い放つ。

「自分が預かってる」

「……何が気に入らないのよ。辞めるって言ってんだから、もう突っかからないでほしいんだけど」

 サワタリは首を横に振って、ロコに近づく。

「逃げるつもり?」

「いや、その言葉の意味がわからないんだけど」

 不愉快そうに眉を動かしたものの、ロコとは問答せず、サワタリは言い放つ。

「ともかく。ロコ、あんたを剣道部から逃すつもりはないから」

 そう言ってサワタリが伸ばしてきた右手を、ロコはするりといなした。

「あなた、馬鹿?」

 途端、色めき立つサワタリの取り巻き。数多の悪罵を投げつけてくる彼女らの真ん中で、サワタリだけは渋い顔で右拳をうごつかせる。

「もう剣道は、しない」

 ロコは軽く凄むが、それも相手を少し怯ませたのみで、矢継ぎ早の文句を封じるには至らなかった。

 やれやれ。

 言葉にせず天を仰いで、ロコはこの面倒事からどう脱すればいいかわからず溜息を吐く。あまりに険悪になり過ぎて、喧嘩にさえなりそうなほど空気が張り詰めている。しかし、そうなるのは個人的に避けたい流れだった。

 と、考えていたロコの、その背中から顔を出したのは眼鏡をかけた制服姿の女。

「お待たせ、じゃあデートに行こう! ――あれ、もしかして取り込み中?」

 それは、ロコにとっては眼前の連中よりも不可解で、あるいははるかに面倒な面妖ではあった。ともあれ彼女は、苦虫を噛み潰したような心地で、それでも笑顔を努めて築く。

「いいえ。行きましょう、ミヤコ」

 せっかく、張り詰めた空気が散ったのだ。乗っからない手はない、そうロコは判断した。

 そして、ひとつ首を傾げたものの、ミヤコは『じゃーね』と気さくにサワタリらに声をかけた後、早足のロコの後ろを着いていった。

 しばらく歩き、玄関口の下駄箱まで来た所で、ロコは不快そうに呟く。

「なにあれ。デートって……」

「迷惑だった?」

「……いいえ。助かったわ」

 喧嘩は避けられた、その点においてロコはミヤコの参入に感謝している。そんな素直な態度に喜色を浮かべつつ、他意なくミヤコは問いかけを投げた。

「正直だね。……棒振り、辞めるの? 嫌いになった?」

「なんで棒なんかぶつけ合わなきゃならないのよ。最初から好きじゃない……嫌いでさえあったかも」

 誰に語ることもなかった心情を吐露するロコの横で、ミヤコはあることに気付いて顔を青くする。

「まずい」

 向かう先の正面、門の脇に教師が立っている。下校時刻だからだろう。

「……もしかしてあなた、この学校の教師には、その、顔を売れてない?」

 その言葉に返答せず、ミヤコはロコの手を掴んで走り出した。不意であり、跳ね除けることもできないまま、二人は駆け出し、学校の正門を通り抜ける。その背に向かって、教師の叱責の声が投げかけられたが、それでも彼女らはしばらくの先まで足を止めなかった……。

 ……繁華街の近くでようやく走るのをやめ、あることに気付いたロコは問う。

「あなたが着てる制服、まさか」

「背格好が近くて、ぴったりだったよ」

 勝手に自分の制服を拝借した不届き者の尻へ、ロコは全力で蹴りを叩き込んだ。


 帰り道、少しだけ寄り道をして、ロコはミヤコにたこ焼きを奢らせた。

 しばらく先の花火大会が楽しみだと笑う露天の店主に、ミヤコがちょっとした注文をつける。マヨネーズは抜きにしてくれと。

 その時はなにも思わなかったが、後になってふとロコは想った。

 どうして、自分がマヨネーズ抜きのたこ焼きを好むのを、知っていたのかと。


 手提げ鞄を担ぐようにして背中に回し、ミヤコは足早に歩くロコへ声をかけた。

「今日も河原?」

「行かないわ。……ていうか、なんで知ってるのよ」

 ロコの質問に答えず、ミヤコは気安い猫のように彼女へしなだれかかって誘う。

「どっか行こーよー。繁華街とかで青春を無駄遣いしよーよー」

 そんなミヤコに、ロコは首を振って、はにかんだような表情で言った。

「棒を振ろうかなって」

 気の早い蝉が、沈黙を埋めるように鳴いている。

「剣道部は辞めたのに?」

「うん」

 いくらかの時間を要したものの、はたとミヤコは気付き、気の抜けたような笑顔になった。その表情へ、わずかな不機嫌さとゆるい愉快さの混ざった口端笑いを返して、ロコはなお足を早めていく。

「そういうことね」

「そういうことよ」

 ほどなくして、ふたりは家に帰り着く。

 ロコの家はそこそこ大きくて、庭も木刀を振り回して十分な広さがあった。この庭で、剣道を始める前のロコは、時間を見つけては飽きることなく木刀を握っていたのだ。右手で一刀、左手にも一刀。長短、揃えて――もちろん我流。

 いささか奇妙といえるその習慣は、はたしてなにがきっかけだったのか。彼女の両親はともに首を振り、わからないと口にするだろう。また、ロコ自身ですらもはや思い出せなかった。

 しかし、宮本武蔵の二天一流を気取るわけでもなく、いやもちろん憧れもあっただろうが、ロコにとっては二刀をして剣と扱うことこそが自然。そしてそれを積み重ね、筋肉を余すところなく躍動させるやり方で剣を研いだ彼女にとって、型多くまた闘争の残滓の強き武道である剣道は、どうにも合わなかったのだ……。

 流水の如き滑らかさで、二刀にてロコは踊る。その動きは、一振りごとに止まるものではなく、連綿と剣撃が続いていく類のものだ。だが、その一刀一刀すべてにしなやかさと強さがあった。独自の合理性、つまり骨と筋肉の動きに必然があるからこそ、それは必倒の剣の連続という至芸に足をかけるまでに至っている。

 ……気負いなく、叫を求められることもなく、一心に剣を振るうロコを、ミヤコは音楽を聞きながら眺めている。それは妙に楽しげな様子であった。

 途中、休憩がてらロコは訊ねる。

「見てて楽しい……?」

「棒を振り回して楽しい?」

「……うん」

「じゃあ、そういうこと」

 どういうことよ。

 その言葉を飲み込んで、ついでにスポーツドリンクで体を潤して、ロコは再び二剣に踊った。

 日々は続く。

 学校が終われば、ふらっとミヤコはロコの前に現れ、どこかに行こうと誘いをかける。ロコはいつもそれを断る。二人は剣道部主将のサワタリに出遭わないよう気をつけつつ、ちょっと買い食いをして、家に戻り、ロコは二刀を握る。たいがいミヤコも付き合うがたまにいない。ごくたまに、ロコはミヤコの聞いている音楽を一緒に聴く。

 早めに帰ってきたロコの父が問うた。部活ではなくなぜ庭で剣を扱うのかと。

「私ってものぐさだから」

 雑にそう返したロコに、不思議そうな顔をしつつも。その日、彼女の父は、懐かしそうにロコの棒振りを見ていた。

 またある日。ロコの妹のナツキが、部活から帰ってきた後で、彼女の棒振りを発見した。

 彼女は母親と話して、毎日それが行われていることを知ると、八重歯を噛み締めて不機嫌そうに黙る。そのあまりに剣呑な様子に、母はナツキに心配そうに語りかけるが、きっと押し黙ったきり彼女は語らない。

 そして、時に、なにかを思い詰めている様子で、ナツキはロコの棒振りを睨みつける。


「ちゃんと話した方が良いと思うけど」

 ある日のことだ。突然、ミヤコはそう言った。そして、ロコは顔をそむける。

「うわ。初めて会った日みたいな無視の仕方だ」

 苛ついて、短い髪をかき回しながらロコはミヤコを睨む。

「なによ」

 だが、気にすることなくミヤコは言葉を繋いだ。

「両親だって気付いてるだろ。なにより、ナツキちゃんだ。あの子、世界でも呪いかねない顔でキミの棒振りを見てるんだぜ」

 うるさい黙れ。

 その言葉がまず浮かんだが、ロコの口から出てきたのはもっと強力に相手の意見する心を吹き飛ばす言葉だった。

「あなたには関係ない」

「…………」

 こっちとそっちは無関係だ。この類の言葉は、関係があったとしても、無関係だと言い放たれることで相手の関心を萎えさせる力がある。ものぐさなロコは、面倒になるとこうやって会話そのものを断絶させる癖があった。

「私にだって考えも感情もある。……あなた、好き放題してるけど、相手の気持ちとか考えたことあるの?」

 ミヤコは硬い顔のまま、ただ思う。あぁ、正論を言っているな、と。

 正論とは正しい論や正しい理論ではない。倫理的・情緒的に正しいこと、それが世で言われる正論の実際である。

 そして、だからこそ、正論は相手を納得させるに足ることも少ない。ただ単に相手の心を萎えさせるばかりが多いのだ。

 望まぬ会話を終わらせるためとはいえ、『お前はただの自分勝手だ』と言い放ったロコへ、ミヤコは冷めた怒りと絶望感を覚えていた。

「人格攻撃かよ」

 顔をそむけ、聞えよがしにミヤコは舌を鳴らす。

「舌打ちしたわね」

 いま、お互いの心中は複雑な様相になっている。興奮があり、しかし冷静な打算もあった。だからこそ、殴り合いのような言葉の投げ込みは、ただひたすらに火を広げていく。焦土を決着として終わらせるためだ。

「もうキミには何も言わない。ボクは。それでいいだろ」

「だから、あなた、私のことを考えたことが――」

 瞳の奥に哀しみと切なさを隠しながら、ミヤコは相手の言葉を遮り叫ぶ。

「――うるさい! 黙れって言いたいなら把握したよ! 黙ってくれないか」

「その態度はなんなの?!」

 そのロコの言葉で、ミヤコは反射的に縁側を拳で叩く。だが、なおロコは怯むことなく、言葉を放ち続ける。

「どうして私の言葉をちゃんと聞かない!」

「キミの言いたいことは伝わったって言ってるだろうが!」

「いいえ、わかってるならそんな態度は……!」

「うるさいッ!」

 ミヤコは手に持っていた音楽プレーヤーを地面に叩きつけた。それは、部品を飛び散らせて壊れる。

 さすがに言葉を失ったロコに、捨て台詞さえ残さず、ミヤコは縁側から憤然として去っていった。

 残され、次第に怒りに震えながら、ロコは破損した部品のひとつを木刀で殴りつける。破片はさらに細かく砕け、弾け、彼女の頬を掠めていった。

 痛み、熱さ、口惜しさ、怒り。薄く流れ出る血を手のひらで押さえて、ロコは庭でひとり。

 それでも彼女は泣いていない。


 そっと背中から投げつけられた紙くずを、ロコはつまみとった。振り向きさえしなかった。この手のイタズラには慣れきっていたからだ。

 そのまま歩き去ろうとした彼女の背中に、紙くずを投げた女生徒、つまりサワタリが声を張り上げた。

「ロコ!」

「サワタリ」

 振り向きざまにロコは紙くずを投げ返す。サワタリはそれを何度かお手玉したものの、なんとか掴んで、ポケットに放り込んだ。

「ごみを捨てるな」

「うん。ごめん」

 呆れているというよりは面倒がっている様子のロコだったが、それでもサワタリはめげることなく問いかける。

「あんた。……どうしても、剣道部には戻らないの?」

「どうして私にそんな気をかけるの」

 質問に質問を返され、苛立ちを瞳に浮かべながらもサワタリは素直に吐露する。

「本物でしょ、あんたは」

「買いかぶりよ」

 切実なものを滲ませながら、サワタリはロコに向かって語りかけている。だがロコは、まともに向き合わない。

「自分は、府大会で何度も優勝してて、全国でだって。でも、あんたに勝ったことなんて――ないじゃないか」

「勝ったから、優勝してるんでしょ。何度も立ち会ったじゃない」

「それはあんたが手を抜いてるからだ。本気じゃない。本気のあんたと立ち合ったことなんて一度も」

 言葉をそこで区切り、息を吸って吐いて、サワタリは言葉を続けた。

「ナツキちゃんだって――」

「――あの子こそ本物でしょ」

 しかし途中でロコが口をはさむ。うまく言葉をぶつけられ、続きの言葉を胸の中で失ってしまい、サワタリは苦しそうに首を振った。

「わからない……わからない。だって、あんた、あんなに剣が好きだろうに。そうじゃなきゃ、あんな風に、自在に二刀なんて扱えるわけないだろうに」

「勝手に私の心を決めないで、剣道部主将。迷惑が過ぎる」

 冷淡なロコの物言いに、サワタリは口を噛む。

 ロコは言い過ぎたかなと少し思ったものの、次の瞬間にはどうでもよくなって忘れた。そして、サワタリに背を向ける。

「でも……それでも自分は諦めないから。絶対に……」

 さっさと諦めろよ。

 言葉にしなくともそんな気配を漂わせて、ロコは歩き去る。

「……絶対に!」


 そして、まさしくこの日。

 ナツキは帰ってこなかった。


『お父さん、お母さん、ごめんなさい。心配をかけることになって、本当にごめんなさい。』

『あたしは、それでもロコお姉ちゃんが許せないんです。』

 夜が更けても帰ってこなかったナツキに、両親がまず取った行動は彼女の部屋を調べることだった。そして、置き手紙を彼らは発見したのだ。

『お姉ちゃん。どうして剣道を辞めるんですか。』

『誰よりも強くて、誰よりも剣が好き。そんなお姉ちゃんなのに。どうして。』

 そこに綴られていたのは、いかにも思春期の年頃らしい、不安定な自我の賜物による文章だったが――だからこそ、真摯さがどうしたって拭えないほどこびりついている。

 ナツキはロコを深く尊敬していた。あるいは、崇拝とさえ言えるほどに。

 剣の道。ナツキが好み、進まんとするその道。その先を行っていた、誰よりも強くて、正しく、凛々しい姉。ある種の理想。それが、剣道の盟や徒たち、ひいてはつまり、世界はなぜか受け入れることがなかった。その、理想と、実際との隔絶。

 わからなくなって、ナツキは迷い込んだ。果てに、若い心では抱えきれなくなったのだ。

『教えてほしかったけど、お姉ちゃんは黙ってた。なにもかも。部活を辞めるってことさえ。』

『そんなお姉ちゃんと一緒にいたくありません。』

 手紙のいくらかの箇所は涙で滲んだ後がある。どうしようもなくいっぱいいっぱいであったことだけは、その手紙を見た者なら誰しも読み取れただろう。

『あたしなら大丈夫です。愛用の木刀を持っていくから、平気です。』

『ごめんなさい。』

 手紙を読んだ両親は、警察へ相談するため即座に交番へ向かった。呆然としているロコと、平素よりは静かなミヤコを残して。

 残っているふたりの視線が合うことはなかったし、ナツキは次の日の朝になっても帰ってこなかった。


 朝になって、ひとり欠けた食卓で、ロコは両親に問われた。部活は本当に辞めたのか、と。

「……うん。なんだか、みんなとやるのが疲れちゃって。説明もしづらくてさ……うまく伝える方法は、探してたんだけど」

 彼女の言葉を継いで、来客用のパイプ椅子に座ったミヤコが言う。

「ロコ、剣道は合わないんだよ。我流だし傲慢だから。折り合いも悪かったように見えたし」

 喋らせたくはなかったが、その言葉を押し留める力はロコにはもうなかった。

「どうして、ちゃんと伝えてくれなかったんだ」

 両親はそう漏らした。その顔が含む思いを感じ、申し訳無さと面倒臭さが同時に起こって、ロコはただ辟易して息を漏らす。

「ごめんなさい」

 ロコの言葉は何に対する謝罪なのか。誰に対するものか。

 そもそも謝罪であったのかどうか。

 この虚ろな沈黙の後、ロコの家族はどうするかを話し合い始める。そして、父親は仕事、母親は家で待機、ロコは学校に行くことになった。ミヤコは話し合いには参加せず、横目で家族の様子をただ見ているだけだった……。

 ……気もそぞろなロコが家から出た時、ミヤコがその後ろについた。

「大丈夫?」

 できれば耳を閉じたい、そのぐらいの気力でロコは声を無視する。その様を鼻で笑って、ミヤコは持っていた大きな鞄をロコの背中に強く投げつけた。

 さすがに避けきれなかったものの、振り向いてそれを抱え込んだロコ。彼女は怒りの言葉を放つ前に、ミヤコが至近距離からロコの顔を覗き込んだ。パーソナルスペースに対する強烈な侵攻。

「なによ」

「着替え」

「は……?」

 にっと笑いを作って、ミヤコは言う。

「探しに行くんでしょ? 制服だとまずいよ」


「そんなギスギスした顔しないで。デートしてるとか、上辺だけでも思っとかないとね、見回りの教師とか警察とかに見咎められちゃうかもだし」

「無理よ、そんなの」

 そうして、ふたりは夏の街を練り歩いた。わずかに風があるだけマシだったとはいえ、それでも強い日差し、上下から挟むように炙ってくる熱気が、その道行きを苦難に溢れたものにしていた。

 巡った場所は、ネットカフェや漫画喫茶、図書館、コンビニ。どうしてかミヤコは家出人探しに詳しかった(当人はちょっと調べただけと言っていた)。しかしだからといって上手くいくかといえば別の話で、それらの場所で顔写真を見せたりしたものの、収穫はまったくなかった。

「ナツキちゃんの携帯電話があれば、もう少し交友範囲から辿れるんだけどね」

 そう呟き、ミヤコはヘアバンドを叩いたりしたものだった。

 ナツキの交友を辿って彼女は情報を募集してはいたが、そちらも芳しいとは言えない成果だった。

「昨日、夜の公園はおじさんたちが調べたらしいし……ちょっと手詰まりかなぁ」

「もっと探そう」

 気弱に聞こえるその言葉は反射的にロコを立ち上がらせてしまう。休憩所のベンチに座るミヤコがその腕を掴む。

「聞いてた? ……手詰まりだよ、たぶん」

「でも、ナツキが――」

「昨日ちゃんと寝た? 寝てないでしょ。せめて休憩をしたほ」

 半ば相手の言葉を無視していたロコだったが、言葉を発しているうちに興奮が過ぎてしまったのか、急に叫ぶようなやり方で言葉を漏らす。

「――私のせいなの!?」

 それもまた、どういった意味なのか。

 ミヤコは、涙ぐむロコを見ながら、宥めるように言う。どんな人間にも当たり前にある限界について、ゆるく考えながら。

「まぁまぁ。……まぁまぁ」

 その言葉を、ミヤコはただ繰り返した。優しげな口調で、ゆっくりと落ち着かせるために。

 それから、手持ちのスポーツドリンクのペットボトルをロコに渡し、微笑む。

「飲みさしだけど、ちゃんと飲んどきなよ。食事も睡眠もちゃんと取れてない上に水分まで減らしちゃあ、見つかる前に病院送りだ。だからさ」

「でも」

「大丈夫、だいじょーぶ」

 ミヤコのその言葉に、ロコの抵抗が弱まる。

「ちょっと腹ごしらえしよう。ちょっと思いついた場所があるんだ」


 食事の後、道すがらミヤコはロコに言う。

「どうしてキミはナツキちゃんの行動にまで責任を感じてるの?」

「もし、私がちゃんと話してれば……」

 そう言って顔を俯けるロコに、あくまで気楽にミヤコは言ってのける。

「だとしても、行動したのはナツキちゃんだよ。キミじゃない」

 ミヤコの言は、責任感の欠如とも取られかねないものだった。ロコはミヤコの方を向き、睨みながら口を開く。しかし、ふと、彼女の微笑みからあることを理解すると、声を止めた。

「強制がなければ、その人の行動はその人の責任じゃないかな」

 それは単純な根本原理だった――行動の結果は当人だけが負うべきである。その考えは、決して責任の放棄から来るものではなく、むしろ責任を重視するがゆえのものだ。そして、個人や、自由をより尊ぶ無頼の志だ。

 この、あるいは異様な清々しさは、真実、ロコにとって身近なものでもあった。

「……そんな風に言ってもいい、のかな」

「さぁ? でも、せっかくだし、自覚しとけば? ……言わなかっただけで、そう思ってたでしょ。そうじゃなきゃ、『私のせいなの!?』にはならないよ」

「そうかもね……うん、そうなんだろう」

 ふと立ち止まり、青空と雲を仰ぎながらロコは言う。その声音にはもう緊張などはなく、悟りでもした僧侶のように穏やかだった。

「気にはなるし、心配だけど。責められるいわれはないよね。面倒だからなにも言わないけど……」

 そんなロコに、ミヤコは目を細めながら喋りかける。

「それだよ。結局、キミは、どうしたって自分の道を行くだろうさ。黙って行くか少しぐらいは話すかは、ちょっと考えた方が色々とマシになるとは思うけど」

 苦笑にどこか尊敬の熱意も滲ませて、ミヤコはただ言葉を続ける。

「要らないものは要らないだろ? 欲しいものはどうにかするだろう? ……キミはさ、すごいんだよ。ま、それなりに」

 そこまで言って、ミヤコは再び破顔した。

「ボクはキミが好きだよ。キミが生きてるだけで、この世界が少し幸せだ」

 彼女の表情から目を離せないまま、ロコは顔を赤くした。まるで、百万の味方を手に入れたような、空から落ちている途中でちゃんとパラシュートが開いてくれたみたいな、そんな気分だった。安心感で体が崩れて溶けてしまいそうにもなる。

 どうにもならない衝動が湧いて、彼女はミヤコから顔をそむける。

 そんなロコの様子を知ってか知らずか、ミヤコは歩き始めた。ロコはしばらく後ろで歩いていたが、意を決したように歩み進むと、横に並んだ。

 夏の日差しの下、なおも歩き続けて後、それなりの敷地の屋敷の前でロコらは立ち止まる。

「で、思いついた場所ってのは、ここ」

「……えっと、一刀流鞘渡道場……サワタリの家?」

 少し惚けたままのロコは、適当に返事を返している。

「そうそう。キミが退部したがってる剣道部の主将、剣道三段、全国大会常連優勝二回のサワタリの家」

「ああ。そういえば、サワタリは……ナツキと付き合いがあったわね」

 そう言った後、ロコはぶんぶんと首を振る。いつまでも惚っけぱなしはまずいからだ。そんな彼女の横で、ミヤコはインターホンを押し、呼び出す。

「ミヤコ・スピカと言います。サワタリ・カスミさんに取り次いで頂けませんでしょうか」

『あ、はい、少々お待ち下さい』

 それから、ミヤコはロコに向き直ってあっけらかんと言い放つ。

「とりあえず突入してみよう。なに、最悪、キミが剣道部に復帰すれば済むよ」

「……あなたこそ、自分の道を行く人よね」

「同病、同病」

 そう言いながら、ミヤコは伸縮式護身具を四つ取り出した。うち二つをロコに渡そうとする。

「使わないに越したことはないけどね、一応、木刀ぐらいなら受けきれる強度があるよ」

 ロコはそれらを震える手で受け取ろうとして、……しかし取りやめた。

「怖い?」

「ええ。私はね、ずっと、怖かったのよ」

 それから首を振り、恥じらうような声音でロコは語った。

「要らないわ。殴ったり殴られたりはもうごめんなの」

 そんなロコの様子にしばし驚いてから、ミヤコは口笛を吹く。

「暴力なし、威圧なし、か。やっぱりデートじゃないか」

「呆れた……」

 照れながらそう呟いたロコの目に、玄関から出てきたサワタリの姿が見えた。


 サワタリは挨拶もそこそこに、ロコらを道場へと案内する。誰もいない道場には夏の日差しが入り込んでいて、埃が明滅するようにきらきらと輝いていた。

「立ち会え」

 道着姿のサワタリは、それだけを口にして、剣道具を取り出し始める。

「どうしてその必要が?」

 ロコの問いかけに返答はなかった。もはやこの点で、彼女とサワタリの間に対話はできそうもない。きちんと対応していれば良かったのかもしれない、といまさらロコは思う。そうしなかったこと、それを受けて、自分がどう行動するのか、それは紛れもなく彼女の責任の話だった。

「立ち会え。本気で。そうすれば、ナツキちゃんに会わせるから」

「ごめんなさい、嫌よ」

 その言葉の固さと、裏にある怯え。聞いたことも想像したこともなかったそのロコの声音に、サワタリは無表情のまま振り向く。

「本当のことを言うわ。……私は、剣道が、怖いの。叫び声も、竹刀をぶつけ合うことも。どうしても、もう、耐えられない。恐ろしくてどうしようもなくなった」

 ロコはただ、言葉をぶつけた。嘘偽りのないものを。

 それを受けて、サワタリは訝しげに瞼を開けたり閉じたりした。

「あんなに強いのに……?」

「強さなんて関係ないわ」

 口も挟まず、ミヤコはただ彼女らを見ている。

「私は、人と争うのが……とても苦手です。本気とか、全力とか、どうしようもなく難しかった。不真面目だとか、手を抜いているように思われてたのはなんとなくわかる。でも、わざとそうしていたわけじゃなかった」

 争いたくないから流す。相手の心を折って黙らせる。対話を緩く拒んで、関わることをふわりと避け、自分の牙城を以って世に立ち、我道を征く。それはある種の性質で、当然ながら弱さと強さの混じり合ったもの。そして、そういう形になる理由とは、闘争を回避したく思う心根だ。また、負けん気が強く燃え過ぎるがゆえのそれでもある。

 その、隠者めいた求道我天の人であるがゆえに、彼女は剣を得た。天賦と研鑽の果ての、余人には届き得ない二刀の剣だ。それは、どの道の徒であろうと、剣を志す者にとっては大いなる衝撃を与えるものであっただろう。

 この種の者は、自ら望んだ道だけをただひたすらに進む。そこには、途方もない力が、熱が、輝きがある。そして他者には隔絶した場所に辿り着き、立ち、威を示すのだ。

 他者はそれゆえ彼女を憎み、あるいは畏れる。そしてその果て、関わることを止めなかった者は、どんな形になるにせよ彼女と向き合わざるをえなくなる……。

 ……ナツキの家出とはその向き合ったがゆえのそれであり、サワタリがただ立ち合いを望むのも向き合ったがゆえのものだ。そして、ミヤコも同じだった。

「撃つのも、撃たれるのも、嫌い。それでも剣を振るうことは好きで、妹のナツキも剣道に打ち込んでいて、自分だって長く続けてて、だから、もし他人との闘争を克服して吹っ切れるようになればとも思っていて。……でも、やっぱり、自分の本性は変えられなかった」

 謀りを見つけようとしてか、ただひたすらにサワタリはロコを見据える。ロコは視線こそ返さなかったが、着ている服を掴みながら、自らの内面を削いではサワタリに渡していく。

 そうするのだ、と決めたから。

 ロコは顔を上げて、そして頭を下げる。

「ごめんなさい、私は剣道部を辞めます。もう剣道をもうやりたくない。私には別の剣がある。――だから辞めるんです」

「……嘘だ」

 サワタリは、ロコの言葉に真実を感じながら、だからこそ苦しんでいた。瞳を燃やすその表情は、もはや哀願にしか見えない。

「自分と立ち会え、ロコ! そうしろ! そうしなきゃ、そうじゃなきゃ……どうしても」

 そんなことごめんだ。

 ロコはそう言おうとした。言うつもりだった。

 だが、どうしてか。彼女は天を仰いだ。視線は天井の板を越えられないが、その先には数多の色が広がっている……。

 ……そして、振り切るように、ロコは首肯した。

「わかった。最後に、あなたに」

 ぽろりと、彼女の瞳から涙が落ちる。


「道着は――」

「――要らない。見るにも聞くにも邪魔だから。ああ、得物は木刀と木槌をひとつづつ借りるわ」

 そして、準備をしたロコは、構えを取った。

 左手に木槌、右手に木刀。木槌は八双めいて頭の近くに。木刀は力を抜いて下段に置いている。姿は半身、腰を緩く下げ、呼吸にはわずかの乱れもない。短髪よりは少し長い濡れた黒髪が、夏の日差しの中で煌めいている。

 ほんの少しだけ。いや、かなり長く、サワタリらはその姿に見惚れた。

 惚れていた。目指した。相撃つこと、同じ高みに在ることを願った。しかしもはやそれは叶わなくなった。あがけども、あがけども、なにもかもが遠くなった――いや、遠くなったからこそ、いま、この時があった。

「ありがとう」

 サワタリはその言葉を発して、そして、意を決する。

「イヤーッ!」

 決着は一瞬だった。

 サワタリは雄叫びを放ちながら竹刀を振り下ろす。

 それこそ彼女の全力。ただ一刀に全てを込める、自他の尽くを捨てる絶剣。剣の秀才たるサワタリ、彼女が幼少より剣道にかけた日々がみな重ねられた、まさしく乾坤一擲。その魂魄の充実ぶりたるや、天地すら叩き割るにも相応の武威。

 だがその一撃をロコは捉える。

 しなり、加速する竹刀の先端へ左腕のみの大振りの木槌を合わせるなど、まさしく絶剣の先の神技。だがそれが、剣道ではなく自らの剣を修めたロコゆえに、極限の集中の先でそれを成す。そして木槌は、太刀行きの速さと木槌の先端部に重心があるという性質が重なったがゆえに、大捨の剣すら撃ち捌いた。

 サワタリは大きく体勢を崩す。ロコはそのまま前進する。

 そして、彼女はサワタリの胴を右手の木刀で、すっ、と斬った。

 優しくすらある斬撃だが、その太刀の軌道は紛れもなく凄絶。剣道の徒と言えども武辺者、サワタリはその一撃にただ痺れ、竹刀を取り落とす。

 まさしく決着だった。

 しん、とした道場の中で、サワタリの荒い呼吸だけが響いていて。

「……ばなぢが……」

 そう呟いたきり、鼻血を撒き散らしながらロコが前のめりに倒れた。

 物陰から駆け出してきた妹が、道場の床に落ちる前に、その彼女を抱きとめる。


 帰ってきたナツキがまず受けたのは、愛情の抱擁だったが、次に彼女に与えられたのは背骨を折らんばかりの力強き抱擁であった。そのさまを、ロコを抱えたミヤコと、謝罪するため連れ立っていたサワタリが、堪えられず少しだけ笑った。


 サワタリも帰り、そして皆が寝静まっただろう頃だ。寝付けないままロコは横になっている……。

「入っていいかな」

 ノックと同時にそんな声が響いた。ミヤコのものだ。

「……帰れって言ったら、あなた、帰る?」

「うん」

「じゃあ、言うわ。――入ってきて」

 苦笑を漏らした気配の後、ロコの部屋の扉を開け、ミヤコは中に入ってきた。

「へぇ、ぬいぐるみとか持ってるんだな」

 整然とした部屋の中で、薄汚れた兎のぬいぐるみだけが妙な具合だ。だが、いろいろなものの中央にそれが置かれていた。兎はふてぶてしくミヤコを見ている。

「それひとつだけ。他のは、みんなナツキにあげちゃったから」

「へぇー」

 間の抜けた声を出しながらミヤコはぬいぐるみの兎を弄んだ。羽の耳を折り曲げたり、お腹を指の腹で潰したり。

 止めさせようと思ってロコは口を開いたが、途中で取りやめる。まぁいいかと思えてしまったからだ。

 そうやってぬいぐるみを弄りながら、楽しげなミヤコが問いかける。

「今日さ、サワタリと立ち会ってみてどうだった」

「鼻血が出た」

「そうじゃない。そうじゃなくて」

 半眼になったミヤコに向かって、ロコが笑う。

「サワタリは、ちょっと正直が過ぎる。どれだけ強くても、あれだけ呼吸を盗まれたら役に立たない」

 少々きついが、その指摘は正鵠を得ていた。動き始めを読まれては、いかな剛剣と言えども相手に届かないだろう。とはいえ、その切っ先の先端を弾き飛ばすなど、想像を絶する難易度だろうが。

「それ、教えてあげなよ。そういうのだったら、キミ、好きだろ」

「好きかなぁ」

 ミヤコからうさぎを奪い返して、胸に抱き、ロコは訊いた。

「あなたって何者なの?」

「ただのフリーターだよ。キミと同じ、そう、人間……」

 気負いもなく、だがどこか乾いた口調でミヤコが言う。そして、話は終わったと言わんばかりに、ロコへ背を向けた。

「待って! ……待ちなさいよ」

 ロコはミヤコの背に言葉を放つ。

「帰る、の?」

 それは、寂しげな声音だった。

「……そりゃもう。ここはボクの部屋じゃないし、まぁ帰るさ」

 首を振り、ロコはそっとミヤコの服を掴んで、呟くように言う。

「ここにいればいい。昔っからいたみたいな顔をしてるくせに。だったら……ちゃんと、ずっと……」

 ロコの言葉で、観念したようにミヤコは息を吐き、ベッドの脇に腰掛ける。それから、優しく見える笑顔で目を合わせて、きっぱりと告げた。

「やめとくよ。きっと、これ以上に近寄って、仲良くなろうとすれば、殺し合いになるだけだから」

 彼女の眼鏡に、今にも泣き出しそうな表情の女の顔、その断片が映り込む。

「……呆れた。散々、引っ掻き回して、好きなことをして。人の気持ちなんて考えもしないで」

「キミだってそうだろう?」

「そんなこと! ……あるかも」

 くしゃ、っとロコは笑った。

「貴女の望む私になれないし、私の望む私にも、なれない。それが私の諦観。……でもキミはボクと違うだろう。キミの望むキミになれる。きっとね」

 そっと、ミヤコはロコの髪に触れた。彼女はそれを拒まなかった。

「自分でいられるようにって、自分でいられたらいいなって。ボクはもう、それぐらいしか考えてないのさ」

 そしてロコもまた、ミヤコの髪に手を伸ばす。怯えたように震えて、それでも彼女はそれを拒まない。

「なにを、馬鹿なことを言ってるのよ、ミヤコ」

 べし、とロコはヘアバンドの上からミヤコの頭をはたく。

「あなたがわからないわ。私だけじゃ、ナツキを見つけられなかったのに。みんなみんな、ミヤコがいたからできたことじゃない」

「いいや。キミはキミひとりでナツキちゃんを見つけていたよ。それは間違いのない事実なんだ」

 強い口調でミヤコは言う。その声には、変えようのない真実、あるいは真実だとミヤコが信じ切っている変えられないもの、が篭っている。哀れなほどにそれは強力だった。

 ロコは溜息を吐く。

「本当にあなたが何を言ってるのかわからないけど……それでも、私だって、貴女のことが好きなのよ?」

 ぬいぐるみに顔を埋めて、ロコは語った。

「もっと、もっと、自分を大事にしなきゃ。できるでしょう?」

 それは本音だった。ミヤコには、どこか捨て鉢なところがあって、ロコでさえそれに気付けるほどのものだったのだ。だから彼女は言ったのだ。心配して。

 片眉を上げて笑い、ミヤコは言う。

「やれやれ、まるで親みたいなことを言うんだから」

「ふん。あなたみたいな子を持った覚えはないわ」

 くすくす笑って、笑って、笑ってから。

 ミヤコはぽつり、言葉を漏らす。

「ねぇ、母さん」

「気持ち悪いんだけど」

「じゃあ父さんにしようか?」

 ロコは何も言わず溜息を吐いた。どう言っても仕方ないと気付いたのだ。

「アルバイトをさ、してるんだよ。募集してたから。で、その職場でとっても良くしてもらってて。でも、雇い主は言うんだ。『別に雇いたかったわけじゃない』。……だから、がっかりして、辞めてもいいかなって気分になってる」

 なにを馬鹿なことを言ってるんだろう。

 ロコはそう思ったが、口には出さなかった。彼女はミヤコではないからだ。だからいつもの調子で言う。

「嫌だったら辞めればいいよ」

 ミヤコの瞳は、眼鏡の陰りの下で見えない。それでもロコの言葉を聞いているように見えた。

「でも、良くしてもらってるのなら、続ければいいと思うわ。すねてないで」

 静かに、ゆっくりと笑い、にやりとミヤコは唇を歪める。

「キミならそう言うと思ったよ」

 そうしてから、ミヤコは疲れたように寝台に体を沈めた。それから言う。

「母さんが言ってた。『嫌なことをしてお金をもらう、それが仕事だ』って」

「私にはまだわからないけど……そういうものかもね」

 確信があるわけではなかったが、ロコはその言葉に同意した。

 彼女が同意する様を見て、ミヤコは腕で顔を覆うと、吐き出すように声を漏らす。

「そうそう。それで雇い主はさ、『私が求めて募集をかけるもんじゃない』って言うのさ。『そういうものだから』って。……だったら、もう、そういう風にできてること、そういう形で成り立っている世界、それに感情を向けるしかないんだ」

 言って、ミヤコは体を起こす。

「ごめんね、変なことを言って。実際、大したことじゃあないんだ。ちょっと言ったり、聞いたりしたかっただけだから」

「え、ええ? うん、それなら良かった、けど」

 目を白黒させているロコへ、ミヤコが笑って言う。

「じゃあ、帰るよ」

「……どこに?」

 今度は、ミヤコもはぐらさなかった。

「『母は峯の背骨、父もまた微塵の骨』……なんてね。そういう身の上だよ」

「だから、あなた、何者なの?」

 飄然と肩を竦め、ミヤコは笑う。

「アルバイトもするフリーター。録音装置は壊しちゃったけどね」

 なんとか理解し、飲み込もうとして、悪戦苦闘しながら。ロコはミヤコという旅人の異邦者に問う。

「結局、どういう仕掛けだったの? 私の家に潜り込むなんて」

「簡易催眠。ちょっとした手品、程度のものだけどさ。他の人には効いて、キミには効かなかったってだけで、大したことでもない」

「そう、なんだ……」

 そこで、ミヤコはロコを見つけた。裏切られたような表情のロコを。

 ある意味でこれはミヤコが目的を遂げたと言えるかもしれなかった。だが、彼女にとってそれは本意ではなく、またそれを行うことはまさしく諸刃を振るうことにしかならない。だからこそミヤコは、あわてて言い募り、言葉を返す。

「訂正する。本当は、……逢いに。だから、効かないようにした。信じて、くれなくて、いいけど。だって、私は――」

 そこまで声を続けたが。

 迷い子はただ、首を振って、告げる。

「――さよなら」

「……さよなら」

 そう言い交わして、ふたりは別れた。

 ロコの部屋の扉が閉まる。

 どさり。

 しばらく後で、握っていた兎のぬいぐるみを抱え込み、横になって、ロコは言葉をこぼした。

「本当に、帰っちゃった」

 途端。

 ぎしっと、寝台に誰かが座り込んで。

「ごめん、……忘れ物」


 柔らかな感触と無地のCDを残して、ミヤコは去っていった。

 使っていた部屋はすっかり片付けられていた。置き手紙がひとつだけあり、それは間近に迫った花火大会のチラシの裏に、妙な達筆で『お世話になりました』と書いたものだった。

 ロコの家族は不自然なまでに少しも騒がず、彼女もまた寂しく想いつつも納得していたので、それはそれだけのことで終わった。

 そして、少し日が過ぎ。

 花火大会の夜、ロコたちは皆で庭先から空を見上げていた。

 華やかな輝き、煙と消え去った闇、賑々しい破裂と炸裂、祭りの音。

 それらが夜闇を彩り始めてしばらく後のことだ。花火を背景にして、UFOめいた光点が一層の騒々しさで天蓋に踊った。赤かと思えば青、青かと思えば白、白から黄、緑、銀、橙、藍、赤。規則性もなく色を変え、馬鹿騒ぎを体現するような雑さでくるくると回っていく。

「きっと飛行機なのね」

 そして、夜天の中央めがけて飛び、消えた。

 この後、ロコの家族は誰一人として彼女が存在したことを言葉にしなくなる。

 忘れたのか、黙っているのか、そもそもそんなもの存在していなかったのか。

 どちらにせよだ。ロコの部屋の中、薄汚れた兎の横には無地のCDが置き放られている。

 CDの裡にあるのは音楽の曲。あるいは世界の記録かそのもの。とはいえ、ロコがこのCDを再生することはないだろう。


 そういう女だ。

 

 

 

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