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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ベイビードール

作者: 中谷鳴

 いま、主婦層を中心に圧倒的な人気を誇っているのが、『ベイビードール』という玩具である。

 莉花はワイドショーでその存在を知り、俄然欲しくなってしまった。

 ベイビードールは名前の通り、赤ん坊の形をしたお人形だ。しかし普通の人形と違うのは、その作りとプログラムの精密さだろう。まず人形には人工知能に近いシステムが組み込まれていて、表情の豊かさはまるで本物の赤ん坊のようなのだ。怖い顔で見つめられれば泣くし、こちらが笑いかけたりすると、向こうもリラックスして微笑む。身体ももぞもぞ動かすし、指も気分によって握ったり閉じたりと色んな動作が出来る。

 肌には超高性能樹脂スキン素材と命名した、最近開発された人間の肌の感触、弾力に近い素材が使われている。睫毛や眉毛も、とても自然に近い毛の素材が使われていて、一見では赤ん坊か玩具か分からないくらいだ。ただ、この玩具は充電の為の装置が背中とお尻にあって、充電しないで居ると電池が切れて、目を閉じたまま眠ってしまう。エネルギーがある時には、僅かに上下して動いて呼吸しているように見える。

 とにかく赤ん坊を産んで育てているような体験が出来るという、画期的な玩具なのだった。

 莉花は早速、夫にねだることにした。

「ねえ、裕太。わたし、欲しい玩具があるんだけど、今度買い物に付き合ってくれない?」

「玩具? まあ、日曜なら空いているけれど……何買うの?」

「とても凄い玩具なんだから」

 莉花は、ベイビードールが如何に凄いかは実物を見なくては分かるまい、と思い、夫の裕太を買い物に連れ出した。ベイビードールは子供の玩具売り場ではなく、化粧品コーナーの隅に置いてあった。若い女性から中年女性、老女までが群れを成している。

「うわー、何か凄い人だなあ」

「ちゃんと実物を見てみて。本当に本物みたいなお人形なんだから」

 人ごみが嫌いな裕太は尻込みしたが、莉花は構わず腕を引っ張っていった。

 女子社員がベイビードールを片腕に抱き、ミルクを飲ます実演をしている。

「こうですね、本当の赤ん坊にするように、首を支えてあげて、ミルクをあげます。そうするとちゃんと自分でごくんごくんって、ほら、飲んでますねー。何か食べ物が入ると、自動的に温度が微妙に上がり、本物っぽく仕上げてあります。それから排泄物も、勿論あります。ですから専用のオムツを使って、きちんと始末してあげてください。排泄物は、勿論臭うんです。まあ本物ほどではないのですが、この玩具は赤ん坊を育てるのが如何に根気が必要かを若い女性に知って頂くことを目的に作られていますので、そういう汚いようなところもリアルになっているんですね。お腹の腸にあたる部分に、アンモニア液が微量入っているので、それで臭いなと感じられると思います」

 ベイビードールは可愛らしい産着を着せられ、ミルクを飲んだ後は眠ってしまった。僅かに頬が赤いのと、息をしているせいで本物の赤ん坊のようだ。

 莉花は更に、ベイビードールの付属品などに目を通す。専用乳母車。専用ベビーベッド。専用ミルク壜。専用枕。専用掛け布団。専用パウダー。これらの付属品を全部買っていったら、ベイビードールが少々安くても、かなり高くつく。しかしどれもデザインが可愛らしい。莉花の心の中で、むずむずと『欲しい』という気持ちが膨れ上がっていく。

 夫の裕太は感心はしたが、取り立てて興味もわかなかった。しかし妻がかなり熱心に人形を見詰めているのを見、これは買うことになりそうだな……と心の中で呟いていた。案の定、莉花はきらきらした目で裕太に「買って」と言ったのだった。裕太は結婚一年でまだ愛に覚めていず、うっかりその目に騙されては大枚を叩いてしまうのだった。

 さて、そう言う訳で莉花はベイビードールを手に入れた。

 付属品の中には赤ちゃんの髪の毛、とか目玉、というのもあった。金髪にしたい場合は頭の毛を取り替える。碧眼にしたい場合も、目玉を取り替えるのだ。こんなに赤ん坊にそっくりなので、目玉を取り替える時には気がひけた。しかし青い目をはめると、赤ん坊はきょとんとした顔で「うーあー」と言った。日本人の莉花には、どうも青い目の赤ん坊は慣れなかった。しかもその目玉はあまりにガラス球っぽい作りだったので、本当の碧眼の子供には見えず、むしろこの赤ん坊が作り物だという印象を強くする。

 結局、莉花のベイビードールは純日本人の黒髪、黒目という容姿になった。

 突如、赤ん坊がむずがり始める。ミルクか、おしめか。

 ミルクだ。

 なにせ、このベイビードールを買ってきてから、まだ一度もミルクをあげていないのだから、おしめが汚れるはずがない。まだ新品なのだから。

 とにかく説明書を見て、ミルクの作り方を確認する。それによると、人肌に温めた専用ミルクか、それがなくなれば普通の牛乳を沸騰させてから冷ましたものでも構わない、とある。なんだ、それなら専用ミルクを買うんじゃなかった……。と莉花は呟いたが、とりあえず専用ミルクにお湯を注ぎ、冷まして与えてみた。

 ベイビードールはんくんく、と一生懸命ミルクを飲む。あまりに一生懸命なので、喉がつかえないのか心配になってしまうほどだ。そして飲み終わると、ふう、と息を吐いた。喉の部分にミルクの成分が残ると困るので、胃にあたる部分まで落ちるよう、本当の赤ん坊のようにゲップさせてください、という説明書きを思い出し、莉花はベイビードールを抱き上げて、背中をとんとんと叩いた。人形はげっぷ、と大変結構なげっぷをして、そのまますやすや眠ってしまった。

「ふー、なんか、本当に本物と同じねー。ミルクだって何回もあげなくちゃいけないし、夜泣きもするんですって。大丈夫かしら、わたし」

「君が欲しいって言ったんじゃないか。元値が取れるくらいには構いなさいよ」

「まあ、そうね。でも貴方だってパパなんだから、この子の面倒を見てくれても……」

「僕はそんな人形、興味無いよ」

 裕太の態度はそっけなく、冷たかった。けれどまあ、こんな高い玩具を気前良く買ってくれたのだから、文句は言うまい。

 

 莉花は今まで、生活の上での苦労は全くしたことが無い。両親共働きで、子供の頃は多すぎる位にお小遣いを貰っていたし、一応就職した先で、直ぐに裕太と知り合い結婚、ということになったので、裕太の給料と貯金で好きなように生活していた。

 けれど、途中で莉花の中で何かが崩れた。

 今までバランスを保っていたものが、なにかがらんと崩れてしまった感じがした。

 結婚生活はとてもつまらなかった。働いても給料が貰える訳でもないし、夫にだって感謝もされない。それでいて、自分がやらなければ汚れた茶碗でシンクが埋まり、洗濯籠は直ぐにいっぱいになる。埃がそこら辺を浮くし、それらを片付けるだけで一日が終わり、更に食事の支度までしなくてはならない。

 それでいて、夫の給料を頭を下げて(実際にはそこまではしなかったが)貰うという、この割の合わなさ。結婚せずに自分で働いてその金で遊んで暮らしていた方が、よっぽど楽しかったのではないか……そういった心労で、鬱状態になってしまった。

 そのうちに、どうして自分はここにいるんだろう、ここで何をしているのかしら……というどん底になって、もうこれはどうにもならない、という状態で、裕太は莉花を一度実家に帰らせた。そして、実家で療養して、また買い物などをして遊んでいるうちに、莉花は裕太の元に帰りたくなって、戻ってきた。

 とにかく楽しみがなく家事で雁字搦めになってしまったことが、ノイローゼの主な原因であるようだった。その後、裕太は莉花を随分と甘やかすようにしていた。最近ではすっかり元気になって、ケーキ特集のテレビなんか見ては、次の日その店に裕太を連れて行くようになった。

 そして、その甘やかしの延長が、今回のベイビードールなのである。


 夜中になって、やはりベイビードールは泣き出した。

「ああ、やっぱり……夜泣き始めた……」

 まさか一日目でスイッチを切るというのも情けないので、莉花は眠い目を擦り起き上がり、専用ミルクを作って人形に与えた。莉花が買ってきたのは初級用ベイビードールだったから、夜泣きは一晩に一回か二回のはずだ。上級用は五回も六回も泣き、さらにぐずり、排泄物の臭いも強いらしい。そんなのは御免なので、初級用を直ぐに選んだ。

 いつまでもベイビードールと呼ぶのも可哀想なので、莉花は人形にマドカという名前をつけた。

「マドカちゃん、おいしい? たくさん飲んで、ぐっすり眠ってね」

 人形はごきゅごきゅとミルクを飲み終わると、莉花にげっぷをさせられてから、眠った。

「ふー、眠った眠った」

「これが何日続くんだ?」

「あのね、赤ちゃんをちゃんと育てたってことになると、突然言葉を喋りだして、お礼の言葉か何かがあるんだって。でもいつまでもきちんと出来ないと、ずっと夜泣きとかを続けるんですって。そういうゲームなの。早い人で、一ヶ月くらいで合格するらしいわ」

「少なくとも一ヶ月はきちんと面倒みろってことか……」

 裕太は溜息を吐いた。つまり、一ヶ月も人形の夜泣きに叩き起こされるという訳だ。しかし莉花がこんなに機嫌良くしているのだから、水を差すこともない……。

「莉花、今一番大事なものはなんだい?」

「え、急に……何? そうねえ、もの? 人?」

「どっちでもいいけど」

「ものなら、断然マドカちゃんね」

「僕よりも、ベイビードール?」

「ふふ、でも火事でも起きれば、貴方よりマドカちゃんを先に助けるわ。だってあの子は起き上がれないもの」

 物凄い入れ込みようだな、と裕太は思った。これは良い兆候なのだろうか? またあのノイローゼの日々に戻ってしまったりはしないだろうか? 

 裕太には分からない。だが、ここでベイビードールを取り上げでもすれば、それこそ莉花はノイローゼになってしまいそうだった。

 とにかく、様子をみよう。

 何かに熱中出来るようになったのだから、これは良い兆しのはず……。 


 次の日も、その次の日も、莉花は見たことも無い早さで家事を終えた。

 掃除機をかけて、洗濯物を干して、そしてマドカに微笑みかける。

 ベイビードールを構うという目的があるため、家事の苦を忘れていられた。

 人形で遊ぶ、といっても赤ん坊として作られているのだから、手間がかかることばかりだ。けれどおままごとを楽しむ幼稚園児のように、莉花はかいがいしく世話を焼いて楽しんだ。マドカの機嫌が良くなって表情が明るくなると、嬉しくなるほどだった。

 一週間、莉花はすっかりベイビードールのとりこになっていた。

 何を優先するにも、まずマドカの面倒をみることから。裕太の存在を忘れたように、休みの日もマドカに話し掛けるばかりだ。けれど下手なことを言ってまたノイローゼにでもなったら、という懸念から、裕太は別に何を言うことも無かった。莉花が元気になるならそれでいい、いいのだが……。

 莉花が風呂に入っている間、裕太はベイビードールを覗いてみた。

 本物の赤ん坊がすやすやと眠っているように見える。

「こんなものが……ねえ」

 どうしてこんなに精巧に出来ているのか、はっきり言って気持ちが悪い。

 そしてそれにのめり込む妻……。

 裕太はベイビードールを持ち上げた。

 重い。

 平均的な乳児の体重まで備えている。

 本当に本物の赤ん坊だ。

 ………。

 

 月曜日。

 莉花はマドカに飲ませる為に、専用ミルクを探していた。結構買い込んだと思っていたのだが、いつのまにか無くなってしまった。

 今日は買いにいけないし、無いなら牛乳で代用すればいいと書いてある。とりあえず今日はそうしていた。

「ま、いいか……」

 そこへ裕太が帰ってきた。

「あ、お帰りなさい。この間、専用ミルクどのくらい買ってきたっけ? なんか無くなっちゃった」

「専用ミルク……。実は、帰りにこれ買ってきたんだけど」

 そう言って裕太の渡した袋に、乳児用粉ミルクが入っていた。

 莉花は吹き出した。

「ぷっ。嫌だ。これ本物じゃない。幾ら赤ん坊そっくりって言っても、玩具なのに。なーんだ、意外に裕太もはまってるんじゃない」

 裕太は照れたような苦笑いを浮かべた。

 莉花はせっかくだから、と言って、その粉ミルクでミルクを作った。

 専用ベッドの中でマドカはすやすや眠っている。けれどもうすぐで目が覚めるはず。お腹が空くはずだから……。

 その内、びええええと言うけたたましい泣き声が聞こえてきた。莉花ははいはい、と言いながらベッドに近づく。そして作っておいたミルクを与えた。マドカは勢いよく飲む。

「お腹、減ったんだね」

「うん、すごい飲みっぷりよ」

「こうしてみると、結構可愛いね」

「あら、そう思う? 良かった、裕太もはまってくれると何か嬉しいな」

 莉花の機嫌はますます良くなった。それから清拭を裕太がすると言い出し、莉花は喜んで任せた。

 とても上手くいっている。

 家庭の中が明るくなっている気がした。


 次の日に莉花は、裕太が会社に行っている間、折角買ったのだからと専用乳母車を出してきて、外を買い物がてら散歩することにした。 

 直射日光を受けて泣き出しそうにむずむずしていたので、慌てて庇をのばして影を作った。するとマドカは静かに眠ってしまった。

 公園を通ったところで、近所の主婦が群れて立ち話をしていた。向こうは莉花に気が付くと、控えめに微笑んだ。

「こんにちは、お散歩?」

「ええ、ちょっとお買い物ついでに」

「あら、赤ちゃん……」

「ああ、知っています? これ、ベイビードールっていうとても精密に出来た赤ちゃんの人形なの。ほとんど本物みたいなんですよ」

 主婦達は顔を見合わせて、複雑な表情をした。彼女たちは莉花がノイローゼになって実家に帰ったりの大騒ぎを、全て知っているのだ。

「あら、そう……可愛いわね……」

 気のない言葉だった。莉花は気分が悪くなり、すぐに「それじゃ、急ぐので」と言ってその場を去った。

 気分が酷く悪くなっていた。

「なんなの、人のこと変な顔して見てさ……」

 公園の端っこのベンチに座り、もう買い物をする気力も無くなっていた。

 気分が悪い。

 気分が悪い。

 どうしてあんな目で見られなくちゃいけない訳?

 嫌な人たち……。

 莉花は自販機でメロンソーダを買った。

 ぐびぐびと飲み込んで、炭酸で嫌な気分を飛ばそうとしたが駄目だった。

「ああ、いらいらする……」

 酷く苛立った。

 あのなんだか奇妙なものを見るように莉花を見る目。

 あれが腹立たしい。

 ふとマドカを見ると、ぼんやり薄めを開けていた。

 莉花はそれを見て、自分がベイビードールを本物の赤ん坊のように散歩までしているのを軽蔑されたのだと思った。玩具を散歩させているなんて、やっぱり頭がちょっとおかしいんだわ、とか言っているんだ……。

 そう思うと、今までこんなにいとおしいと思っていたベイビードールのマドカが急に憎たらしくなってきた。

 莉花は持っていたメロンソーダを、無理矢理マドカの口に含ませた。

 マドカはあっぷあっぷ言いながら炭酸に耐えている。そして飲み込んだ、と思ったところでもう一度ソーダを流し込む。

 こうしたら、どうなるのかしら? 壊れちゃうかな?

 マドカはげえーっと大きな声を出して、メロンソーダを吐き出した。

 それから大きな声で――酷く大きな声で泣き出した。

「ああ、もう、やだな。面倒……」

 けれどスイッチを止める気にはならなかった。

 つい無茶苦茶なことをしてしまったけれど、きちんと育てた暁にベイビードールが何を喋るのか知りたかった。莉花はマドカを抱き上げ、ぽんぽんと背中を叩いてあやした。マドカはずっとひひっく、ひひっく、という奇妙な音を喉から出していた。

「炭酸がきつくて、故障してしまったのかしら……」

 莉花は呟いた。


 夜中になると、マドカは五回も六回も夜泣きをした。

 その度に莉花は跳ね起きて、ミルクを作ったりおしめを取り替えたりあやしたりしなくてはならなかった。

「ああ、もう何で? 初級用のはずなのに……」

 やはり昼間のメロンソーダで、何処か故障してしまったのだろうか?

 裕太が寝ているのを見ると、何だか酷くむかむかする。

 やっぱり、こんな面倒な玩具、買うんじゃなかったかな……。

 莉花は心の中で呟いた。

 いつのまにか朝になっている。

 ほとんど一睡も出来なかった。

 マドカは今、すやすや寝ている。

 時折変な音のしゃっくりをする。

 そして、もう邪魔なものという気持ちしか、莉花に湧いて来なかった。


 ベイビードールの使用注意書きに、もし廃棄される場合は業者に送るか、専用スプレーで表皮を溶かしてから捨ててください、とある。

 あまりにリアルな造りのため、そのまま捨てていたら死体と勘違いされかねないからだ。

 専用スプレーは専用グッズを大量購入した時に、一緒に買っていた。その時はそれを何に使うか知らなかった。ただ専用品を全部買い占めただけだったから。

「もう、ゲームに成功した時の言葉なんて、いいや……」

 濃い隈を作った顔で、莉花は呟いた。

 何だか疲れる玩具だった。

 もう、いいや。こんなの、捨てちゃおう……。

 スプレーは強力な苛性ソーダの濃縮水溶液で、表皮を溶かし、骨組みだけにしてしまうらしい。危険なので風呂などで使い、アルカリ性のものとは絶対に混ぜないでください、と書いてある。

 莉花はマドカを専用の大きなビニール袋に入れた。

 その途端に、マドカは泣き出した。

 スイッチを切るのを忘れていた。

 まあ、いいや。これでもう壊れちゃうんだから。

 莉花は、専用スプレーに手を伸ばした。

 そして、思い切りマドカに噴射した。

 大きな泣き声が聴こえて、そして顔が溶けていった。

 どろどろと……。

 幾ら待っても、骨組みとやらが現れない。

 ただ、どろどろとマドカの組織は流れていく。

 グロテスクな色だった。

 莉花はじっと、それを見つめていた。

 

  

 

*月*日に発売された、ベイビードールという玩具が原因で、あってはならない悲劇が起こりました。**区に住む主婦、河田莉花容疑者は、ベイビードールと自分の子供を勘違いし、ベイビードールを破棄するためのスプレーで、なんということでしょう、自分の本当の赤ん坊を、無残にも酸で焼いてしまったのです。同容疑者は、依然として容疑を否認しています。自分の子供など居ない、自分はベイビードールを捨てようとしただけだ、と繰り返していると言います。警察の捜査では、事件はベイビードールが余りに人間の赤ん坊にそっくりな為に起きた事件だとして、業者に対しベイビードールの回収命令を出しました。このベイビードールというのは、非常に精密に出来ている玩具なのですが、スイッチなどの部分によってそれが作り物であるということが分かるはずではあるのですが、どうしてこんな事態が発生してしまったのか、容疑者の家族は業者に損害賠償を求める訴えを起こそうと考えているようです……。


 

 

 莉花が子供を産んだのは、丁度ノイローゼが絶頂の時だった。

 記憶は曖昧で、自分が子供を産んだのかも分からないような状態だった。

 赤ん坊を見せても錯乱し、手のつけようが無かった。

 仕方が無いので、裕太がしばらく人工母乳で面倒をみていたが、それもなかなか骨が折れた。

 ようやく莉花が良くなったと思えば、莉花は赤ん坊の人形になどはまりだす。

 裕太は呆れるやら、途方にくれるやらだった。

 しかし、ベイビードールを持ち上げた時に、こんなにそっくりならば本当の娘と取り替えても分からないのではないか? と考えた。

 なにせ莉花は、夫婦のダブルベッドの横に居る自分の娘は全く目に入っておらず、存在さえ確認していない。

 まだまだ病んでいたのだ。

 そこで、莉花が風呂に入っている間に、可哀想な娘とベイビードールの服を取り替えた。

 そして莉花は赤ん坊が摩り替わっていることに気づかず、娘をベイビードールのマドカだと思い込んでかいがいしく世話をしていた。

 このまま、娘を玩具だと思っていようと、大事に育てていればその内自分が子供を産んだことを思い出すのではないか――それか、折をみて話せば、あれだけ可愛がっていたのだから、それが本物の娘だと分かったら喜ぶのではないか……。

 裕太はそう考えて、赤ん坊を取り替えた。

 そうすれば、家庭は少しずつ安泰し、普通になると思っていた。

 まさか、莉花がベイビードールをこんなに早く廃棄したいと思うなどとは露ほどにも思わなかった。

 赤ん坊は溶けて、異常な死体となっていた。

 莉花は帰ってきた裕太に、明るい声で言った。

「もう、ベイビードールには飽きちゃった。だから、捨てる為の作業をしていたのよ。ほら、この専用スプレーでね」

 莉花は今、刑務所に居る。

 娘は無残に殺された。

 業者は血眼でベイビードールを回収している。

 裕太のベッドの脇に、スイッチを切ったベイビードールが死んだように眠っている。


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