三本目
草原を進む犬は、明確な意志があるかのように山へと向かっている。木々が密集しているせいだろうか。日が昇っているにもかかわらず、薄暗い場所にたどり着く。そして、そんなところにある——もしくはいる——のが、まともであるはずもない。俺たちがたどり着いたのは、麓にほど近い廃屋だった。
木造のそれにドアはなく、お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難い。壁に空いた穴は、蛇が出入りをしたりクモが巣をはったりと、我が物顔で占領している。
床も全体的に埃っぽいな。こんなところに、人がいるのだろうか。いや、暮らしてはいるらしい。犬の足跡に混じって、人の足跡がある。今は留守にしているのか。
ネズミたちが運動会を繰り広げているテーブルの上には、食器が浮いている。シチューをよそうのに、ちょうどよさそうな深みの皿には、埃一つ混入していない。
犬が、一声吠える。おおっ、どうなってるんだ。皿がふよふよ浮いて、犬の近くへと移動したぞ。まさか、魔法か。手品というには、現実離れしすぎているし、魔法ということにしておこう。俺の存在自体がファンタジーだしな。
いや、しかし本当に不思議だ。手のひらサイズのポーチにペロキャンはともかく、ニワトリや果物、木の実まで出てくるんだからな。それを⋯⋯うん、ニワトリががっつりはみ出してるけど、皿には盛りつけれたな。
「さっきは落ち着いて観察できなかったが、お前はすごいなーー。魔法が使えるのか。そのポーチも便利だよな。ご主人様はいつ帰って来るんだ? ああ、俺が飴なんかになってなければ、ここを掃除してやれるんだけどな⋯⋯」
くぅん、と鳴いた犬が首を傾げるさまは、どこか甥っ子たちに似ていた。犬にしてみれば、どこからともなく声が聞こえてるんだろうか。不思議に思ってるのかもしれないな。犬は落ち着かない様子で、ペロキャンに鼻を近づけすんすんと嗅いでいる。怖がらせたのかもしれない。少し、黙ることにしよう。
そのまま観察していると、犬もとい彼は、飴だけをポーチに収納し直す。そして盛りつけた皿を元の位置に戻すと、スヤスヤと寝息をたて始めた。⋯⋯食べないのか。ということは、飼い主のために集めたのかもしれない。だが、生肉をあんな状態でテーブルの上空へ設置するなんて不衛生もいいところだ。なんというか、こちらの常識がまるで通用しない。
飼い主とコンタクトが取れればいいんだが、望み薄だよなぁ。ファンタジーでお化けといえば、聖魔法や光魔法、鋼のつるぎで討伐されるのがセオリーだ。一般人にすぎない俺など、一刀のもとに斬り伏せられるだろう。⋯⋯あくまでも、俺の常識ではそうだが。
犬の聴覚は人より優れていたはずだ。独り言で起こすのは忍びない。消去法で大自然を観察することにした。
ネズミと蛇と猫による三つ巴の戦いは、まさかまさかの番狂わせで、ネズミの圧勝だった。くっ、ファンタジー世界で、猫はネズミに勝てないとでも言うのか。
どこからともなく現れたネズミ軍団により、ものすごい勢いで抜け毛と骨だけになった敗者たちは、クモ一家の新しい住処になってしまった。うーーん、ネズミとクモは共存してるのかもしれないな。ロマンのない観点から言えば、餌が違うという理由も大きいのだろう。
弱肉強食に思いをはせ、第二の人生——いや、飴生を浪費していると、背後で動く気配がした。ん、目が覚め⋯⋯えっ。目の前の光景は、控えめに言ってもわけがわからない。
犬が起きたと思ったら、犬耳の生えた青年がいた。出入り口は一つ。無論、誰もここには来ていない。ええと、つまり変身したのか。どうしよう、日本語しか話せないけど、通じるのかな。
「あーー、えーーと、おはよう⋯⋯?」
「おはようございます」
うわぁ、即答だよ。つまり、俺の声が聞こえるし、意味もわかるのか。ううっ、気まずい。ずっと犬だと思って話しかけてたんだぞ。どんな顔すればいいんだ。彼はといえば、寝起きのせいか、ボーッとしている。
切れ長の瞳は眠たげだ。髪と同じ色合いの耳も、ヘニャリと垂れている。着用しているものも含めて、かなり薄汚れているな。これはひとえに、周囲の環境のせいだろう。人としても、犬として劣悪な環境にいることは疑いようがない。
「あの、あなたは飴の⋯⋯精霊様でしょうか」
「うふぇい!? いやいやいや、そんな立派なモンじゃないですよっ。もとはただの人間で、気がついたらこうして飴になっていてっ⋯⋯!」
「飴に⋯⋯ですか。災難でしたね。お姿が見えませんが、いまはどちらに?」
「あなたの、目の前にいます。やはり、俺は見えないのですね」
半透明でなくなれば、人と交流する機会は増えるのだろうか。だが、解決策なぞ思いつきもしない。このまま飴として消費されるのを、待つのみなのか。
「ううん⋯⋯すみません、あなたを認識できない。まだ少し、眠くて⋯⋯ごめんなさい」
「いえ、いいのですよ。こうして、 あなたと話すことができるだけで嬉しい」
「力になれなくて、ごめんなさい。僕はヘロペロス。みんなからはペロと呼ばれていました。あなたは?」
「私は飴野真。シンと呼んでください」
「アメノシン⋯⋯不思議なお名前ですね」
「いえ、飴野は苗字で——」
そこまで言いかけて、ペロが驚いたように目を見開く。
「苗字!? あなたは貴族様なのですか! あ、いえ、すみません、ごめんなさいっ⋯⋯!」
青ざめた彼は勢いよく——それこそ床の埃が舞うほど——土下座した。尻尾を足の間に挟み、プルプルと震える姿は、虐げられる者のそれだ。
「落ち着いてください、ヘロペロス。私は苗字こそありますが、ただの一般人です。それも、未練がましく現世に執着する亡霊にすぎません。どうか、楽になさってください」
「は、はひぃっ⋯⋯」
彼はビビりすぎて噛んでいるが、土下座はやめてくれた。男の俺から見ても整った顔立ちなのに、おどおどした雰囲気と上目づかい、あと垂れた犬耳で台無しになっている。
「シン様。亡霊ということですが、お食事はされますか?」
「うーーん、俺は飴に転生⋯⋯というか、憑依してるようなものなので、不要かな。触ろうとしてもすり抜けてしまうんだよね」
「憑依⋯⋯飴が触媒というわけですか。若輩者ですが、シン様はこの身に代えてもお守り致します」
「いやいやいや、そんな畏まらなくていいんだよっ。自分、死んでますからっ。いざとなったら飴は捨ててねっ」
この子、重い⋯⋯。くっ、不確定にもキリッとした真剣な眼差しにときめいたじゃないか。イケメン補正の顔芸はすごいな。俺がヒロインだったら、なんとしてでも生き返る手段を探すところだ。それにしても、なんだか殺伐としたところに来ちゃったな。




