マリービスケット
日が暮れていき、雲が空をすべるようにして流れている。水に溶けていくような紫色だ。
なんだかなあ。
ぼくはあの雲をギュッと抱きしめたい。
けれども、綺麗な空はぼくの両手にはまるで程遠いものなんだから。
ぽつんと一人で立ちすくむしかない。
寂しい思いは夏の夜風になる。
ぼくはポケットの中からマリービスケットを一枚取り出した。
ビスケットをぼろぼろと口からこぼしながら砂利道を帰ってくると、マッチ箱みたいなおんぼろの家の前で可愛い女の子が石ころをけとばしている。
ぼくはちょっと興奮した。
「ハロー、可愛こちゃん。ぼくの家になんの御用? シチュー食べてく?」
「何を言っているの。あなたの恋人でしょう」
しまった。
ぼくはあわててポケットの中のマリービスケットを彼女に差し出す。
ぼくの手はひっぱたかれた。
彼女は落ちたビスケットを踏みつぶす。真っ赤なレザーのスニーカーで粉々にしてしまう。
ぼくは口をあんぐりと開けて立ち尽くす。
彼女はぼくを尻目に夕暮れの中に去っていく。
ぼくは頭をかかえた。いったいぜんたいとんでもないことをしてしまった。恋人をわすれてしまうなんて、せみの抜けがらみたいな間抜けさじゃないか。
ああ、ぼくはこの世の中に許してもらえるんだろうか。
辺りはすっかり闇の中だ。空にはお星さまがまたたいている。
ぼくはぼんやりと頭上をながめる。
ビスケットを粉々にしてしまうやつなんてどうでもいいか。
家ではお父さんがテレビを見ていて、お母さんがご飯を作っていた。
小遣いが尽きていたのを思い出したので、お母さんに銀行通帳と印鑑をせびった。
相手にされなかった。僕はお母さんが作っていたシチューをひっくり返す。
お母さんは泣き出した。お父さんは怒り出した。ぼくはマリービスケットを箱ごと抱えて逃げ出した。家を飛び出した。
ぼくは行く当てのない浮浪者となった。目的も見つからず、希望も見失って、マッチ箱みたいな家の周りをぐるぐると回った。
どうして、あんなにむしゃくしゃとしてしまったのだろう。
なんのことはない、僕の送ってきた日々が、価値のない日々だったからだ。
僕は何もかもがいやになる。
旅に立つことを決心した。
SL機関車に乗って、知らない町に行こう。ちょうど乗りたかったところだ。それに、知らない町には、きっと、たくさんの可能性があるはずだ。
ぼくはとうとう家を離れる。しかし、お腹が空いた。ビスケットの箱を開けることにした。
ビスケットを食べていたら、お母さんがやって来た。
ぼくは鼻先をぷいとそむける。泣いてすがりつかれたって帰ってやるものか。ぼくは旅に出るのだ。風になるのだ。
「マリーちゃんから電話よ」
ぼくはお母さんと一緒に家に帰ることにした。
お父さんがまだ怒っていたけれど、ぼくは彼女からの電話が先だと言って、そそくさと受話器を手にした。
彼女はあやまってきた。ビスケットを粉々にしてしまったことについてだった。
ぼくも彼女を忘れていたことをあやまった。
「じゃあ、もう忘れないでね」
電話を切ると、ぼくは泣けてきた。ぼくはなんて愚か者なんだろう。彼女を忘れていたあげく、むしゃくしゃするあまり、旅に出ようとしていた。
自分からあやまってくれるような優しい彼女がいるのに。
ぼくはマリービスケットをお母さんに返した。
シチューのことは忘れてくれと言った。
ただし、小遣いだけは貰わなくちゃいけない。明日からまた新しい人生を歩み始めるのだから。
そのことをお母さんに言ったら、ぼくはお父さんにどやされてしまった。