大弓士の弓力
ただの洞窟に向かう可能性がある冒険者は、今や神々の観察の対象になっていた。
神々に危惧を抱かせる異世界人を勝手に征伐してくれる者がいれば、それだけで平穏無事の幸運というもので。
人間界不介入の原理原則を守ることができる。
それはそうと今、神々が力を入れて観察しているのは絶対魔術師ヤナイでもなければ、サムライパーティのマホト一行でもなかった。
王国の南西の国境付近にあるさびれた村の出入り口に、両腕のない男がいる。
どちらかというと老年に差し掛かった白髪の男は、ひとりでぽつんと木のイスに腰を下ろして死にぞこないの、しかし鋭い目で前を見据えている。
村には他に誰もいないように見えた。
「お前、弓使いだろ。たった一人で何ができんだ」
その視線の先にいたのは、ライン・ハート(大弓士LV68。道中でモンスターを倒してすこし上昇)だった。
真っ白なギリ―スーツに身を包む。
まるでその白装束は死に目に向かうかのようだった。
どう考えても冬場でないにもかかわらず、緑色の草木が生い茂る場所でその白い服を着るのはおかしかった。
「……」
寡黙なライン・ハートは何一つ答えなかった。
存在感すら消している。
自然と一体化する木のごとく、その長い長い耳をぴくりとも動かさない。
彼がズケの依頼を差し置いてまで、この村の辺境にやってきたのには明白なわけがあった。
村から数百メートル先にそのまま見える建物がある。
鉄塔。
賢者の鉄塔と呼ばれる銀色の光沢を放つ不気味な搭がある。
直線状に建ち、頂上付近で円形のドーム状になっているその独特の建物には、かつて賢者が住んでいたらしい。
そこに探しているモノがある。
エルフの未来を救い得ると予言されたアイテム。
最近、賢者の鉄塔に村の娘をさらわれているというのがもっぱらの噂だった。
もう10年も前に賢者はどこかへ身を隠しており、もはや誰もいないはずの場所になぜ娘がさらわれていくのか。
それは盗賊団が賢者の鉄塔を根城に若者を集め、暴れまわっているかららしい。
ライン・ハートはただ黙々と賢者の鉄塔に向かうために、村の右側の森の中へ入ろうとする。
それは最短のルートだった。
両腕のない老年の男が呼び止めてきた。
「待て。そこには狼がいる。人間を恐れない狼がな。盗賊団の連中が何百人がかりで火を振り回さなかったら問答無用で襲い掛かってくるぞ。二日遅れるかもしれないが、もしもあんたが賢者の鉄塔を目指すなら左の方を回り道するんだ」
ライン・ハートは喋らない。右側の森へ黙ったまま歩を進める。
まるで枯れ木のようなほっそりとした足をカクカクと進ませていく。
「どんなすごい弓士か知らないが、100発100中の名手でも無理だ。前衛がいなかったら弓を射る前に殺されるだけ」
常識がある。
弓士には前衛が不可欠であるということ。
相手が単体ならまだしも何人もいる場合、前衛がおさえてくれていなければ次の矢を射る前に攻撃を受けてやられるというものである。
その次善策として弓士は短剣を必ず携えるのだが、大弓士ライン・ハートは脇に何も備えていなかった。
ただ、数百本近くの大量の鋼の矢を背中に備えていた。
そして、何の変哲もない長めの木の弓を右肩にかけていた。
もう片方の左肩には子供が使うのではないかという小さなミニチュアみたいな紅い弓をかけていた。
何よりも、たった一人で露骨に目立つような白い服装に身を包む。
「……」
「その白い服装どう考えてもおかしいだろ。襲ってくれって言っているようなもんだ。もう一度言う。狼が出るんだよ。それも大群だ。オロノウっていう賢い狼が率いている。何百人と人を揃えれば、オロノウは賢いから襲ってこない。だがな、そうでなければ俺みたいに腕を取られる」
ライン・ハートは振り返らずに一礼してから、また歩を進め出す。
その長い長い髪は動きが精密すぎて揺れすらしなかった。
後ろからあきれ返る声が聞こえたが、気にすることがなかった。
「まったく……すごい運でもあるっていうのか」
ライン・ハートは案の定、取り囲まれていた。
みずみずしい緑の中にくねった茶色の獣道があって左にカーブして右に折れ曲がり、向こう側で消えていた。
獣道の両脇には白い花が咲き、彩をもってこの森林をたたえている。
視界の向こう側はまったく見えないほど木という木がその枝葉を広げるように所狭しと生い茂っていた。
木と木の間に光り輝く大きな目が四つ。
それが無数にあることを確認すると全方位から二匹で一組の狼たちが浮かび上がってきた。
三百六十度すべてにびっしりと狼たちがいる。
二匹で一組を作っている賢さもさることながら、隙間と思える場所もよく見てみると奥行きに狼が待ち伏せしている。
つまり、抜けられない二段構造になっているのだ。
抜けられると思った場所に向かうと、左右、そして奥の正面から狼たちが襲ってくるのが想像できた。
何よりも、狼一匹一匹がでかかった。
どれぐらいのサイズかというと成人男性の二倍近くの体長を持っており、でかでかとした図体は見上げなければならず、近くの木にかじりついただけで倒してしまうだけの迫力を感じさせた。
一斉に狼たちが牙をむき出しにして、「ぐうううう」とうなりはじめた。
空気がぶぅううーーーんと揺れるぐらいの振動を引き起こしながら、円形の包囲が20歩から15歩へと縮まってくる。完全無欠の生きた陣形が押しつぶすかのように迫ってくるのだ。
ライン・ハートだけが白くこの場で浮かび上がっている。
1、2、4、8と狩人特有の倍数で一気に数えていき、この場にいる狼の数が101匹いることを目算で確認した。
一匹射れば、すべてが一斉に襲い掛かってくるだろう。
さりとて射なかったらこのまま潰されるだろう。かの狼たちの牙を耐えるだけの耐久力はあいにく持ち合わせていなかった。
瞬間のうちに右腕をそがれ、頭をかみちぎられ、五体をばらばらにされるのが想像できた。
ライン・ハートは身動きもできずに、浅く輝く銀色の目を細めた。
「……っ」
想像を超えるレベルで統率され尽くした狼ども。
ライン・ハートの目は右に左に動く。その頬にはじわりと汗がにじんでいく。右手が動かせなかった。
動かせば、喉を震わせている狼が一斉にとびかかってくるのがわかったからだ。
弓士にとって、ほぼ絶命が決まった状態。
こんなときに二人の師匠について思い出してしまう。
ライン・ハートには二人の師匠がいた。
一人は機械仕掛けの弓作りに熱中し、結局は一言もかわさなかった師。
いや、師と呼ぶにはあまりにも弓の道具にこだわりすぎであり、腕前は無きに等しかった。最終的には自らをサイボーグ化し、弓と一体型の腕を作り上げて、自動照準機能で100発100中を実現した。
もう一人の師は打って変わって異常なほどおしゃべりで、のべつまくなく四六時中喋り続けていた。
――矢で射ず、心で射るのよ。
その言葉は決して精神論ではなく。
――これが不射の射よ。
老師が弓も持たずに手ぶらで構える。
はたから見ていると弓を持たずに構える様は滑稽ですらあった。
空に向けて弓を引いていって離すと、手をわずかに震わせる。演技でもしているのかと思うと、鳥が何度も落ちてきた。あっけなく落ちてきた。何回やっても信じられないぐらいに100発100中で落ちてきた。
もはや弓具を必要としない師の姿は、弓士とは呼べない境地だった。
射るときの口癖はいつもいつも同じ。
――これが不射の射よぉ。
酔いどれのような発音の悪い声が耳にこびりついている。
ライン・ハートはずっと思っていた。
正直。
――参考にならなかった!
全然、まったく二人とも参考にならなかった。
いくら見ても同じようにはできなかった。機械づくりの技術も身に付けられなかったし、不射の射とかワケがわからなかった。それ用のスキルすら存在しなかった。鍛錬しようがなかった。
それはもう。
師――匠じゃないよ!
目の前の狼が回想から引きずり出すように、「ぐぉおおあん」と牙をむきながら吠えた。
もう8歩ほどの距離に迫っていた。彼ら狼たちからしたら4歩も掛からない近さで、その赤黒い吐息すらこちらに掛かってしまいそうだった。
改めて近くで見ると、本当に大きい。
半円を描く鋭い牙に至っては人の頭蓋よりも大きいのではないだろうか。一噛みで頭頂部からアゴを貫いてしまうだろう。
ライン・ハートは左肩から短い方の弓を即座に外した。
一匹の狼が右前方から役割を果たすように囮として頭を傾けて突出してくる。
――だから俺は……俺だけの境地を極める!
『ロマンシング紅短弓(534万G)』
所持者そのものを絶望させるぐらいに短い弓だった。
手の平サイズを三倍にしたぐらいの本当に短い弦で、大人ではもう腕を完全に伸ばすぐらいには引けない。どちらかというと弓の弦というよりは、円形の腕輪やチャクラムのように見えた。
一気に背中から101本の矢を取り出すと、その小さな弦に無理やり装填した。
ライン・ハートの肩から薄めの黄色いアウラが解き放たれる。
連射スキルS+発動。
短弓が七色に輝き出す。光がほとばしるかのように上から下に流れた。
ライン・ハートはその器用さを武器に、全力で踊りながら繊細な手使いで矢を連射していく。
「連射連射連射連射連射連射連射……!」
三百六十度、連射し続ける。
右に左に狼の巨大な頭が突っ込んでくる。山から落ちてくる岩石のごとく。
その眉間に矢が一発当たるごとに狼が「きゅいん」と声を上げて突っ伏していく。遅れてドスンという重低音が地面に響く。
二匹一組の狼に対して、一匹撃った直後にカクンと正確無比な動きで機械人形のように隣に合わせる。
その直後に問答無用で短弓から発射していく。
そこら中に折り重なるようにして、右に左に後ろに前に狼という狼がライン・ハートに突っ込んでくる。
ダダダダダダという間の無い連射音が放たれて、短弓に備えられた100本近くの矢の盛り上がりが目減りしていく。
円を描きながら無数の矢が線を引いていくと、狼の眉間に一匹一矢、十匹十矢、矢突き立つ狼の躯が山のように築かれていき、まるで防壁のごとくライン・ハートの二歩ほど周囲から前に出られずに取り囲んで息絶えていく。
肉塊の円形の山にライン・ハートは囲まれていた。
ライン・ハートが息を荒げながら顔を出す。まるで津波のように狼の大群が上からのしかかってくる。
「連射連射連射連射……っっ!」
半歩出ると、また圧倒的な連射が始まる。ダダダダダダとまるで壊れてしまいはしないかと白い熱気を上げながら短弓から矢が全方位、正確無比に放たれていく。
ライン・ハートは指先を高速に動かし、矢の位置を絶妙にコントロールしながら最小の動きで弦にそなえ、最短で矢を突き出していく。
狼はすべて眉間にその一矢を立てながら舌を出して息絶えていく。どうあがいても二歩よりも先に近づくことすらできずに。あまりにも矢を放つスピードが速いために、そこから先の間に入ることができなかった。
肉塊の山が三つできたときには、この場に生きている狼はいなかった。
賢い狼。されど執念深い狼ども。
大弓士を倒せるまで攻撃をやめなかったのだ。引き返すという判断もできないほど短くも濃密な数分間だった。
「……」
ライン・ハートはその黄色いアウラを輝かせながらレベルアップ(LV70)の余韻すら噛み締めることもなく、一回転してからその短弓を肩に収めた。
近づく間を与えず、たった一人で101匹の大狼を皆殺しにした。
――その連射力、常識を覆す!
弓士にもかかわらず、前衛を必要としない。
それは決して道具によって実現されたものではなく、彼独自の工夫と器用さによって実現した弓力だった。
本来踊り子がダンスのために使っていたこの優雅なる紅短弓を実戦に転用し切った。
ほとんど誰も扱いきれないであろう弓を己の技術でモノにしていた。
にもかかわらず。
「ありがとう、くれたん」
ライン・ハートは照れくさそうな顔で名前の付けた紅短弓にそう呼びかけたのである。
唯一、心を許している弓具であった。
紅短弓は、ジューと肉を焦がすかのような殺戮の余韻を上げていた。
なお、彼が言葉を発したのはこれが五日ぶりである。
神々の一柱がその様子を見下ろしていて感心したようだった。
戦神がその戦ばかり考える頭脳で言った。
「モンスターダンジョンに、めちゃくちゃ相性のいい弓士だ」
与えるべき称号について今は思いつかずとも、道中の終わりには与えたいと思っていた。