ダンジョン強化デー
ただの洞窟の奥の細道に、小さな、本当に小さな墓が建てられていた。
槍が二、三本刺されているだけの簡素な墓だった。
その前で金髪軍曹タロウが、ずっと突っ立っていた。
まるで抜け殻のような姿を見て、リリンは気になった。
ただでさえゾンビなのに、その後ろ姿はもはや廃人のそれと変わらないのではないか。微動だにしないさまと言い、不気味にすら写る直立不動の姿。
「どうしたのデスか?」
声をかけても反応が無い。
リリンがそっと近づいていくと、その顔が見て取れた。
金髪軍曹タロウは大粒の涙をその頬に伝わせて泣いていた。
「悔しいぃいですぅ」
部下を守れなかったことが、よほど悔しいようだった。
すでに、「悔しい」という感情を取り戻していた。
「これはこうで、だいたいこれぐらいになるよな」
伝崎はモジャ男の武器防具屋で借りたメモ用紙とペンで簡単な計算を行った。
ただの洞窟の部隊にフル装備を与えるとなると、こうである。
白竜鉄の槍 20万G×17本=340万G
白竜鉄の盾 15万G×17個=255万G
白竜鉄の弓 15万G×10張=150万G
白竜鉄の鎧 25万G×7着(胴体に装備できる前衛ゾンビ部隊のみ)=175万G
白竜鉄の矢 1000本=80万G
崖赤の大盾 111万G(防御力411、筋力が二段階アップする)
星潜竜の長槍 122万G(攻撃力423、筋力と耐久が一段階アップ)
『合計1233万G』
今までにない装備強化額だった。
圧倒的な強化をもたらす金額が、1233万Gだ。
これだけのお金を支払えば、ただの洞窟の武器防具が三つの時代を超えるぐらいに進む。
だが、それは財宝額の減少も意味し、期待以上の効能を下げてしまうかもしれない。
ある意味で冒険者のレベルが下がることで危険が無くなると言えばなくなるわけだが。
妖精のオッサンはじろじろ伝崎の顔をのぞきこんだ。
(どうすんだぁ? 伝崎ぃ。値切るか? いやぁ、今までのお前さんだったらこれもひとつの投資と考えて店を育てるためにその額を支払うかもなぁ)
伝崎の横顔は笑っているのか怒っているのか分からないぐらいに前のめりになって口角があがっていた。
どこまでも真剣な表情が口ひげの下に見て取れ、その歯がにぃーっと見えるぐらいだった。
その横顔を見て、妖精のオッサンにはわかった。
顔が「ぜってぇー値切る。迷わず値切る」と言っていた。
――飛ばしたいんだ。
ダンジョン経営を圧倒的に進めたいと思っているのが感じ取れた。
上質な武器防具も手に入れて、さらには強い冒険者たちも倒したいってことがじんじん伝わってくる。
それが莫大な利益を生むからだ。
伝崎がじわりと夜色のアウラを放ち始める。最初は手のひらから、そして次は背中からそれを露わにしていく。
ほとんど墨のようにすら見えるそのアウラが妖精のオッサンに触れるとぞわぞわと寒気のようなものがして肩を震わせた。
伝崎は力強く澄んだ声ではっきり言う。
「新しい試したかったってこと……やるわ」
そう言い切ると、アウラがばんっと辺りに拡散した。
隣に立っていたマダムはそのアウラの圧に腰を抜かしてしまう。
禍々しいぐらいの黒さだった。
それがアメーバみたいにとがるように広がっていって、モジャ男の店主の身体を捉えた瞬間。
夜色のアウラを店主に凝縮した。
伝崎は見計らったようにアウラを光らせて、交渉スキルを発動した。
夜色のアウラと交渉スキルを合わせることで、何が起きるのかを試したかった。
モジャ男の身体からアウラがロウソクの火が消え失せるかのように無くなり、目がほとんど虚ろになっていく。
伝崎はにやりとしてから、たった一言だけ放った。
「安くしてくれねぇか?」
もはや、それは交渉ですらなかった。
本来、交渉というものはあの手この手で有利な条件を引き出せるように、色々なことを提示する。
相手が興味を示すもの。相手にとってもメリットがあること。
それが交渉術の基本なのだが、それすら行わずにただ一言。
「安くしてくれねぇかな?」
伝崎が行ったのは、ただその一言の繰り返しだったのだ。
それが意味することは、このスキルの使い方に絶対的な自信があるということ。
変容しつつある夜色のアウラの吸収力と、交渉スキルの人目を引く力を合わせたならば。
もしかしたら相手の意識に直接……いや、それは言い過ぎかと伝崎は苦笑いした。
モジャ男はまるで操られているかのように。
「ワカリマシタ……オヤスイゴヨウデス」
ロボットみたいに応えた。それから紙に違う値段を書いていった。
1233万G→692万G。
全武器防具代の値段が、ほぼ5割引きに近い価格になった。
これは原価に近い値段と言ってよかった……。
692万Gを支払うだけでただの洞窟が生まれ変わるのだ。
伝崎はカウンターに金貨をキンキンと音を鳴らして積み上げていって、即座に現金で支払うことにした。
資金2354万4255G→1662万4255G。
伝崎は手をあげてニッコリとしてから威勢の良い声で言う。
「サンキュー、あとで投資するからさ」
「どうもーありがとうございます」
「至急、この所定の場所に運んでくれ」
伝崎が簡単な手書き地図を示すと、モジャ男が口笛を吹く。
馬車がすぐに店先に現れて最新式の白く輝かしい武器防具が積み込まれていく。
誰もその場で起きた魔術的な出来事。
いや、魔術ですらありえない現象に対して何一つ言及することができなかった。
マダムも、妖精のオッサンも、それを見下ろしている影忍でさえも。
ただただ驚くことしかできなかった。
世界の中に黒点が突如として現れたかのようなものだった。
太陽という燃え盛る物体に異質な黒点があるように、宇宙空間にブラックホールが存在するかのように、伝崎そのものが世界で浮かび上がる一点の黒に見えた。
いまだに伝崎の周りを夜色のアウラが覆っている。
「この力があれば……」
伝崎は店主に背を向けて、胸の前で右拳を握る。
「……ダンジョン経営が桁違いに進む!」
確信だった。
ここまでの交渉能力ならば転売も考えられるだろう。
しかし、原価を割るわけでもない。
確かに元魔女のアイリスみたいに原価すら割ってるようなモンスターの値段ならば荒稼ぎもできるかもしれないが、そんなみみっちいことしなくいい。
ダンジョン強化に生かし切り、ただの洞窟で稼いだほうがいい。
今まで元魔女のアイリスの店を取られたり、理不尽なことが山ほどあったが、それらを形勢逆転できる最凶の交渉能力を得たとすら思った。
伝崎の周りを取り囲んでいる黒い黒い境界線が、武器防具屋の中で不気味に揺れている。
「よっし……これであとは」
次の言葉を口にしようとすると。
世界が一瞬暗転した。
ぶわぁーーと握り拳が開いていく。確信を持った右拳が、まるで力なくだらけてしまう。
「……っ!?」
さっきの延長線上で足裏から力が抜けていくような、地面がそもそも落ちていくような、何かを腹の底からぶっこ抜かれるような感覚があった。
めまい。
そんな言葉では言い表すことのできないほどの立ちくらみが襲ってきた。
体中のアウラが渦巻きながら吸い込まれていく先は胸の中央部分であり、さっきの確信を奪ってしまうほどの吸引によって反射的に伝崎はのけぞる。
止めようとしても止まらない。
延々と吸収され続けている。
次の瞬間、伝崎は恐怖していた。
自分自身を畏怖するという表現はあまりにも的外れだ。
しかし、もしも自分が他人だったら畏怖を抱いているであろう感情が体中を震わせた。
(なんだこれ!? 俺がアウラを吸った張本人のはず! なのになんで俺が俺自身に吸い込まれていくような感覚があるんだ)
自分の中から何かが欠落していくような感覚だった。
伝崎は片手をとっさに机の上について身動きできなくなった。
背中には夜色のアウラが荒ぶっている。
胸をおさえて呼吸を「はぁっはぁ」と整えようとすると、徐々にその吸引感覚が消えていった。
それに合わせて、体外に放たれていたアウラが体内に収束していった。
じんわりと体中に汗をかいていた。
嫌な予感がする。
――こんなこと続けられるのか?
交渉スキルと夜色のアウラの合わせ技によって確かに驚異的な交渉能力が実現した。
だが、それに伴う代償として、驚異の力の反動として、体験してしまったのだろうか?
伝崎は次第に冷静さを取り戻したように直立し、ゆっくりと胸元から服装を整える。
間近で見ていた妖精のオッサンが心配そうにポケットの中から聞いてくる。
「おいおい、大丈夫かぁ? 伝崎ぃ」
「ああ……」
額からしたたり落ちそうになる汗をぬぐった。
(とりあえず、気を付けよう……とりあえず?)
伝崎の中に妙な疑問が湧いた。
そもそもどうやって気を付けるというのだろうか。
考えてみてほしい。
なぜ、こんな現象が起こったのか理由が全く分かっていないというのに、その対策をとれるわけがない。情報が圧倒的に足りず、まったくこのアウラについての理解が足りていなかった。
――そして、どうなっていくのかも。
誰か知っている人間はいないのか。
(リリンに聞いてみるか? そもそも知っているのか。俺、そういやアウラ変わったけど、なんでなんだ?)
今においてさえもどんどんと濃さが増し、変わっていっているこのアウラ。
根本的なことを考えたことが無かった。
ずいぶん前に買った鍛錬白書をもう一回見てみるか。あそこにアウラの性質について書いてあったはず。
何か問題が起きたわけではない。ただ不可解なことがあっただけだ。
伝崎はそう考えることで、首を一回振ってから普段の冷静な表情に戻る。
妖精のオッサンが顔をのぞきこみながら聞いてくる。
「装備の強化もできたことだし、一旦洞窟帰るかぁあ?」
「いいや……」
伝崎は店からそそくさと出ていくと、ブラックマーケットを見渡して両腕を広げる。
そこかしこに広がり渡るバラック。その上に黒煙があがり、モンスターの叫び声や馬のいななきが聞こえてくる。
向こう側にはまだまだ店があった。
「まだだ」
――自分の事は今はいい。ダンジョン強化が先決だ。
揺るがぬ決心。
進む先はダンジョン経営を推し進めることのみ。
――必ず、強い冒険者がやってくる。
それはサムライパーティに限ることではなく、これからどんどんと訪れるであろう冒険者たち全てを差していた。
備えなければならなかった。
いいや、そういう消極的な意味ではなく、伝崎は積極的に見据えていた。
これからの冒険者を。